15万石大名
忠真ー忠雄ー忠基ー忠総ー忠苗ー忠固ー忠徴ー忠嘉ー忠幹ー忠忱
2006年2月
九州の玄関にして本州と接する要の地小倉(福岡県北九州市)は、九州にひろがる外様大名あるいは長崎・キリシタンの抑えとして、徳川氏の信頼厚い親藩レベルの大名・小笠原氏があてがわれた。
小倉は、小笠原秀政(19)の次男忠真(ただざね、20)が播磨明石から1632(寛永9)年に15万石の大名として移封された地。
また6年後に甥(秀政長男忠脩の子)の長次(播磨龍野6万石)が豊前中津に8万石で、弟の秀政三男忠知が豊後杵築に4万石で、秀政四男重直は松平家に養子として豊後竜王に3万7千石で配置され、九州北部はさしずめ計30万石の小笠原王国の観を呈した。
その後惣領家だけは移封されることなく、幕末までずっと小倉の殿様だった(杵築の忠知系は幕末に肥前唐津藩主となって九州に戻る)。
といってもこのうち幾人かは養子であるが、いずれも糾法的伝は受けている。
宗玄寺
小倉北区妙見町にある宗玄寺は、もとは信州松本にあったもので、明石を経てこの地に現存。秀政の家臣の墓があるという。
バス停「広壽山」で降りて、バス通り沿いの宗玄寺に行く。
通りからはけっこう壮大な本堂が見えるのだが、山門(写真)もその脇の通用門も閉まっており、境内に入れない。
「不許入門参拝者」というわけか。
裏門は開いていたのでそこからこっそり入る。
境内は自家用車が止まっているものの人の気配がない。
本堂も扉が閉まってて本当に参拝すらできない。
隅の壁沿いに五輪塔などの墓が並んであり、秀政から礼法を伝えられ文書に残した家臣の小笠原主水(もんど)の墓の写真を撮って急いでそこを去った。
小笠原主水は、秀政に仕えた重臣で、秀政が妻の死を悲しんで隠居した時、行動をともにしたという。
そのような親密性もあって、秀政から礼書七冊(慶長本)を伝授される。
小笠原の一族として扱われたわけだ。
また、忠真に馬法を直伝したという(拾聚禄)。
広壽山福聚寺
ここは小倉小笠原家の菩提寺。
なぜ開善寺ではないのか、と思ったら、開善寺は別にちゃんとあった。
小倉2代目の藩主忠雄(21)が1665(寛文5)年黄檗宗の開祖隠元の弟子即非を明国から招いて創建。
また1701(元禄14)年に広壽山境内の如意庵を「長清寺」と改号。
長清の位牌を安置したという。
この寺は道沿いに案内標識があり、山号がバス停名になっているほどで、山の斜面に広大な寺域がある。
でも総門はくぐれたものの、本堂前の門が閉まっている。
北側の墓地から入ろうとしたけど入口がみつからず、もう一度、「広壽山福聚寺」と道標のある車道を進んでみる。
こちらは正門ではないのだが、駐車場があり、そばの裏口から境内に入れた。
しかし境内に入っても小笠原家の墓所が見当たらない。
本堂も閉まっており、賽銭を入れる口だけが開いている。
三階菱のある土蔵のような建物(写真)があるのだが、たぶん文書などの保管庫で墓所ではない。
仕方なしに、インターホンで住職に墓所を尋ねる。
そしたら、小笠原氏の墓所はこの寺ではなく、「右側の山の方を行った寺にある」という。
小笠原家墓所
そこと思われる山へ上がる道をすすむと、まさに右側に「忠真公廟所」の標識があり、その中は壁に囲われ木の門があった。
しかし門は固く閉まって開かない。
更に道を進むと左側の奥にも立派な墓所が見えてきた。
まずそちらに行く。
あたりは公園(足立公園)になっていて、墓所に達する道がないがかまわず直進。
三方を低い壁に囲まれた墓所は、江戸時代の小笠原の殿様の墓らしく立派だ。
その周囲にも外戚か家臣かの墓が並んでいる。
さて忠真公の墓だが、やはり目前にしてあきらめるわけにはいかない。
はるばる名古屋からやって来たのだ。
先の門からずっと坂をあがった墓所の裏口にあたる所に鉄扉があり、しっかり閉じ棒で閉められてはいるものの幸い施錠はされてない。
つまり手で閉じ棒をいじれば門は開く。
ときたま人や車が通るが、身なりを整え、できるだけ怪しくない風情を出して、さも廟所の関係者が用事があって入るかのように堂々と事務的に鉄扉の閉じ棒をあけ、廟所の敷地内に入った。
そして高さ2m以上の四角い石柱に四面とも漢文が彫られてある忠真公の立派な墓と対面した(写真)。
白い石に彫ってあり、しかも四面分もあるのでさらっとは墓碑銘の文が読めないのが残念。
すこし下に妻永貞院の墓もあり(夫婦並んでないのは側室のため?といっても嫡子忠雄は永貞院の子)、こちらは仏像が浮き彫りになっていた。
鉄扉をきちんと閉めて、後にした。
ちなみに小倉の殿様が代々ここに葬られているわけではない。
むしろ多くは江戸在府中に亡くなり、江戸浅草の海禅寺(かいぜんじ)に葬られた(→東京)。
開善寺
小倉の開善寺は小倉南区湯川にある。
広壽山からバスで湯川バス停点前に達すると、「開善寺参道」なる看板が出ている。
そこを左折して山側を登っていくと開善寺の門柱があり(写真)、参道らしくなってくる。
小倉市街の眺めがいい高台に達して開善寺に着く。
開善寺はもとは馬借町にあって、寺域も広かったらしい。
第二次長州戦争で幕軍を指揮した唐津藩主小笠原長行(→唐津)がそこに本営を置いたという。
しかし今の開善寺は、寺という雰囲気すらない。
本堂?も閉じられ、番犬がうるさく吠える。
自家用車が置いてあるから無人ではない。
ここは賽銭箱すらないので、参拝もできず、吠える犬のために早々に帰るしかない。
看板や門柱がある割には境内のなんと素っ気ない事。
しかしなんで小倉の寺ってみんな本堂が閉まっているの?
