と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

4月10日(月)のつぶやき

2017年04月11日 04時57分58秒 | とーま君の流儀2017
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4月8日の花祭りの日に、お不動様に会いに行ったのであるが

2017年04月10日 08時10分45秒 | とーま君の流儀2017

新勝寺の大塔の中に鎮座ましましているお不動様とずっと対話していたけど。それにしても懺悔が足りませんなぁ。悪業が多すぎて。

 

 

一昨日の成田山新勝寺で行われた仏教文化講座は、一宗一派にとらわれていない。だからどうなのだと問われても、ボキには関係がない。特に、信仰の問題を扱っているのでもないし。あるいは、信徒獲得のきっかけにもなっているのかもしれないが、成田山新勝寺はそんなことを考えているのではないだろう。

フトコロの深さを感じてきた。

これから何回も出席することになるだろう。クルマで行けば、九十九里浜からも行くことができるからだ。下手に生涯学習ごっこを気取ってみても、大寺院の講座はさすがに違うということがよくわかるからである。年間10回は講座がある。全部に参加してみたいが、都合の悪い場合も当然ある。月に一度は郷土史の会で千葉市に行くからである。こっちはこっちで、退職後のささやかなお楽しみでもあるからだ。

老人大学も卒業したし、やることが減ってしまったということもある。だったら、塾のアルバイトを増やせばいいのだが、今週の木曜日からもう一つの仕事が始まる。大学の授業をしなくちゃならない。昨日の夜も、最初にやる授業で大学生に全体的な方向性を示していくためのチャートを作っていた。A4で5枚はある。二回目からも膨大な資料を配付する予定である。日々改善である。

こういうことは、郷土史の会で去年記念講演をしてくださった一橋大学のW教授に教えていただいた手法である。去年からずっと準備していたのである。大学生のために。

ありがたいものである。周囲の方々すべてが師匠である。たとえ、わけのわからん御仁が怒りにまかせてボキに殴りかかってきても、ボキは耐えなくちゃならないですなぁ。ま、そんなことはあり得ない話だが。

怒りと言えば、不動明王である。成田山新勝寺は、お不動様信仰で有名である。大塔が奥の方にあって、その中に大きなお不動様が鎮座している。一昨日の仏教講座の後にも、ボキはお会いしてきた。かなりの時間そこにいた。たいていの見学者は素通りである。解説を見て、それで終わり。ボキは、お不動様を見上げ、なんと買ったばかりの御経本を出して、小さい声であったが唱え始めた。そして、お不動様をまた見上げた。しかし、何度見ても怒っていらっしゃる。お不動様が。

人倫の道を外れて生きてきたボキを、正常な道に戻そうとされているのかもしれないとシミジミ思った。信仰もなく、仏教ともご縁がなかった。仏教どころか、万教帰一とかふざけたことを言って、いろんな宗教をかじってきたのじゃ。文学研究とか自称して、キリスト教まで範囲を拡大していたのであるから情けないこと限りなし。

これまで他人のワルクチをはじめ、ゴミ論文を書いて認められたいとか、悪あがきの数々は拙ブログに書ききれないほどやってきたからである。

信仰の前に、懺悔がある。大いに、これまでの生き方を(_ _ )/ハンセイしてそれからなのである。でないと、信仰がホンモノにならなくなる。

まるでダメな男であったから、懺悔しているのである。精神のあり方、持ち方が最低であった。今でもだ。ペラペラ、ペラペラとくだらない世間話なんかをして、得意がっていたのだ。それが社会性の証だとも思ってきた。

さらにある。ありもしない専門性なんかを平気でクチにしていたのだ。情けない。文学賞の審査の時もそうだった。人前で、審査員としての講評をしてしまったが、それだけの資格があったか?と自省しているのだ。情けない。そんな実力はないのに、どっかに慢心があったのである。

ボキなんか、生きていられるだけでもシアワセである。そう思わなくちゃアカン。

最低の人間だからなぁ~~~~~~。

 

今日は九十九里浜も天気がいい。歩いてこようっと。月曜日はgymも図書館もおやすみだし。

(^_^)ノ””””

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4月9日(日)のつぶやき

2017年04月10日 05時03分12秒 | とーま君の流儀2017
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ブッダの誕生日だった・・・・昨日は(ボキの孫も)

