と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

4月3日(月)のつぶやき

2017年04月04日 04時52分53秒 | とーま君の流儀2017
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トイレ掃除PV

2017年04月03日 14時22分46秒 | とーま君の流儀2017

大事なことですなぁ~~~~~。

明日からやろう(^_^)

 

 

トイレ掃除PV

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言語によって外界の実体を認識するというのは・・・・・

2017年04月03日 08時20分12秒 | とーま君の流儀2017

外在する実体の「有・無」「生・滅」を認めず、言語があるからこそ、それゆえにこそ執着を生じ苦しむと言われたブッダ。

 

 

対象を認識して分析するというのは、西洋哲学の得意とするところである。

例えば、綺麗な女性を見る。見たままを語り始める。オノレの心の中でも。逆に、うううむと唸る場合もあるだろう。そして、面白いのはどんなに美人であっても団子鼻がイヤだとかとなると、それまでの評価が一変してしまうってぇことだなぁと思ったからである。どんなに整っている顔でも欠点は必ずある。アタリメェである。基準が人それぞれ違うからである。そんなことは当然だと叱られてしまうけど(^_^)。

昨日の山口瑞鳳先生の本については、内容のまとめの意味もあったから、なんだか何を打鍵しているのか自分でもよくわからなかった。しかし、今日は違う。一晩寝ながら考えていたからだ。いくらアホのボキでも、心に残った本は寝ながら考えることもあるからだ。マジに。

山口瑞鳳先生から教えていただいたのだが、西洋哲学には実体否定という考え方はないということを一番言いたいからである。これがキーワードである。

言語が実在する外界を認識するという根拠になっているのが、言語であるということを教えていただいてびっくりしたのである。そんなことは当たり前だと思っていた。バイブルにも「はじめに言葉ありき」と書かれているし。

しかし、ブッダは違った。

これに再度びっくりしたからである。ブッダは、西洋哲学とは逆に外在する実体の「有・無」「生・滅」を認めず、それゆえにこそ執着を生じ苦しむ。そして、これは言語に由来すると説いているとあったからだ。

これはこれは。

大きな示唆であった。

そうだとすると、文学も演劇もその他あらゆる言語活動を媒体として成立しているモノが成り立たないことになるではないか。

一番最初に村上春樹が思い浮かんだ。彼の作品は嫌いだが、仕方がないから読んできた。しかし、言語が作っている春樹worldというのは、実体否定の考え方にはない。むしろ、言語でもって若者の文化や性や思想を描いている。この点がある種の青年たちに支持されているのであろう。所詮、ウソ話であるのだが、言語から世界を認識していると思い込んでいる人間には支持されるのであろう。

ボキなんかには、それは我執としか映らないのであるが。

演劇もそうだ。

渡辺淳一の小説もまた異なモノである。もう不人気作家になってしまっているだろうけど。彼の作品で映画化されたもので、黒木瞳主演のものがある(「失楽園」)。あれもまた言語から生じたおどろおどろしい我執の世界を描いている。あるテレビ番組で主演の黒木瞳氏が、映画のご自分のラブシーンを見て真っ赤になって恥ずかしいと言われたことを思い出した。つまり、言語をとおして、ある役割を演じているのだが、それはあくまで実体を演じているのではないということを、自ら証明しているようなものではないかと思ったからである。つまり逃れられないのだ。言語を通してウソ話を演じてみても、所詮それは執着のあがきでしかないのである。

ま、文学も演劇も所詮その程度のものとわりきって読み、見るしかないのであろう。

そうだとするとそんなものに生涯を賭ける意味があるのだろうかと思った。

ブッダの言ったことはまだまだわからない。ボキ如きには。

それゆえにこそプチ修行である。これからボキは死んでいくからである。実体がなくなってしまうからだ。

なんだか楽しみな後半生である。

そう思う。

 

さ、今日は月曜日。いろんなところがおやすみ(-_-)zzzである。Walkingをしてくるだけである。

わははっはははっはははっはは。

(^.^)/~~~

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4月2日(日)のつぶやき

2017年04月03日 04時58分52秒 | とーま君の流儀2017
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山口瑞鳳先生の書籍には(*_*) マイッタ

2017年04月02日 21時51分54秒 | とーま君の流儀2017

恋い焦がれる女性と一緒のような本に出くわしてしまったよ

 

 

