今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

心理学史を学ぶ楽しさ

2018年05月26日 | 心理学

高校の時、国語の授業の中に「文学史」があり、その部分の授業がとても楽しかったのを覚えている。
自分が実際に読んでもいない膨大な文学作品について、あたかもそれらすべて読んで理解したかのように、それぞれの作品・作家の歴史的価値を論評できる(超越的)視点を一挙に獲得できることが爽快だったからだ。

ところが、大学に入って、実際の学問をやっていく立場になると、科学史なるものにはまったく興味を覚えなくなる。
なぜなら、科学は直線的に”進歩”するものだから、最新なものほど価値があり、
過去の研究ほど批判され・乗り越えられた古くさいものとなるため、
少なくともその分野の最先端に立ちたい者にとっては情報的価値はまったくない、と思っていたから。

逆にいえば、科学史に関心をもつのは、第一線から退いた、先端を切り開く推進力がなくなった者が、 知的引退後の手すさびとして手をつけるものと勝手に思っていた。

そういう自分が、大学1年生対象の「心理学概論」を担当して、どうしても心理学史に触れなくてはならなくなった(公認心理師対応科目として教える内容が指定されているし)。
そこで心理学史の知識を集めるため、たとえば”心理学の父”こと実験心理学の開祖・ヴント(Wundt)の著作の翻訳を古書で入手して、面白くないのを我慢して読んだりした。
といっても心理学史の専門家になるつもりはないので、これら古典を読みあさって自分の手で学史を構築しようとは思わない。

そこで他人の褌を借りようと読んだのが、高橋澪子氏の 『心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』 講談社 2016(学術文庫の電子書籍版)。

読んでいて、文学史を学んだ時の楽しさ以上の、歴史を学ぶ意味がわかった。
大切なのは、事実の列挙としての学史ではなく、それらに対する超越的視点すなわち学史”論”にある。

氏は学史(論)の意義をこう論じている。
 「現代を含めたすべての時代を相対化することによって、現代を限っていたものの特質を知り、その歴史的制約から現代を未来に向けて解き放つための手がかりの一端を提供することにある」(p120-121)と。
すなわち、現代(最先端)の心理学が準拠しているパラダイムを暗黙視・絶対視せず、明示化し相対化して、そのパラダイムを束縛している制約・限界を自覚することによって(また過去に排除された他のパラダイムを再評価することによって)、学としての在り方をもっと自由に問題化する視点を獲得することにある。
これって、私が準拠している現象学の視点(目的)そのものだ。

具体的には、氏は心理学をいまだに束縛している2つの二元論すなわち身心二元論と主客二元論の根深さを問題にしている(ついでながら、私の最新論文も、この2つの二元論を乗り越える心理学の構築を宣言している)。 

この本が面白かったのはそれだけではない。
二元論問題以外にも、前々から気になっていた心理学に通底している問題にもちゃんと言及されている。
たとえば、「精神」(spirit)と「心」(mind)の違い(現代心理学では「精神」は、個我を超えたトランスパーソナル=spiritualな含意があるためか、死語になっている)。
そして「心的エネルギー 」って何か(エネルギー保存の法則に従う科学的概念なのかそれとも単なる文学的比喩なのか。リビドーを実体視すれば”気”に接近する)。 

文学史(論)がそうであったように、心理学史”論”は、超越した視点で心理学を眺めることができる。

実際の文学作品を読む前に文学史を学ぶ価値があるように、現代心理学を学ぶ前に心理学史論を読んで、現代心理学が準拠しているパラダイムを絶対視しない態度を身に付けてもよいのかもしれない。
残念ながら、私の「心理学概論」の授業は、そのような視点を提供していない(既存の学派を紹介するのに精いっぱい)。
一方、大学院の授業では、現象学の視点から現代心理学のパラダイムを批判している。 
心理学を一通り学んで、その限界を肌で感じてからの方が学び甲斐があるかもしれない。


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