ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。御坂峠のその茶店は、いわば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。峠の頂上から、バスで三十分ほど揺られて峠の麓、河口湖畔の、河口村という文字どおりの〈 ①カン 〉ソンにたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私宛の郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらいの割で、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。天気のよい日を選んで行く。ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をしてくれない。それでも時々、思い出したように、はなはだ〈 ②サン 〉ブン的な口調で、あれが三ッ峠、向こうが河口湖、わかさぎという魚がいます、など、もの憂そうな、つぶやきに似た説明をして聞かせることもある。
河口局から郵便物を受け取り、またバスに揺られて峠の茶屋に引き返す途中、私のすぐ隣に、濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんと座っていて、女車掌が、思い出したように、みなさん、今日は富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分一人の詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックしょった若いサラリーマンや、大きい日本髪結って、口もとを大事にハンケチで覆い隠し、絹物まとった芸者風の女など、体をねじ曲げ、一斉に車窓から首を出して、今さらのごとく、〈 aその変哲もない三角の山 〉を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私の隣の御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客と違って、富士には〈 b一瞥も与えず 〉、かえって富士と反対側の、山道に沿った断崖をじっと見つめて、私にはそのさまが、〈 c体がしびれるほど快く感ぜられ 〉、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見たくもないという、〈 ③ 〉な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴のそぶりを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って、老婆と同じ姿勢で、ぼんやり崖のほうを、眺めてやった。
老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやり一言、
「おや、月見草。」
そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所を指さした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、今、ちらとひと目見た黄金色の月見草の花一つ、花弁も鮮やかに消えず残った。
三七七八メートルの富士の山と、立派に相〈 ④ 〉し、みじんも揺るがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。〈 d富士には、月見草がよく似合う 〉。
問一 波線部①「カン」・②「サン」の漢字として適当なものを選べ。
① カンソン 【 ア 閑 イ 寒 ウ 感 エ 簡 オ 緩 】
② サンブン 【 ア 産 イ 算 ウ 散 エ 三 オ 賛 】
問二 空欄③・④を補う適当な語をそれぞれ次から選べ。
ア 曖昧 イ 傲慢 ウ 表白 エ 独立 オ 高尚 カ 対峙 キ 往生 ク 得心
問三 傍線部a「その変哲もない三角の山」と「私」が言うのは、どのような考えがあるからか。同段落から十字以上十五字以内で抜き出せ。
問四 傍線部b「一瞥も与えず」と反対の意味の表現を八字で抜き出せ。
問五 傍線部cとあるが、「体がしびれるほど快く感ぜられ」た状態の説明として適当でないものを選べ。
ア ほかの乗客とやや異なる雰囲気を持つ老婆のたたずまいには、何かを憂えているような雰囲気も感じられる。
イ 老婆が整った顔立ちでしっかりした居ずまいであった点にまず心をひかれていた。
ウ 老婆のきちんとした姿勢に刺激されて、思わず母親のことを思う心情になっている。
エ 他の乗客とは異なる老婆のイメージが後で描かれるけなげな月見草の姿につながっていくようである。
問六 傍線部d「富士には、月見草がよく似合う」と述べる「私」の思いを説明したものとして最も適当なものを選べ。
ア 断崖にきらめく黄金色の花弁が、高山に咲く植物としてまことに似つかわしく、周囲の風景によくマッチしているように思われたから。
イ 富士の俗に媚びない気高さと月見草のささやかな可憐さの対照が心地よく感じられたから。
ウ 金剛力士のように立っている月見草の姿が、富士に匹敵するぐらいたくましく、いさましいものに思えたから。
エ 巨大な富士に対して、ささやかながらもけなげに立ち向かっている月見草に、孤高で反俗的な姿勢を感じたから。
問七 次のうち太宰治の作品はどれか、該当するものをすべて答えよ。
ア 河童 イ 破戒 ウ 和解 エ 蒲団 オ 故郷 カ 桜桃
〈こたえ〉
問一 ① イ ② ウ
問二 ③ オ ④ カ
問三 あんな俗な山、見たくもない
問四 ちらとひと目見た
問五 ウ
問六 エ
問七 オ・カ
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