と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

中根東里 偉人の格言・名言・いい言葉 23 Wise remark proverb Nakane Touri

2018年10月11日 22時38分19秒 | とーま君の流儀2018

中根東里 偉人の格言・名言・いい言葉 23 Wise remark proverb Nakane Touri

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

CONTROL、コントロール、こんとろーる・・・難しいです

2018年10月11日 15時21分40秒 | 精神のありかた

相手をコントロールするより、自分をコントロールすることだ。しかし、こんな難しいことはない。

 

 

「相手を自分の思うとおりにコントロールしよう」とするから、トラブルが起きる。経験上そうだ。

そもそも相手というのは、コントロールできないのだ。それをである。こっちの思うとおりにしようとするから、抵抗される。当たり前である。相手だって人間である。

そこのところを勘違いしていると、ケンカになる。

夫婦間でもそうだ。お互いなんでも言いたいことは言い放題、相手の言っていることなんか一切聞かない。罵りあってばかりいたら、そりゃケンカになる。

職場でもそうだ。お互い言いたいことを言い合っていたら、人間関係の円滑さなんて現実離れしてしまう。ま、それでも利潤追求だけが目的の組織ならば、それでも良いのだろうが。それじゃぁあまりにもサミシイ。

自営業はどうだろうか。ボキは経験がないので、書けない。書けないが、お客さんをコントロールしようとしたら、その業種は繁盛しないのではないのか。

コントロールしようとしたら、相手は気がつく。あたりまえである。他人にコントロールされるということは、気分が悪いからである。嫌悪感というやつである。さらに、ボキのようなジジイにコントロールされたら、おもしろくないであろう。

要するに上手にやればいいのである。円滑に、人間関係を維持するのならばである。上手にやれる人が大人の人間のやり方である。いつもいつも本音ばかり言って、怒鳴っていたら、そりゃガキのすることだ。

小さい子どもならばわかる。子どもは、相手をコントロールしたがる。親をもコントロールしたがる。それだけ、自分の欲求が強いからである。おなかがすいてしまったら、親に要求する。親をコントロールしたいからである。当たり前である。それができなかったら、空腹で死んじまう。

本能でやっているのだ。

攻撃性の発露なのかもしれない。だから、我々大人も相手をコントロールしたがる。

そこをじっと我慢していくことだ。

相手をコントロールしたいと思うより、「自分をコントロール」しているかどうかを問題にすべきである。自分ほど、難しいものはないからである。自分を知ることなんか、できやしない。自分がなにを考えているのかすら、ボキはよくわからない。

行動はわかる。これから千葉市の某高校に行ってくるが、アルバイトで行っているだけである。目的はそれだけである。往復の電車の中で中国語講座を聴きながらである。それもなんのためにやっているのかとなると、さしたる価値はない。せいぜい中国に行ったときに、なんかになるのかもしれないと思っているだけである。大上段に振りかぶった理想論なんかない。今更である。

そもそも、ボキはなにをしたいのだろうと思うだけである。つまり、自分をコントロールできていないのだ。

こんなことを考え始めたら、堂々巡りである。考えないことである。

だから「淡々として生きる」ことである。自分をコントロールするもへったくれもない。目的なんか関係ない。目標もない。

「淡々として生き」て、「他人に喜ばれて」生きることが楽しいのである。

それで良し。

それっきりの人生だ。

 

わははっはははっはははっはははっはははっはは。

 

(。・_・)ノ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月10日(水)のつぶやき

2018年10月11日 06時20分29秒 | とーま君の流儀2018
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

動かざること水のごとし。でもいったん動き始めたら、こんな始末に負えないものはなし。

2018年10月10日 08時10分02秒 | 精神のありかた

変幻自在、自由自在、一定の形にとらわれない「楽しい」人生でありたいもんです。

 

 

「水のように自由に生きる」ということを理想にしてきた。柔道も水をヒントに嘉納治五郎先生が創始されたと聞いたことがある。もっとも、ボキごときが柔道について語る資格はない。たったの四段でしかない。素人である。

太極拳も語る資格はないが、こちらも水のような美しい動きが核となっていると受け取ったのだ。なにしろ、堅い体から力みが抜ける。これは気持ちがいい。蹴りの角度も増してしまった。今では、相手のあごを直接狙うことも可能になったのだ(^_^)。

