スヴャトスラフ・リヒテル
2008年2月11日(月)
ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997)のことは、以前からブログに書こうと思っていた。しかし、なかなか書けなかった。それは、思い出せない部分があったからなのである。
そうした中、2月7日の中国新聞のコラム「緑地帯」にリヒテルのことを書いている人がいた。広島市出身で、東京で経営コンサルタントをしているOさんという方だ。
この方のコラムを読んで、私もリヒテルのことを書くことができるようになった。それは、Oさんが私の思い出せなかった記憶を補ってくれたからである。Oさんのおかげで、リヒテルの演奏会の「年月日」が分かった。
リヒテルが初めて広島で演奏をした時の様子は、昨日のことのように覚えている。
「1970年9月22日」、私は広島市公会堂の最前列の左端辺りに座っていた。予鈴が鳴るや、それまでざわついていた満員の客席が、水を打ったように静まりかえった。後にも先にも、予鈴で静かになった演奏会は初めてである。
リヒテルは、東西冷戦のもと、西側諸国での演奏会デビューが遅く、長らく「幻のピアニスト」と言われていた。それだけに、この日の聴衆の期待は否が応にも高まった。その高まりが客席に、「静」という緊張感をもたらしたのだ。
シマノフスキーは、私にとって馴染みがなく、初めて聞く作曲家であった。
リヒテルは、知る人ぞ知る、大男でいわばゴリラのような体格をしている。
そのリヒテルが、ピアノに襲いかかるように、満身の力を込めて、ピアニッシモを演奏するのだ。無音の録画を見せられたら、フォルテッシモで演奏しているようにしか見えないだろう。後にも先にも、これだけ力を込めたピアニッシモの演奏は経験したことがない。
圧巻は、プロコフィエフのピアノソナタ第7番「戦争ソナタ」だった。「戦争」というだけに、激しい曲なのだ。その激しさは、ピアノの蓋が「ぐらぐら」と揺れ、あたかもピアノが、悲鳴を上げているかのようだった。私は眩暈がするような興奮を覚えた。後にも先にも、この「フォルテッシモ!」という演奏会に出会ったことはない。
Oさんは言う。
「当時、私は23歳。人生をどのように生きたらいいのか、答えが見つからず悶々としていた時期であった。そんな時のリヒテルとの出会いは私には生涯忘れることができない。どれだけ大きな希望と勇気を授けてもらったことか。」
当時、Oさんと同じ23歳であった私であるが、私の彷徨は、振幅の狭いものであった。リヒテルのピアニッシモからあのフォルテッシモのように振幅の広いものであれば、私の人生は違ったものになっていたように思う。
リヒテルの演奏を聴いたのは、1970年9月22日。
私の「人生時計」 12時42分 チン
(修正)
2008年2月18日、一部修正。
2008年2月11日(月)
ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997)のことは、以前からブログに書こうと思っていた。しかし、なかなか書けなかった。それは、思い出せない部分があったからなのである。
そうした中、2月7日の中国新聞のコラム「緑地帯」にリヒテルのことを書いている人がいた。広島市出身で、東京で経営コンサルタントをしているOさんという方だ。
この方のコラムを読んで、私もリヒテルのことを書くことができるようになった。それは、Oさんが私の思い出せなかった記憶を補ってくれたからである。Oさんのおかげで、リヒテルの演奏会の「年月日」が分かった。
リヒテルが初めて広島で演奏をした時の様子は、昨日のことのように覚えている。
「1970年9月22日」、私は広島市公会堂の最前列の左端辺りに座っていた。予鈴が鳴るや、それまでざわついていた満員の客席が、水を打ったように静まりかえった。後にも先にも、予鈴で静かになった演奏会は初めてである。
リヒテルは、東西冷戦のもと、西側諸国での演奏会デビューが遅く、長らく「幻のピアニスト」と言われていた。それだけに、この日の聴衆の期待は否が応にも高まった。その高まりが客席に、「静」という緊張感をもたらしたのだ。
シマノフスキーは、私にとって馴染みがなく、初めて聞く作曲家であった。
リヒテルは、知る人ぞ知る、大男でいわばゴリラのような体格をしている。
そのリヒテルが、ピアノに襲いかかるように、満身の力を込めて、ピアニッシモを演奏するのだ。無音の録画を見せられたら、フォルテッシモで演奏しているようにしか見えないだろう。後にも先にも、これだけ力を込めたピアニッシモの演奏は経験したことがない。
圧巻は、プロコフィエフのピアノソナタ第7番「戦争ソナタ」だった。「戦争」というだけに、激しい曲なのだ。その激しさは、ピアノの蓋が「ぐらぐら」と揺れ、あたかもピアノが、悲鳴を上げているかのようだった。私は眩暈がするような興奮を覚えた。後にも先にも、この「フォルテッシモ!」という演奏会に出会ったことはない。
Oさんは言う。
「当時、私は23歳。人生をどのように生きたらいいのか、答えが見つからず悶々としていた時期であった。そんな時のリヒテルとの出会いは私には生涯忘れることができない。どれだけ大きな希望と勇気を授けてもらったことか。」
当時、Oさんと同じ23歳であった私であるが、私の彷徨は、振幅の狭いものであった。リヒテルのピアニッシモからあのフォルテッシモのように振幅の広いものであれば、私の人生は違ったものになっていたように思う。
リヒテルの演奏を聴いたのは、1970年9月22日。
私の「人生時計」 12時42分 チン
(修正)
2008年2月18日、一部修正。
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