今日、県立図書館で読んでいた山口瑞鳳先生の書籍には(*_*) マイッタ。「評説 インド仏教哲学史」なる本である。著者は元東大教授にして、インド哲学者である。

非常に感銘を受けた。黄色のメモでもって、内容をメモしていたのだが、今まで読んだこともないようなことが書かれていた。

言葉の持っている実体認識のあやふやさを思い切り知らされたからである。そもそも、ボキ達は言語でもって対象を認識する。モノも概念もである。文学なんてぇもんは、まさに言語でもって対象を認識するものである。だから、文学の存在そのものが山口瑞鳳師にかかると、否定的になってしまう。

 

本書の特徴は、「仏陀親説の三つの時間観」という基準でインド仏教哲学の真偽を識別したことである。本書の四ヶ所で説明された「三つの時間観」を整理すると、次のようになる。

(1) 「知覚の原因としての外界」に関わる「先験的時間」 ⇔ 「勝義性」

(2) 「縁起生する知覚された結果の表象」に関わる「経験的時間」 ⇔ 「虚構性」

(3) 「表象から抽出された記憶」に関わる「観念的無時間」 ⇔ 「没時性」

本書の結論は、帯に示された「悟り」などというものはないという実体思想の否定である。

あるいは、以下のように言い換えることも可能であろう。つまり、仏陀以来の正統仏教では、「3つの時間」が意識されていた。

・知覚の原因としての外界

・知覚された結果の表象

・表象から抽象されて記憶されている観念

しかし、世間は、知覚表象が外界を補足しているとみなし、それらを表象から抽象した没時的形態観念とその「名」に照合して、外界を実体と認識し、そればかりか、外界を写すとされた言語表現に埋没して、実体「生・滅」の論理を現実と混同するため、「我執」に苦しむ。と山口瑞鳳師は分析された。

 

このことに驚いたのである。なかなか難しくて、メモもかなりの枚数になってしまった。しかし、こいつは驚いてしまった。このような仏教哲学書を初めて知ったからである。

チベット仏教が基本にあって、それからかなりレベルの高い記述がなされている。しかも、宗門系大学関係から出ている書籍には見られないような観点の違いがある。

もっと言えば、「寂護」のことを取り上げているのである。この観点からの分析は、山口瑞鳳師によると仏教哲学学会でも取り上げられていないのだそうな。面白いと思ったのはそういうことである。

この「名色」由来の言語表現が「没時間的恒常を本質にしているため、我々の心に実体への執着をもたらしている」と教えてくださっているということである。そして、それに気がついていたのが、かの空海であったとされている。ま、この点ははっきりと言い切ってはおられないけど。

この本、欲しい。

Amazonの中古本でも6000円くらいする。無理かなぁ。西洋哲学との比較も書かれているし。

ま、明日一日考えてみましょ。

恋い焦がれる女性と一緒ですな。

憧れるけど、遠い存在ってぇやつであるから(^_^)。


(-_-)zzz   もう寝ます

 

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孫を連れて帰ってしまう長女を見ていて、オンナは・・・・と思ったのだ(^_^)

2017年04月02日 08時34分10秒 | とーま君の流儀2017

オンナは強い。どこでも生きていけるというもんじゃ。アメリカでも、九十九里浜でも。もっとも、アメリカは九十九里浜の隣ですなぁ!

 

 

今日で孫が帰っちゃうのだ。毎度ながらサミシイですなぁ。春休みを堪能してくれただろうとは思っている。千葉市の動物公園にも行ったし、ゾウさんやキリンさん、名前覚え立てのアメリカバイソンとか見て興奮してきた。孫もボキもである。孫が来なければ、アメリカバイソンなんて興味もわかなかっただろうから。

来月のゴールデンウイークにまた来るのだそうだ。一週間も爺婆の家にいると、アパートに帰りたくなってしまうらしい。今回は、パパがいないから、パパと会いたいというわけである。それが正常である。正常だからなんも心配はしていない。

狭いアパート暮らしだ。たまには田舎暮らしをしている爺婆の家で思い切りかけっこをしたり、楽しむことである。本もいくらでもある。ボキンチには。ただし、童話や図鑑の類いはあまりないから、その都度買ってあげるのだが。

しかし、オンナは強い。どこでも生きていける。場所は関係がないのだ。

これって西部劇を見てもそう思う。「シェーン」だって、開拓農民の生き方がもう一方にあるではないか。シェーンに密かに思いを寄せる人妻のマリアン(ジーン・アーサー)との心の交わりなんかもいいもんじゃ。たくましく生きているというのがもっといい。そういう強さがあるから、アメリカ大陸に渡ってチャレンジしていけるわけである。たいしたものである。