水には形がない。箱に入れれば一応の形にはなる。しかし、それは器の中にある水本来とはまったく関係がない。水は、水でしかない。

水は変幻自在である。川にもなるし、海にもなる。

ゆっくり流れている時もあれば、急流になって流れる時もある。滝のように上から激しく流れる時もある。台風が来たら、暴風雨となって荒れ狂う。

つまり、水は状況にいかようにも変化するのである。置かれた状況、形になり続けるし、変幻自在でもある。

それは、水は液体でもあるし気体にもなるということである。熱してみれば、水は気体となってしまうからである。

水温を下げれば氷にもなる。動きにくい状況になると、固体となって動かなくなる。

つまり、目に見える氷、手に取ることができる氷から、水蒸気までいろんな形に変化してしまうのである。

水は、相手の器に合わせてしまう。相手が大きければ、そのようになる。相手が小さければ、またまたそのようにあわせてしまう。量は別としてである。

変幻自在というのはそういうことである。相手にあわせてしまうのである。相手が望むように、自分の形を変えてしまう。本質は別としてである。本質はなんにも変わらないのにもかかわらず、形だけ変わってしまう。

だから、「ナニガ正しいのか?」「間違っているのはなにか?」とか、政治問題とか社会問題を糾弾して、オノレの心が暗くなるより考え方を変えてしまった方がずっと良い。

相手を変えるのではないのである。相手をコントロールしようとすればするほど、相手は意固地になってくる。拒絶してくる。耳を貸さない。聞いてやろうという気持ちもない。

相手を自分の思うとおりにしてやろうと思わないことである。

そんなことをやっているよりも、自分が「楽しい」と思うように生きることである。自分が楽しければ、すべてが上手くいく。円滑に回っていく。自分が楽しければ、トラブルもない。相手を傷つけることもない。

そして、「淡々と生きる」ことである。他人を指導しようと思わないことである。他人は他人。ボキはボキ。他人のために生きているのではないからである。他人の期待に添って生きているわけではないのだ。

ふむ、ふむ。

 

今日も天気が良い。

今日もやることがない。

英文法のノートでもとることにしている。

明日はバイトで行っている千葉市の某高校で授業をやるが、その下準備は昨日で終わっている。「土佐日記」である。古文書から資料を作って正解資料も準備した。土佐日記史跡も動画で準備した。関連資料が、A4で二〇枚ある。これを配布して、生徒に調べさせるつもりである。まさに灘高校の橋本武先生流である。

笑われるけど。

 

(。・_・)ノ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月9日(火)のつぶやき

2018年10月10日 06時15分53秒 | とーま君の流儀2018
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【高知県の史跡】 土佐日記 『紀貫之 邸跡』 (高知県南国市国府)

2018年10月09日 18時44分07秒 | とーま君の流儀2018

これはありがたい資料になります。

感謝!

 

 

 

【高知県の史跡】 土佐日記 『紀貫之 邸跡』 (高知県南国市国府)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どれくらい人生を楽しんできたか」と聞かれたら=ボキはこう答える

2018年10月09日 07時10分15秒 | 精神のありかた

楽しんだ方が良し。どうせ人生は単純なのだから。なんも悩む必要なんかない。

 

 

「どれくらい人生を楽しんできたか」と閻魔大王に聞かれたら、ボキはこれまでもこれからも十分楽しんできた(いく)と答えるだろう。だろうと言うのは、まだ聞かれたことがないからである。

立身出世して、あるいは大金持ちになり、毎日多忙な方を知っている。しかし、一日もこころ休まる日がないと言っていた。これまで死ぬほどの努力をしてきたし、人を裏切ったこともあった。また裏切られることは日常茶飯事でもあったと言われていた。まさに、それくらいでないと成功できないんだろう。ボキとはだいぶ違う人生である。

某大学大学院中退後に通った老人大学時代にも、そんな方がおられた。独居老人である。大金持ちとまではいかないが、けっこうな小金持ちであった。親しくしていたので、いろんな話をした。薬品株中心の株式投資が趣味で、事実儲けてもいた。海外旅行が趣味で、ボキにもいろいろと教えてくれた。トルコに行っていたときに、彼からメールがきて、なんとスペインにいると書いてあった。ボキは即返信をして「ボキも今飛んでイスタンブールにいますぜ」と書いて送ってみた。帰国してから会って、お互い大笑いである。

しかし、本当に人生が楽しいかとなると疑問である。やはり、出世するような方や金持ちというのはクセがある。ちょっと変わっている。人を信用しないし、俺が俺がという出しゃばり傾向がある。これまでの経験上。