2017年04月09日 07時57分54秒 | とーま君の流儀2017

ブッダの誕生日に成田山新勝寺に行って、仏教文化講座を拝聴してきたのもご縁である。

ボキの二番目の孫(男児)も同じ日でアル。3歳になった。オソレオオクも。だから健康を祈ってきた。

思えば、花祭りは初めての体験である。

これも初めてであった。釈迦堂の前であった。若い二人がブッダの像にお茶をかけていた。むろん、ボキもやってみた。そしたら、ひしゃくでガンとブッダの像に当ててしまった。なんという罰当たりぞよ!話にならんというのはこういうことである。バカなジジイである。緊張したからである。まったくバカそのものである。

だからいかに信仰と無縁であったかということが、バレるわけである。

ろくでもない人生じゃったからなぁ~~~~~。

他人のワルクチなんて言えねぇ、言えねぇ。

懺悔から始まりまするよん。

ボキは。

この日、在家信徒が使う経典本も買った。生まれかわらなくちゃならんですな。

もっと普通に生活できるようにである。

できねぇかな?

それでもいいや。

死ぬまでは生きているんだから。

立ち直りのチャンスになればいいと思っているだけであるから。



 

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4月8日(土)のつぶやき

2017年04月09日 05時01分03秒 | とーま君の流儀2017
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映画「おとうと」に不動明王を見たと言ったら叱られますかなぁ・・・。無明のジジイにはよくわからねぇのだが。

2017年04月08日 08時31分59秒 | とーま君の流儀2017

酔っ払いで、ふしだらで、人生になんの目的もなく、ただひたすらダメだった「おとうと」であった。そしてそれを吉永小百合は、かの原節子のような優しい目でもって見守ってくださっていた。これもまた不動明王だったのである。

 

 

宮本武蔵は、悪業三昧に生きてきたボキのような庶民を戒めてくださる不動明王のようなもんかも知れない。そう思った。ふと思っただけで、なんら根拠はない。彼の形相がそう思わせる雰囲気があるからかも知れない。なにしろ恐ろしい顔である。さすが日本一の剣豪である。

もっとも不動明王は、大日如来の別の一面を現しているという。

かの有名な三井寺のHPによると次のように紹介されている。(http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/161.html

 

>不動明王は、仏教の諸尊のなかでも 観音、地蔵とともに「お不動さん」の呼び名で親しまれるほど人気の高い存在である。そのサンスクリット名は、アチャラ =ナータで、アチャラとは「動かない もの」、ナータは「守護者」の意味で ある。不動とは、本来は釈迦如来がブッダガヤに於いて成道に入る時の瞑想中に、煩悩を振り払う不動の心から採られていると伝えている。密教の根本尊である大日如来の化身として、その悪魔を降伏するための憤怒の恐ろしい姿は、全ての障害を打ち砕き、仏道に従わない者を導き救済するという役目を担っている。そこから忿怒の姿の内に秘めた大いなる慈悲の心と智慧の炎で人々の願いをかなえる存在として、特に日本では現世利益をもとめる人々の厚い信仰を集めている。

 

この部分の「不動明王は、大日如来の化身として、その悪魔を降伏するための憤怒の恐ろしい姿は、全ての障害を打ち砕き、仏道に従わない者を導き救済する」という文章にボキは感動しているのだ。

最近まで、不動明王がこのような働きをされていることに不勉強でまったく気がつかなかった。知らなかった。知らないと言うのは実におめでたいことである。本人はそれでいいと思っているのだから。

ボキは、本質的にお地蔵様の優しいお姿が大好きである。なぜなら、許されているような気持ちになるからである。精神的安定みたいなものが、お地蔵様にはあるからだ。

人間はすべて許された存在であるというのは、他の宗教でも見られることである。キリスト教もそうだった。愛が基盤となっているからである。

しかし、バカのボキは、だったら何をしてもいいのだと錯覚してしまったのである。悪業肯定である。とてもじゃないが、その悪業の日々を記事にすることはできない。墓場まで持って行くしか無い。仕事にからんで、いろいろな迷いを経験してきた。他人のワルクチもずいぶん言ってきた。先輩達を呼び捨てにしてきた時期もある。こころの中で。

こんなボキである。一丁前に、エラそうにものごとを書いたり言ったりできるわけもない。そういう意味で、このブログは懺悔の日記でもある。ジジイになっても、まだまだ不満がある。他人のワルクチも言っている。家族のワルクチも言っている。話にならないのである。情けない。

