酔っ払いで、ふしだらで、人生になんの目的もなく、ただひたすらダメだった「おとうと」であった。そしてそれを吉永小百合は、かの原節子のような優しい目でもって見守ってくださっていた。これもまた不動明王だったのである。
宮本武蔵は、悪業三昧に生きてきたボキのような庶民を戒めてくださる不動明王のようなもんかも知れない。そう思った。ふと思っただけで、なんら根拠はない。彼の形相がそう思わせる雰囲気があるからかも知れない。なにしろ恐ろしい顔である。さすが日本一の剣豪である。
もっとも不動明王は、大日如来の別の一面を現しているという。
かの有名な三井寺のHPによると次のように紹介されている。(http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/161.html)
>不動明王は、仏教の諸尊のなかでも 観音、地蔵とともに「お不動さん」の呼び名で親しまれるほど人気の高い存在である。そのサンスクリット名は、アチャラ =ナータで、アチャラとは「動かない もの」、ナータは「守護者」の意味で ある。不動とは、本来は釈迦如来がブッダガヤに於いて成道に入る時の瞑想中に、煩悩を振り払う不動の心から採られていると伝えている。密教の根本尊である大日如来の化身として、その悪魔を降伏するための憤怒の恐ろしい姿は、全ての障害を打ち砕き、仏道に従わない者を導き救済するという役目を担っている。そこから忿怒の姿の内に秘めた大いなる慈悲の心と智慧の炎で人々の願いをかなえる存在として、特に日本では現世利益をもとめる人々の厚い信仰を集めている。
この部分の「不動明王は、大日如来の化身として、その悪魔を降伏するための憤怒の恐ろしい姿は、全ての障害を打ち砕き、仏道に従わない者を導き救済する」という文章にボキは感動しているのだ。
最近まで、不動明王がこのような働きをされていることに不勉強でまったく気がつかなかった。知らなかった。知らないと言うのは実におめでたいことである。本人はそれでいいと思っているのだから。
ボキは、本質的にお地蔵様の優しいお姿が大好きである。なぜなら、許されているような気持ちになるからである。精神的安定みたいなものが、お地蔵様にはあるからだ。
人間はすべて許された存在であるというのは、他の宗教でも見られることである。キリスト教もそうだった。愛が基盤となっているからである。
しかし、バカのボキは、だったら何をしてもいいのだと錯覚してしまったのである。悪業肯定である。とてもじゃないが、その悪業の日々を記事にすることはできない。墓場まで持って行くしか無い。仕事にからんで、いろいろな迷いを経験してきた。他人のワルクチもずいぶん言ってきた。先輩達を呼び捨てにしてきた時期もある。こころの中で。
こんなボキである。一丁前に、エラそうにものごとを書いたり言ったりできるわけもない。そういう意味で、このブログは懺悔の日記でもある。ジジイになっても、まだまだ不満がある。他人のワルクチも言っている。家族のワルクチも言っている。話にならないのである。情けない。
カネも欲しいし、ケも欲しい。養毛剤でホントウに効くクスリがあったらすぐにでも買いたいくらい迷っている。
もっとある。生涯学習ごっこをやりたいからと言って宝クジまで買っている。これこそ迷いの筆頭である。なにをしたいのであろうか。卒業証書が欲しくて、ライセンスの証明書が欲しくてこんなことを始めたのではなかった筈である。さらにある。論文もそうである。論文の数や論文掲載誌の数を実績としていきたいというすけべぇ根性もあった。なにかにとりつかれていたのである。だから大学院中退でもって、精神的ダメージを受けたのだ。そもそも能力もないのに、アホなチャレンジをしたものであった。
そこのところに気がつかなかった。完全にアホである。中退してから入学した老人大学で過ごした二年間は、まさに精神的なダメージからの立ち直りの時期であったのである。二年間、オノレについてよく考えることができた。完全にヒマになったからである。
根本的に立ち直らないとアカンと思った。
そして、仏教についていろいろと考えるようになった。なにも学者になろうと思っているわけではない。なれるわけもない。素質もないし、意欲もない。自堕落である。完全に自堕落。
さらにある。学者センセの書いた仏教から学ぶのではなく、オノレのようなものでも相手にしてくださる方から学ぶしかないということに気がついてしまったのである。アホなボキでも相手にしてくださる方にである。世の中にはそういう奇特な方もいるからである。
学者センセもまたいろいろと人間関係のしがらみでもって苦労されているのである。それがダンダンわかってきたから、全面的に信用できない方々もおられるということなのである。仏教学者も宗派にこだわっておられる方々もたくさんいるし。仏教学者だって、学会ごとにご苦労もあるんだろうし。
本を出しておられるからエライのではない。2年前は、ボキもそう思っていた。完全にそう思っていた。しかし、内情は違っていたのである。それについては書けないし、書くつもりもない。ボキ如き平民が、ナニヲカイワンヤである。笑われてしまう。それでなくても、笑われているのにねぇ・・・・わははははっはははって。
昨日の「おとうと」という映画を見て、しみじみ思った。鶴甁師匠の快演は、まさに迷える衆生であるボキ自身を目の前に提供してくださった。
ありがたいものである。
感謝以外ない。
酔っ払いで、ふしだらで、人生になんの目的もなく、ただひたすらダメだった「おとうと」であった。そしてそれを吉永小百合は、かの原節子のような優しい目でもって見守ってくださっていた。
これもまた不動明王だったのである。
うううううううううううむと唸るしかないではないか。
無明の衆生なんだから。
こっちは。
(^_^)ノ””””