独居だからというのではない。独居だろうが、同居だろうがそんなことは関係ない。


昨日の夕方から夜にかけて、樹木希林・阿部寛が出ている映画「海よりもまだ深く」という映画を見ていた。亡くなった樹木希林さんの関係映画を見ているからである。AMAZONのプライム会員になっているので、ゼロ円で見ることができた。阿部寛の役柄は、さえない小説家志望で、現在は探偵社に勤めている男の物語であった。息子である男の子が一人いて、離婚した奥さんもいた。月に一度息子に会うのが楽しみで、無理に金を作ってでも息子に会う。野球をやっている息子に野球用品を買ってやったりしている。そして、樹木希林がおばぁーちゃん役をやっていた。

「海よりも深く人を愛したことなんかない」という台詞も考えさせられた。

大上段に振りかぶって、愛だの仁だのと高邁なる理想を言うことは誰でもできる。しかし、日常生活の中で理想が活かされているかとなるとかなり怪しいのがほとんどの人ではないのか。

複雑化して、人生を混乱させているのが理想という名の幻想なのである。愛だの仁だのという言葉はあまりクチにしない方が良い。難しいからである。さらに自分自身をしばってしまう。固定観念となってである。

樹木希林がこんなことも言う。「人生なんて単純なものなのよ」と。

これにもなるほどとシミジミ考えさせられてしまった。

複雑化しているのはオノレ自身である。

学校教育を真剣に受け止め、壮絶な努力をしてきた方々は、他人と競争してきた。だから成功したのである。小金持ちにも、大金持ちにもなったのだ。

でもボキはうらやましいとは思わない。そりゃ金は欲しいが、金のために本来楽しいはずの人生を捨てることになったら・・・・そりゃ寂しい。

死んだときに、「お前は楽しい人生を送ってきたか?」と閻魔大王に聞かれたら、「ええ、十分楽しんできましたよん」とにこやかに笑って答えるだろう。そしたら、閻魔大王に「よんだけ余計だ」と叱られてしまうかもしれないが。

わははっははははっはははっははははっはははは。

 

今日は、これから歩いてくる。歩きが終わったら、女児の孫を連れて(むろんその母親とボキの古女房ドノも)ちょっと離れたショッピングセンターに、おもちゃを買いにいく。

楽しみである。

だって、「人生は単純」だからである。

 

(^o^)/~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月8日(月)のつぶやき

2018年10月09日 06時22分55秒 | とーま君の流儀2018
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全力ダッシュというのが、ボキには所詮無理でありますなぁ~~~マジに。

2018年10月08日 09時49分20秒 | 精神のありかた

「力を抜いて」「気を抜いて」というのが、実に大事でありまする。

 

 

「力を抜いて」「気を抜いて」というのが、ボキのモットーでもある。とりわけ、他人から「頼まれごと」をしたからと言って、それでもって病気になっていたら話にならないからである。

なにも今更評価されるために働いているのではない。定年退職してからは、年金暮らしである。ささやかな五つのアルバイトをしているのはぼけ防止のためであって、成果が欲しくてやっているわけではない。

今更である。今更、高い評価をいただいてなにかをやってやろうと企んでいるわけではないのだ。

だから、ボキは「いやぁ私ごときものが・・・」と言わない。それは謙虚を装った傲慢でしかない。謙虚高飛車人間の言うことである。

今現在の自分の力でやっていくしかないではないか。こんなボキでもよろしいのですかとは聞くけど。確認の意味である。

相手は困っているから、ボキに頼んできたのである。別にこちらはやりたくてやりたくて待っていたわけではない。いろんな方々に断られてきたから、と~ま君のようなアホでも良いかと思って頼みごとをしてきただけであんだろうから。

ならば、素直に「ありがとうございます」とお礼を言ってから引き受けることにしているのだ。

頼まれごとというのは、自分がかいている汗でもって他人の幸福に結びつく。

これは頼んできた人に感謝するしかない。生きている目標が見つかったからである。少なくとも、オノレだけのシアワセだけを考えているという狭い了見からは解放される。

しかし、100キロの荷物を持ってくれと言われたら断るしかない。柔道現役のときはできたけどねぇ(^_^)。

つまり物理的に無理な場合は断るしかない。できないと正直に申し上げるしかない。借金もそうだ。借金の申し込みはお断りである。だって、こっちは年金暮らしである。無理である。