カネも欲しいし、ケも欲しい。養毛剤でホントウに効くクスリがあったらすぐにでも買いたいくらい迷っている。

もっとある。生涯学習ごっこをやりたいからと言って宝クジまで買っている。これこそ迷いの筆頭である。なにをしたいのであろうか。卒業証書が欲しくて、ライセンスの証明書が欲しくてこんなことを始めたのではなかった筈である。さらにある。論文もそうである。論文の数や論文掲載誌の数を実績としていきたいというすけべぇ根性もあった。なにかにとりつかれていたのである。だから大学院中退でもって、精神的ダメージを受けたのだ。そもそも能力もないのに、アホなチャレンジをしたものであった。

そこのところに気がつかなかった。完全にアホである。中退してから入学した老人大学で過ごした二年間は、まさに精神的なダメージからの立ち直りの時期であったのである。二年間、オノレについてよく考えることができた。完全にヒマになったからである。

根本的に立ち直らないとアカンと思った。

そして、仏教についていろいろと考えるようになった。なにも学者になろうと思っているわけではない。なれるわけもない。素質もないし、意欲もない。自堕落である。完全に自堕落。

さらにある。学者センセの書いた仏教から学ぶのではなく、オノレのようなものでも相手にしてくださる方から学ぶしかないということに気がついてしまったのである。アホなボキでも相手にしてくださる方にである。世の中にはそういう奇特な方もいるからである。

学者センセもまたいろいろと人間関係のしがらみでもって苦労されているのである。それがダンダンわかってきたから、全面的に信用できない方々もおられるということなのである。仏教学者も宗派にこだわっておられる方々もたくさんいるし。仏教学者だって、学会ごとにご苦労もあるんだろうし。

本を出しておられるからエライのではない。2年前は、ボキもそう思っていた。完全にそう思っていた。しかし、内情は違っていたのである。それについては書けないし、書くつもりもない。ボキ如き平民が、ナニヲカイワンヤである。笑われてしまう。それでなくても、笑われているのにねぇ・・・・わははははっはははって。

昨日の「おとうと」という映画を見て、しみじみ思った。鶴甁師匠の快演は、まさに迷える衆生であるボキ自身を目の前に提供してくださった。

ありがたいものである。

感謝以外ない。

酔っ払いで、ふしだらで、人生になんの目的もなく、ただひたすらダメだった「おとうと」であった。そしてそれを吉永小百合は、かの原節子のような優しい目でもって見守ってくださっていた。

これもまた不動明王だったのである。

うううううううううううむと唸るしかないではないか。

無明の衆生なんだから。

こっちは。

 

(^_^)ノ””””

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4月7日(金)のつぶやき

2017年04月08日 04時58分56秒 | とーま君の流儀2017
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映画『おとうと』TVスポット涙編

2017年04月07日 19時01分14秒 | とーま君の流儀2017

居住地の映画会でこれを見てきた。

死生学そのものでしたなぁ。

吉永小百合もあいかわらず美しい。

しかし、鶴甁師匠の怪演はみごとなもんじゃった。

ボキもいろんな方々にご迷惑をおかけしてきたなぁと思った。

泣けたよん。

会場の殆どの方は、ボキのような高齢者。

みんなハンカチを持っていたです。

 

 

 

映画『おとうと』TVスポット涙編

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独行道・・・・宮本武蔵のごとく信念の人でありたいもんである、マジに。

2017年04月07日 07時42分34秒 | とーま君の流儀2017

定年退職してからあまりにもフリーになりすぎてアカン。考え方がフラフラしている。自分で決められない。自分の考え方や、信念、思想信条というものがどっかに行ってしまった。(・・・・元々ねぇか=トホホ)


 

 

なんとなく宮本武蔵が気になり始めて、図書館から数冊本を借りだした。

放送大学大学院で宮本武蔵研究をしている御仁がいると知ってからである。その御仁は、68歳。もう20年くらいやっておられるようである。ようであるというのは、放送大学の講義でちょっとやっていただけで、詳しくは知らないからである。残念だが。

で、もしかして宮本武蔵の研究というと放送大学の魚住孝至教授の教えをいただいているのではないかと思った。だとしたら、ホンモノである。

魚住孝至教授は、千葉県勝浦市にある国際武道大学の教授もやっておられた。この大学は、その名のとおり武道の専門家の大学である。何度か行ったこともある。むろんボキごとき在籍したことはない。当然である。講義もお聞きした経験もない。柔道4段を持っているとはいえ、所詮素人である。

ただし、魚住孝至教授は、宮本武蔵研究で博士になられた方である。しかも東大から取得されたのである。だからホンモノだと思っているのである。

さらにyoutubeで動画もチェックして見ていた。Gymでも見ていた。魚住孝至教授の動画をである。かなり面白い。あの鋭い眼光の魚住孝至教授が、スマホを通してだらしないボキを叱ってくださるような気もしていた。