アメリカの強さというのは、西部劇に出てくる開拓時代にルーツがあるのではないかと思う。一昨年にそのアメリカ開拓の舞台であるモニュメントバレーに行ってみたが、マスコミに登場してくるような格好のいい西部劇の舞台なんてぇものではなかった。想像を絶していた。あまりも荒涼たる原野であった。電気も来ていないから、自家発電だということであった。実際に、インディアンの子孫も住んでいたし。開拓農民の子孫も、家を離れないという。若い人でもそうだという。ここらあたりがアメリカの強さなのではないのかとしみじみ思った。

日本人はどうだろうか。そういう根性がなくなっているのではあるまいか。

なんでもかんでも、大都会に出て行って、大学とは名ばかりの大学を出て就活をしてサラリーマンになっていってしまう。それが憧れだという。まるで鶏小屋のようなマンションという長屋に住んで得意がっている。こぎれいなマイホームに住んで、会社批判、上司批判、政権批判(家族批判)ばかりやっているではないか。なんか違うのである。なんかが狂ってしまっている。

九十九里浜に住んでいると、そういう土地に根ざした生き方がどんなに大切であるかということがよく分かる。アメリカのような開拓時代の根性が、まだ九十九里浜にはあるからだ。農業然り、漁業然りである。なにしろ食糧自給率全国一であるからだ。

紀州から九十九里浜に渡ってきた人々も、チャレンジ精神の旺盛な方々であったのだろうから。

ま、そういうことである。

ボキ?

ボキは、もう流れていくところもない。後は、この土地でくたばるだけである。

わははっははははっははっはははは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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4月1日(土)のつぶやき

2017年04月02日 05時02分40秒 | とーま君の流儀2017
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ゲシュタルトの祈りではないが、アンタはアンタ、ボキはボキだから。 マジに。

2017年04月01日 05時51分49秒 | とーま君の流儀2017

忘れちゃいかん座右の銘・・・ボキの行動を左右しているものがこいつである

 

 

GESTALT GEBET

ゲシュタルトの祈り

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du -
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

Frederick Perls
フレデリック・パールズ

 

 

このゲシュタルトの祈りはボキの座右の銘である。現役時代に、人間関係でいろいろあった時に、この座右の銘を唱えていた。気が楽になったもんじゃ。あまりも他人の視線を気にしすぎていたときである。息苦しくなったときには、このゲシュタルトの祈りが一番きく。

国分康孝先生の書籍で教わってから、ずっとボキはこのゲシュタルトの祈りのように生きてきた。それが、安楽だったからかもしれない。確かに、他人の視線を気にして生きているよりは、ラクだった。

最近、長女に教わったアンガーマネジメントも心理学という点では、このゲシュタルトの祈りと同様だろうと思う。要するに他人は他人、ボキはボキということである。ご縁は大切にしつつである。なにも関係性まで切ってしまうというのではない。

あくまでも生きているのは、自分自身である。他人に生きてもらうのではない。

その代わり、死ぬのも自分自身で死んでいかなくてはならない。誰かに代わってもらうわけにもいかない。ある日突然、ボキの代わりに死んでもらえますか?と聞いたら、そりゃ殴られるではないか。

そんな人はいない。イエス様くらいであろう。コルベ神父もそうか。

身代わりということである。崇高なる信仰がなければ、できるわけもない。

ボキのように万教帰一とかふざけたことを言っているようでは、話にならないではないか。聖書も、お経も、ヒンズー教も、コーランも全部興味関心があるってぇ案配じゃ、熱心な信徒に叱られてしまう。しかもただの趣味でやっているだけである。低レベルの。

昨日、gymにいたときにボキのスマホに電話がかかってきた。

知人であった。二回ほどかかってきたので、こちらからかけてみた。

そしたら、日本語教育についてのボランティアをやってくれないかという長い長い依頼であった。快諾した。以前からやってみたかったからである。

中国語を教えてもらうようになってから、外国人がどうやって日本語をマスターしたのかということに興味関心が深くなったからである。

なぜ、なかなか話せないのかということにも興味関心がある。これは国語教育でメシを食ってきた我が身としては、死ぬまでにどうしても知っておきたいことのひとつである。

さらにある。なぜ、ボキは英語も中国語も話せないのか、できないのかという問題とも密接につながっている。

え?

そりゃぁ、能力がねぇからだろうって?

わははははっははははっはははっはは。

当たってますなぁ~~~~~~。

ゲシュタルトの祈りではないが、アンタはアンタ。

ボキはボキだから。

マジに。

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月31日(金)のつぶやき

2017年04月01日 05時03分23秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/