それに、ボキは頼まれごとをしても全部自分でやろうとはしない。可能な限り、組織を活かす。他の人でもやれることは、なるべく任せていく。これは仕事人現役時代からやっていたことである。

もう限界であるというところまで追い込まない方が良い。それではアカン。

だから、「力を抜いて」「気を抜いて」ということになるのだ。

それが気に入らないという方は、そもそもボキごときには頼みごとをしてこない。当たり前である。

そもそもがである。ボキは、一つのことに鋭意専心というタイプではないのだ。そういうタイプだと、今のように五つもアルバイトをやっているわけにはいかない。どっかで上手に切り抜けているからである。

ま、結局「淡々として」生きているだけだけどねぇ。

 

わははっはははっははははっはははっはははっはは。

 

あ、今日は祝日だそうな。

昨日は太極拳に行っていた。だいぶ動きがスムースになってきたと言われた。蹴りの時に、足も上がるようになってきた。後は、この太極拳講座が日曜日から撤退してしまう。他の曜日では受講不可能になってしまう。五つもアルバイトしていたらできるわけがない。それこそ物理的に不可能である。

来年また受講してみようと思っている。それまでは、DVDで自学自習するしかない。

 

オシマイ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月7日(日)のつぶやき

2018年10月08日 06時31分48秒 | とーま君の流儀2018
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大希林『御御御付け(おみおつけ)と親分』

2018年10月07日 21時23分29秒 | とーま君の流儀2018

大希林『御御御付け(おみおつけ)と親分』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジジイになったら、「頼まれごと」をやって「他人に喜ばれる」存在になっていくことである。 過去も未来も考えなくていい。

2018年10月07日 07時55分32秒 | 精神のありかた

過去も未来も考えなくて結構、毛だらけ、猫灰だらけ、けつの周りは・・・である。今の自分がなにをやっているのか、それが大事でっせ(^_^)。

 

 

過去を悔いているばかりの人は(ボキもそのうちの一人だが)、もうやめるべきだ。と、そう思うことにしている。

定年退職後に某大学大学院を中退せざるを得なかったことが、ボキにとっての悔いている過去。病気になって中退したのだが、学力劣等というのが最大の原因だった。しかも、中退するまでそのことに気がつかなかったのだから、おめでたいものであった。

立ち直りのために、毎日考えていたのだ。中退してからもいろんな本を読んだ。なぜこんなに苦しいのだろうかと。挫折してあきらめたのだから、苦しいわけである。

しかし、その間勉強だけはした。歴史や国文学の読書である。読書だけでなく、カード取りもやっていた。ノートもむろんである。

無駄ではなかった。

成果が唯一あった。それは、「今の自分がいかに未熟であるか」ということを知ったからである。確かに定年まで一つの仕事をやり遂げた。それで退職できた。年金も全部もらっている。ある意味ご褒美である。退職金もいただいた。

だから完成したのではなかった。

退職して日々をむなしく過ごしていた。さらに追い打ちをかけられたのが、某大学大学院中退であった。生涯学習ごっこと自称しながらけっこうあちこち手を出していた。それが、全部無駄になったような気がしていた。

俺はなにをやっているのだろうと、自分が嫌になっちまった。

最近になって、アルバイトを頼まれた。全部引き受けた。むなしい日々を送っているよりは、ま、良いかと思った。そして感じた。

「頼まれごと」をやっていると、「他人に喜ばれる」のだということをである。

如実にその結果が現れた。千葉市の某高校で生徒たちが、ボキの授業を楽しみにしてくれている。他の先生に言ったそうである。楽しみだと。通信制高校での授業もそうだ。いろんな事情を抱えている生徒たちが、こんな授業は受けたことがないと言ってくれた。

ありがたいものである。

やはり、ボキは生涯現役でやっていこうと思っている。先月から働き始めた某高校では、自学自習として源氏物語の私家版訳にチャレンジしている。古文書で源氏物語を所有しているので、それをA4の大判ノートにコピーして、訳にチャレンジしている。ふむ、これを死ぬまでやっていこうと思っている。それこそ生涯学習であり、生徒たちに還元できるというものである。

ジジイになったら、「頼まれごと」をやって「他人に喜ばれる」存在になっていくことである。

過去も未来も考えなくていい。

今、目の前の「人、こと、もの」を大事にしていくことである。

自分がやるべきことはそれだけである。

 