思い出した。我が青春の記念すべき人物であった。宮本武蔵は。

独行道という日記までつけていたのだ、ボキは(^_^)。まったく笑ってしまうけど。宮本武蔵の真似をして。

それくらい入れあげていたのだ。柔道を高校から始めたが、武道に対する憧れがあったからである。その時期から、日本精神とか日本武道というか、そういうものに対して憧れていた。

ボキは、自分でも五輪書を持っていた。自宅の書庫にはある。確かにある。Kindleにも入っている。吉川英治の「宮本武蔵」も入っている。とにかく好きナンである。自己を磨くというか、自分を高めていくというか、そういうストイックな生き方に憧れていた。

武道だけではない。文化人としての素養もすばらしいではないか。絵画もである。

生涯学習の大先達であるとも思う。今となっては、ボキ如きレベルの人間ではナニヲカイワンヤであるが。

どうも、定年退職してからあまりにもフリーになりすぎてアカン。考え方がフラフラしている。自分で決められない。自分の考え方や、信念、思想信条というものがどっかに行ってしまった。

いろんな人に相談して、できるだけ円満に物事を処理しようとしている。それが極端になっているのじゃ。それでフラストレーションが溜まってしまう。

ま、全部自分が招いてしまった悪癖である。

それを改めて行かなくちゃならん。

独行道である。

オノレ一人で行く道である。

寂しいけれども、これからはますますこういうことになっていくのだろう。

風狂の人として生きるしかないのだから。

変人とも言うけど。

 

(^_^)ノ””””

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4月6日(木)のつぶやき

2017年04月07日 04時58分36秒 | とーま君の流儀2017
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4月5日(水)のつぶやき その2

2017年04月06日 05時02分01秒 | とーま君の流儀2017
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4月5日(水)のつぶやき その1

2017年04月06日 05時02分00秒 | とーま君の流儀2017
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ボキも相当な数寄者である。風のまにまに、狂った生き方をしちょるなぁ。

2017年04月05日 23時15分11秒 | とーま君の流儀2017

徘徊から22:50帰還してきたのだけれども(^_^)

 

 

春は桜の季節。

こころ穏やかではナイ。従って、ふらふらと出かけてしまう。きれいな花を追いかけて。

と、思ったらまだまだお江戸も咲いていない。マンカイに近かったが、マンカイではナイ。

仕方がないから美術館でも行ってみようかとなって絵を見ていた。西洋のをだ。行ったところはお江戸からさらに先。行き先はナイショ。記事には書かない。写真もアップしない。あくまでプチ修行だからだ。

なにを考えていたかというと、西洋画もまた山口瑞鳳先生の言われるとおりだということである。あくまでも、対象否定はない。実体否定もない。あまりにも分析的であり、二元論的である。

キリスト教的な文化背景の絵画は、おどろおどろしいくらいである。

あまりにも残酷な死が迫ってくる。そういう絵画を朝から晩まで見せられたら、こっちは狂ってしまうではないか。

イエスの死を扱った絵画も残酷そのものである。生と死。そこから愛を連想するって・・・・ボキには無理だ。

所詮、なにをやっても劣等生である。救いようのない絵画を見ていても時間の無駄である。そんなんだったら、桜の花に埋もれてふんわりしていた方がいい。

我慢して対象否定、実体否定もしないでいたって無理である。そもそも言語なんて、絶体なのではないのだし。わかったような顔をしていてもつまんねぇとマジに思っているから。

わははっはははっははっはははっは。

東洋人でありまするなぁ~~~ボキは。

西洋の文化がわからないんですがな。

というより、教養がないんですな。

そういうことである。

さ、西行でも読んで口直しといくか。

 

願わくは

花のもとにて

春死なむ

その如月の望月の頃

 

この和歌は西行辞世の歌とされているようだけど、そんなことはないとボキは思っている。ただただ風狂の人であった西行である。

ボキも相当な数寄者である。風のまにまに、狂った生き方をしちょるようである。所詮そんな程度の人間である。バカらしい。バカそのものである。

慚愧のまま生きていくしかないようである。

(_ _ )/ハンセイ



おやすみなさいませ。

 

 

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4月4日(火)のつぶやき その2

2017年04月05日 05時02分39秒 | とーま君の流儀2017
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4月4日(火)のつぶやき その1

2017年04月05日 05時02分38秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/