しかも開善寺を除いて裏側からこっそり入る所ばかり。
小倉には寺の参拝者っていないのか。
開善寺とは貞宗(7)が小笠原氏の菩提寺と命じたので(→伊賀良・開善寺)、
移封先には必ず建てられたのだが、まともに寺として機能しているのは、本山たる飯田と、埼玉県の本庄だけ。
ここはなんとか寺として存続しているが、墓地もなく行く末が心配。
福井県勝山のように境内・墓地は立派でも、無住となって荒れている所もある。
全国の開善寺よ、団結せよ!
小倉城・庭園博物館
小倉来訪の主目的は、小倉城内の「庭園博物館(小笠原会館)」にある礼法関係の資料を閲覧・撮影することだった。
事前に申込書で正式に申し込んでおいた所蔵の礼書(巻物状態になっている)を館員の人が白手袋で広げていく。
私はそれをデジカメで撮影。
その作業の繰り返し。デジカメだからこそ貴重な和書を傷めることなくその情報だけを複製できるのだからありがたい。
ただ、館内の礼法に関する説明は、分家の赤澤家(→貞宗と赤澤氏)と水島流すなわち正式な小笠原流の継承者ではない水島卜也に依っている点で、惣領家の本拠地小倉の資料館の説明としては疑問に残る。
ちなみに水島卜也は小池甚之亟(じんのじょう)貞成から礼法を学んだが、この小池甚之亟貞成は長時・貞慶の家臣であった。
子孫はこの小倉の地に「小池流礼法」を伝えているという。
幕末に城を自ら焼き払って出ていった小笠原惣領家とその後の小倉城との関係はすでに久しく薄いらしい。
なわけで、所蔵の礼書は実は、小笠原惣領家伝来のものではなく、彼らが出て行った後に、地元の篤志家から寄贈されたものという。
だから拝見した礼書自体も水島流ばかりだった訳だ(それでも巻物の絵が丁寧・鮮明で貴重な資料であることには変わりない)。
信州松本での資料(福嶋)でわかったのだが、小笠原惣領家は小倉ではなく、出ていった先の福岡県豊津に多数の文書を寄贈した。
豊津こそが小倉藩主小笠原氏の最終到達点なのだ。
ならばそこを訪れないわけにはいかない。
でも 今回は豊津にはコンタクトを取っていないので、次の機会としよう。
あと小笠原会館併設のレストランでは本膳料理を体験できるという。
これは貴重。なにしろ和食の作法はいわゆる「懐石料理」では学べないから。
ただここは要予約でしかも一人は絶対不可だと。
勝山の「板甚」(→越前勝山・板甚)のように柔軟に対応してくれないのは残念。
会館の売店で記念に三階菱の家紋が入った抹茶碗を買った(本当は家紋入りの茶入れが欲しかった)。
隣接している小倉城天守閣(写真)の土産物店には『三階菱』という名の焼酎がある(他の土産物店や酒屋にはなかった)。
忠真の兜のミニチュア模型も買った。
このように、この店には小笠原氏に関連するオリジナルなものが多いので、小倉の土産はここで買うことをすすめる(駅の土産店だと明太子ばかり)。
自然史・歴史博物館
いわゆる自治体経営の“歴史民俗資料館”も百万都市北九州ならかなり立派になる。
小倉から鹿児島本線で「スペースワールド」で降りる。
自然史コーナーの恐竜の巨大骨格群には驚くが、訪問の主目的は歴史の方。
館内には小笠原藩主代々の肖像、戊辰戦争での小笠原藩の遺品などが展示されている。
北九州市立図書館
小倉の街中にある。『北九州市史』のほか、小倉藩に関する書籍が多数ある。
また小笠原氏・礼法について詳しい『豊津町史』もここで閲覧・複写できる。
そして翌年、小倉の南東にある豊津を訪れた。