昨日は、来月17日(土)に所属している歴史の会で歴史探訪をやるので印西市に行っていた。一日であった。歴史の会事務局の方々と事前下調べであった。事務局の方々は学芸員で専門家である。ボキなんかとはレベルが違う。柳田国男とか、利根川図誌の話を伺いながら楽しく下調べをやっていた。

感謝である。

こういう後半生が待っていようとは、お釈迦様でも考えなかったに違いない。

 

(´∀`*)ノ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月6日(土)のつぶやき

2018年10月07日 06時25分06秒 | とーま君の流儀2018
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後悔も反省も必要なし。今日が一番充実していれば、それで良し。

2018年10月06日 08時40分50秒 | 精神のありかた

過去のことで悩む必要はまったくない。今日現在が一番充実していれば、それで良しであるから。

 

 

あああああああ、シマッタ。あのとき、ああしていれば良かった、こっちの選択肢があったのではないのかと思うことがある。過去のことである。

しかし、そう思えるということ自体、自分が向上しているのだ。過去の経験から何かを学んだのである。ありがたいではないか。

今日という日は、過去の経験が一番生きている日である。あるいは、もっとも知恵がついた日である。今日のボキは、これまでの人生の中で一番の長老であり、一番のベテランである。経験があるからである。

つまり、今が大切だということである。禅僧がよくそういうことを言われるが、ボキは禅僧ほどの知識はない。されど、同感である。今の連続が、今日であり、未来である。確かにそうだ。

しかし、過去も現在も未来も「受け止め方」である。どう受け止めるかということが、もっとも大切である。少なくとも、そう思うことにしている。

受け流すと言っても良し。

感情的にならないことである。

未来のことも考えると、今日はもっとも未熟な日である。過去の積み重ねが一番なのが今日だとするなら、同じ論理で未来はこれからスタートするのだから、未来は発展形である。だから今日が一番未熟なのである。未来の経験は永遠に前もって積むことはできない。だからである。

未来の前には、ボキは最年少ジジイである。さらに未熟である。だから、「もっと勉強しよう」「もっと向上しよう」となる。

過去の人生から得たもので最高の自分が今日の自分であり、未来はもっとも未熟なこれからの自分なのである。

階段の下にいるのが、過去の自分。

階段の一番上にいるのが、未来の自分。

今日、生きている自分は階段の途中にいる自分である。

ということは、現在の自分は下の階段から見れば、最高の自分。

過去の自分は確かに未熟であり、あの時あすれば良かったとか後悔が先に立つのは仕方なしという面もある。でも、そりゃぁあたりめぇであって、未熟に見えない方がおかしい。もうすでに終わったことであるから、後悔も反省もしなくてよし。そんなことにこだわっていたら、第一人生がおもしろくないではないか。

ところが、階段の上を見ると、今の自分は一番低いところにいる。見上げるように高い階段かもしれない。あるいは途中で壊れているかもしれない。したがって、謙虚に十分注意しながら生きていくしかない。

過去の自分にこだわって後悔や反省ばかりしている人は、未来のことを考えていないのではないのか。

自分を磨いたり、向上させるという観点がないのではないのか。

ボキも人のことは言えない。言えないけど、過去にこだわって後悔ばかり、反省ばかりの日常生活ではない。

某大学大学院中退事件だって、もう取り戻しはできないのだから。

そんなことより未来を見据えて、今日を充実させていくことである。

 

今日はこれからお世話になっている歴史の会で史跡巡りをするから、その下見で利根町まで出かけてくる。ある寺院にあいさつをしてこなくちゃならない。3人で。有名な柳田国男関連である。

定年退職直後には、こんなことをやっている自分だとは夢にも思わなかった。

感謝である。 

それに昨日は千葉市の某高校で、授業をやっていた。二クラス合同であった。健康問題についての小論文を書くために材料を提供していた。サクセスフル・エイジングということを主眼にしてみた。修士の時に扱ったテーマでもある。パワーポイントでやった。生徒が大学の授業みたいと言っていたのには笑ってしまったけど。動画も採用して、興味を持ってくれるように工夫した。そんなのも、過去にコンピュータ関連の千葉県の教育研究センターに在職していたからできるようなもんである。ありがたい限りである。

 

さ、出かけよう。

 

夜は美酒を飲もう。般若湯というではないか。


わははっははははっはははっははっはははっはははっは。

 

(´∀`*)ノ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月5日(金)のつぶやき

2018年10月06日 06時26分26秒 | とーま君の流儀2018
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/