私の退職金
2008年4月23日(水)作成
私には、20年間大切に保存していたものがある。
それは、1988年1月10日の朝日新聞に、元都銀支店長(65歳)が「私の退職金」と題して書いたコラムである。
実に、哀しい内容であった。私自身が退職するとき、改めて読んでみようと、保存していたものである。次のとおりである。
旧制の商業学校をおえ、銀行に就職したのは、あの大戦が始まる直前だった。そして大学専門部の夜学で法律を学び、やがて兵役。その後まさに時の流れに身を任せて、陸軍予備士官学校を卒業したのは終戦の三カ月前であった。
復員後、銀行に復職。私には今様の青春など全くなかった。本店、支店を転々。学歴の劣等感も、取引先への悩みも、人事考課の悔しさも、何もかも今は茫々たる思いでのかなたに消えた。
旧制中卒同期で支店長職にたどり着いたのは、一割にも満たない五人であった。五十歳で従業員百人余の中小企業に出向した。出向先の役員を務めているうちに五十五歳で定年。特別の感慨はなかった。が、私は運がよかったと思うことに決めた。兵隊も、銀行もである。
出向先でさらに五年、待遇もまずまずで六十歳となった。突然、女房が、がんの宣告を受けて入院。私は迷わず会社を辞めた。痛哭というほかない思いで二年間、毎日病院へ通った。女房はしかし逝った。その日からまた二年の歳月がたった。蟄居し、無為の日々である。
退職金を含め、コツコツ蓄えた預金がいま三千万円。銀行からの年金と厚生年金とで月に約四十万円となる。家は自宅とはいえ、全くのウサギ小屋だが、独り住まいの私には十分。
これが私の能力では精いっぱいの人生であった、といまは思うことにしている。全くの自由、退屈もせず、ウツにもならず・・・。
この分では到底長生きは望めないが、もう何もかもたくさんである。何も欲しくない。
退職金の使途と運用(単位万円)
手取り退職金 2000
(別に60歳以降の終身年金 年120)
個人年金への振り替え 500
銀行定期預金 900
国債 300
郵便局定額預金 300
私は、今年の3月末退職した。そして、読んだ。やはり、何時読んでも、哀しい。
「もう何もかもたくさんである。何も欲しくない。」
2008年4月23日(水)作成
私には、20年間大切に保存していたものがある。
それは、1988年1月10日の朝日新聞に、元都銀支店長(65歳)が「私の退職金」と題して書いたコラムである。
実に、哀しい内容であった。私自身が退職するとき、改めて読んでみようと、保存していたものである。次のとおりである。
旧制の商業学校をおえ、銀行に就職したのは、あの大戦が始まる直前だった。そして大学専門部の夜学で法律を学び、やがて兵役。その後まさに時の流れに身を任せて、陸軍予備士官学校を卒業したのは終戦の三カ月前であった。
復員後、銀行に復職。私には今様の青春など全くなかった。本店、支店を転々。学歴の劣等感も、取引先への悩みも、人事考課の悔しさも、何もかも今は茫々たる思いでのかなたに消えた。
旧制中卒同期で支店長職にたどり着いたのは、一割にも満たない五人であった。五十歳で従業員百人余の中小企業に出向した。出向先の役員を務めているうちに五十五歳で定年。特別の感慨はなかった。が、私は運がよかったと思うことに決めた。兵隊も、銀行もである。
出向先でさらに五年、待遇もまずまずで六十歳となった。突然、女房が、がんの宣告を受けて入院。私は迷わず会社を辞めた。痛哭というほかない思いで二年間、毎日病院へ通った。女房はしかし逝った。その日からまた二年の歳月がたった。蟄居し、無為の日々である。
退職金を含め、コツコツ蓄えた預金がいま三千万円。銀行からの年金と厚生年金とで月に約四十万円となる。家は自宅とはいえ、全くのウサギ小屋だが、独り住まいの私には十分。
これが私の能力では精いっぱいの人生であった、といまは思うことにしている。全くの自由、退屈もせず、ウツにもならず・・・。
この分では到底長生きは望めないが、もう何もかもたくさんである。何も欲しくない。
退職金の使途と運用(単位万円)
手取り退職金 2000
(別に60歳以降の終身年金 年120)
個人年金への振り替え 500
銀行定期預金 900
国債 300
郵便局定額預金 300
私は、今年の3月末退職した。そして、読んだ。やはり、何時読んでも、哀しい。
「もう何もかもたくさんである。何も欲しくない。」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます