「である」ことと「する」こと 第7段落 ㉕~㉖
学問や芸術における価値の意味
㉕ アンドレ・シーグフリードが『現代』という書物の中でこういう意味のことを言っております。「教養においては――ここで教養とシーグフリードが言っているのは、いわゆる物知りという意味の教養ではなくて、〈 内面的な精神生活 〉のことを言うのですが――しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚を持つこと、これが問題なのだ。」そうして彼はちょうど「である」と「する」という言葉を使って、〈 教養のかけがえのない個体性 〉が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚を持とうとするところに軸を置いていることを強調しています。ですから彼によれば芸術や教養は〈 「果実よりは花」 〉なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。こうした文化での価値規準を〈 大衆の嗜好や多数決 〉で決められないのはそのためです。「古典」というものがなぜ学問や芸術の世界で意味を持っているかということがまさにこの問題に関わってきます。
㉖ 政治や経済の制度と活動には、学問や芸術の創造活動の源泉としての「古典」に当たるようなものはありません。せいぜい「先例」と「過去の教訓」があるだけであり、それは〈 両者 〉の重大な違いを暗示しています。政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。政治はどこまでも「果実」によって判定されねばなりません。政治家や企業家、とくに現代の政治家にとって「無為」は価値でなく、むしろ「無能」と連結されてもしかたのない言葉になっています。ところが文化的創造にとっては、なるほど「怠ける」ことは何物をも意味しない。先ほどのアルバイトにしても、何も〈 寡作 〉であることが立派な学者、立派な芸術家というわけでは少しもない。しかしながら、こういう文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではない。そこではしばしば「休止」がちょうど音楽における休止符のように、〈 それ自体「生きた」意味を持っています 〉。ですから、〈 この世界 〉で瞑想や静閑が昔から尊ばれてきたのには、それだけの根拠があり、必ずしもそれを時代遅れの考え方とは言えないと思います。文化的創造にとっては、ただ前へ前へと進むとか、不断に忙しく働いているということよりも価値の蓄積ということが何より大事だからです。
Q49「内面的な精神生活」とはどのようにすることか。40字以内で抜き出して答えよ。
A49 自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚を持つこと
Q50「教養のかけがえのない個体性」とはどういうことか。
A50 内面的精神生活で得られる自己の存在への深い自覚は、他の何物にもかえがたい、その人独自の価値をもたらすということ。
Q51「果実よりは花」とあるが、「果実」「花」は何のたとえか。それぞれ抜き出して答えよ。
A51 果実 … そのもたらす結果 花 … それ自体
Q52「大衆の嗜好や多数決」とほぼ同じ内容を表す言葉を、24段落から20字以内で抜き出せ。
A52 大衆的な効果と卑近な「実用」の規準
Q53「両者」とは何と何か。それぞれ10字程度で抜き出せ。
A53 政治や経済の制度と活動 学問や芸術の創造活動
Q54「寡作」の対義語を記せ。
A54 多作
Q55「それ自体「生きた」意味を持っています」とあるが、「それ」の指す内容を40字以内で記せ。
A55 文化的な精神活動において、外面的には何も生み出さず休止しているように見える時間。
Q56「それ自体「生きた」意味を持っています」と言えるのは、何が行われているからか。5字で抜き出せ。
A56 価値の蓄積
Q57「この世界」とは何の世界か。10字以内で記せ。
A57 学問や芸術の世界
㉕教養……内面的な精神生活
↓
機能
↑ ではなく
↓
自分について知ること、
自分と社会との関係や自然との関係について自覚を持つこと
教養のかけがえのない個体性
↓
彼のすること
↑ ではなく
↓
彼があるところに、あるという自覚を持とうとするところ
芸術・教養
↓
果実 そのもたらす結果
↑ よりは ↑
↓ ↓
花 それ自体……価値がある
∥
文化での価値規準
↑
↓
大衆の嗜好や多数決
㉖政治や経済の制度と活動 先例・教訓 果実
↑
↓
学問や芸術の創造活動 古典……それ自体としての価値 花
政治家 無為 → 無能
↑
↓
文化的創造 休止 → それ自体「生きた」意味……価値の蓄積
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