水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「正解」化力

2020年10月07日 | 学年だよりなど
  3学年だより 「正解」化力


 共通テスト演習の授業で扱った評論12は、正直よくわからない文章だったが、「決断とは宗教的決断でしかありえない」というテーゼは頭に残る(残ってませんか?)。


~ 映画(マトリックス)の主人公がピルを飲むとき、赤いピルと青いピルが目の前に示される。青いピルを飲めば、これまでどおりの生活にそのまま戻れるが、赤いピルを飲めば真実を知ることになると言われるのだ。果たして赤いピルが本当に真実を知らせるものなのか、なんら理性的説得はない。ただ決断が求められるのである。これは宗教的決断のようなものである。信じる決断をした人にだけ見えてくる「真実」があるのだが、決断に先立ってそれは知られ得ない。コンピュータ回路の中での説得は、このように宗教的決断への誘惑に似ている。 ~


 私たちの毎日は「決断」の積み重ねで成り立っている。
 朝目覚ましが鳴る、すぐに起きようか、あと5分だけ寝ようか。
 浴室に入りシャワーの栓をひねる、頭から洗うか、からだから洗うか。
 朝ご飯をおかわりしょうか、やめようか。電車の何両目に乗るか、自販機で何を買うか、そんなに親しくない友人に声をかけるかほおっておくか、弁当を買おうかパンにしようか、学校に残って勉強しようかマック行こうか……。
 大学を何校受けようか、合コンに出ようかやめようか、就活いつからはじめようか、内定もらったうちどこにしようか、つきあってくれと言うか待つか、そろそろ結婚しようか……。
 決断をする際に人は、それなりに理由を探し、自分を納得させようとする。
 その決断が正しいかどうかは、誰が決めるのだろうか。客観的に説明しうるだろうか。
 Aという決断をした場合と、Bという決断をした場合の二種類の人生を、同時並行で進めていくことはできない。
 客観的にAが正しいかどうかは、誰もわからない。
 もちろん他人から見れば、「ほんとはあいつはBを選ぶべきだった」と言いたいような事例はいくらでも存在するだろう。
 でも、それを確かめるすべはない。
 自分では正しいと確信していても、それは「根拠なき自信」というしかないだろう。
 どっちが正しいのか、選ぶ時点で合理的に説明することができないのだとしたら、決断はまさに「宗教的決断」だ。
 自分の決断を「正解」と呼べる日がもし来るとするなら、自力で「正解」にした日だ。
 他人から何か言われても、なかなか結果が出なくても、正解と言える日が来るまでやり続ければいいだけだ。
 もちろんそのためには、自分の現実を分析したり、必要な努力が何なのかを見つけたりする作業も必要になる。
 何が必要なのかについては、科学的、合理的に説明しうる。データもある。
 腹をくくって、根拠なき自信を支えるだけの努力や工夫をし続けること――。
 つまり「自分の選択を正解に持って行く力」を今みなさんは養っているのだ。
コメント
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