本日は我が学部の卒論締日で、私の卒論指導生も全員無事に卒論を提出できた。
大学の教育業務で最大の負荷を乗り越えた。
なので帰宅して、ビールより格上の発泡ワインの栓を抜いて祝杯をあげた。
最大の負荷の理由は、10名以上の指導学生が個別にデータをとって分析し、それを学術論文形式に指導するのを一人で担当するから。
大学院生なら、こちらが方向づけをアドバイスするだけで、少なくとも分析は自分でやれる。
ところが大学生だと分析も結果の記述も指導も、手取り足取り指導しなくてはならない。
しかも各自内容が異なるので、一斉指導ではなく個別に指導となる。
最後は論文の添削に追われる。
言い換えれば、わが心理学科の学生は、自分で文献検索して、質問紙を作成あるいは実験をして、得たデータを分析して、12000字以上の学術論文形式にまとめる作業をこなして、はじめて卒論の単位が得られる。
理系の学部なら研究室でテーマを与えられ、実質共同研究の一部を担当すればいいし、文系の学部ならいくつかの文献を適当に(自分の思惑で)まとめればいい。
このような負荷の高い作業をなし終えて、それを卒業の証しとして社会に送り出すのだが、
社会人になると、自分で文献検索して、質問紙を作成あるいは実験として、得たデータを分析して、12000字以上の学術論文形式にまとめる作業とは逆の、簡単・簡略に A4の1ページにまとめることが要求される(物事をじっくり考えることが許されない)。
たぶん学生は卒業後、データ分析もこれほどの論文を書く機会も二度とないのではないか。
大学教育が世間のニーズに合っていないといわれるかもしれないが、高度な教育を必要としていない社会の方が将来が暗いのではないか。
大学教育では足りない!というのが、望ましい状態ではないのか。