~ 御薗橋の少し上流から河川敷に降りた。花火をした現場だ。二十六年前の夏、ここで一万発以上のロケット花火が飛んだ。山室は、思いだし笑いを堪えられなかった。 ~
予備校時代、何人かで花火をしようとし、いつのまにか規模が大きくなって、山室たちが暮らしていた寮とは別の寮生も巻き込み、賀茂川をはさんでのロケット花火の撃ち合いは、多くの見物客をまきこむこととなり、民家に流れ弾が打ち込まれると警察も出動する事態になってしまった思い出だ。
青春時代のおばかなエピソード。
いま思うと何であんなことをやったのだろう、しかしそれが何であんなに楽しかったのだろうと、恥ずかしくなるような事件とかイベントとかの思い出を、多くの人がもっている。
考えてみると、学校というのは、そういう機会をつくる場なのかもしれない。
冷静に考えると、勉強でも部活でも、きわめて非効率的なことを積み重ねている場だから。
大学入試に必要な科目だけを、各人の能力にあわせて、必要な時間だけやれば、もっとも効率のよい勉強の仕方になるだろうが、結果はでたとしても人としての成長という面では何か足りないものが残る気がする。
いや、実際には純粋に効率だけを求めた場合、意外と結果も期待はずれなものになることも多いのだ。
客観的にはむだと見えてしまう、学校行事のようなものが、勉強の質をあげることにもつながる。部活でも同じだ。
時々この理屈(というか感覚)を理解していただけないこともあるのはたしかで、おそらくまじめで、一直線な学生時代を過ごしてきたせいだろうなと想像するのだ。ちょっとさみしい。
花火の夜、両岸に分かれて打ち合っているなか、山室の親友の長崎が「突撃!」といって川の真ん中までざぶざぶと進んでいく。
対岸から長崎への集中砲火がはじまる。仲間の山室たちも、なぜか長崎に向かって撃ち始める。「ふざけんなよ、あちーよ」とわめく長崎。笑い転げる山室たち。
~ 光に満ち溢れた夜だった。希望と焦りとエネルギーが充満していた。自分たちがどこに向かうか分からないこと。それが、不安や絶望より、希望やエネルギーと結びついていた。人生がまだ無意味なこと。まだ決まってないこと。それが不安感ではなく開放感を溢れさせた。 ~
その長崎が、今がんを煩って余命いくばくもない状態となっている。
何十年かぶりに山室に連絡をよこし、大学時代になしとげられなかったミッションを果たそうと言い出す。
なぜ何十年も連絡をとれてなかったのか。
長崎の彼女を山室が好きになってしまったことから始まるその顛末は、これまた学生時代特有の人間関係の切実さともろさを描いて、せつない。
ひょっとしたら、世代を選ばず読んで損しない作品かもしれない(S先生ありがとうございました)。