今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

豊前豊津:小笠原氏史跡旅13

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 最後の藩主として迎える維新

忠忱
2007年2月

福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)は、小笠原惣領家をめぐる旅の最後の地(残りは東京なので)。
小倉の旅から1年後やっとここに来れた。

時は幕末。1866(慶応2)年、第2次長州戦争が勃発。
小倉小笠原氏にとっては時が悪く、藩主忠幹ただよし28)が先年死去したばかり。
まだ5歳の幼い後継ぎ豊千代丸をかかえた家臣たちは、高杉晋作率いる長州軍に攻められて小倉城に自ら火を放ち、その地を去る(これを小倉では「御変動」という)。

一時肥後細川藩のもとに避難していたが、藩の落ち着き先を選ぶ必要がある。
家臣らによる投票の結果、仲津郡「錦原(にしきばる)の地に藩を移すことを決め、
その地を「豊津」と名づけた(古代このあたりを「豊の国」と言っていた)。

すでに豊千代丸は小笠原忠忱ただのぶ、29)と名乗っており、
廃藩置県までの短い間、明治2年「豊津藩」の藩主となる。
ちなみに、この地域をなぜ「みやこ・京都」というのかというと、景行天皇が宮を建てたという伝説によるという。


歴史民俗資料館

豊津での小笠原氏関係の資料は”小笠原文庫”として、みやこ町歴史民俗資料館(旧「豊津歴史民俗資料館」)に保管されている。
それらは忠忱の孫にあたる忠統(32)氏が、家に伝わる伝書類を豊津高校の同窓会に寄贈したもの(福嶋)。
それらは県指定の有形文化財になっている。
つまり歴史的価値はちゃんとある。
ちなみのこの資料館の開館式には忠統氏も出席されたそうだ。

資料館が作成した『小笠原文庫目録』によると、礼法関係では、1441(嘉吉1)年の小笠原政康(11)の『当家糾法大双紙』16巻が一番貴重
(→この礼書は偽書と判断されるが、礼書としての内容は素晴らしく、一部だけだが翻刻した)。
事前に閲覧を申し込んで、白手袋持参でできるだけ多くの礼書を撮影させてもらった。
あまりに多量の撮影だったので、カメラのバッテリー切れなど顔面蒼白のトラブルになった話はブログの記事にしてある→「九州の京都

学芸員の川本英紀氏は『豊津町史』・『行橋市史』をはじめとして、小笠原氏についてもかなりの執筆がある。
氏によると、小倉城を逃れる際の忠忱公らは、まずまともに家宝を持ちだせなかったとのこと。
そして逃れ先であった熊本の細川藩にも文書類が寄贈されているという(確かに細川家永青文庫の目録には多数の小笠原流礼書がある)。
さらに豊津に落ち着いてから、東京などで礼書を集めたという。
だから、ここの資料が小倉惣領家のすべてではなく、またそれ以外の収集品もまじっている。

また川本氏から発せられた疑問として、最後の藩主忠忱公は幼く、歴代の小倉藩主は養子を迎えたりしていたので、礼法は本当に伝わっていたのかということ。
それに対して公式見解を言えば、各藩主とも適当な時期に「糾法的伝」を受けていることは『笠系大系』に記されている。
ただ忠忱公は幼くして父(先君)を亡くしており、糾法的伝は受けていない。
そのことでかえって積極的に礼書を収集したのだろう。

いずれにせよ私自身は、中世武家礼法としての小笠原流礼法の確立過程(貞宗~貞慶の間、礼書でいえば、『三議一統』から『礼書七冊』まで)に関心が集中しており、それ以降(江戸時代)の伝承問題については、ほとんど関心がない。
江戸時代になると庶民相手に“小笠原流”と称する偽書っぽい作法書が多数出てくるし、また陰陽思想の過剰な脚色(神秘化という名の俗化)がされるし。
館内の展示には小笠原流礼法に関するものはないが、私にとっては小笠原文庫だけで充分。


小笠原神社

資料館に隣接した所にある。
これは小笠原氏の先祖を祀っていたのを明治になってここに移したものという。
いままで小笠原氏ゆかりの地の神社はすべて源氏の氏神の八幡神社だっだが、
最後の地のここでは小笠原氏そのものが氏神となったわけだ。
境内には小笠原長幹ながよし、30)篆額の大正4年建立の石碑がある(写真)。
樹木が少なく明るい境内で、敷地は整備されている。
小笠原神社前のグラウンドは小笠原氏の藩邸跡だ。

小笠原神社本殿
小笠原長幹の碑

小倉城内の藩校「思永館」

小倉四代藩主忠総ただふさ、24)は1789(天明9)年に城内三の丸に「思永斎」を建てた。
それが後に「思永館」と改名し、維新後は藩とともに豊津に移り、校名も変遷を続けて、現在の豊津高校になった。
思永館では当然のこと礼法も教えていたそうだ。
その豊津高校の敷地に藩校時代の黒門があり(写真)、奥には県指定の文化財で明治建築の思永館講堂がある。
その明治期の忠忱も郷土の人材育成に努力を惜しまなかったとか。
豊津高校は豊津という鄙びた所にあるが、藩校の伝統が生きていて、今でも北九州一の名門を維持しているという。

かように、豊津は藩主として最後の地であり、小笠原文庫・小笠原神社などがあって、ここも”小笠原の郷”といえる。


行橋市立図書館

豊津にはビジネスホテルがないので、豊津行きのバス・鉄道の出発地である行橋(ゆくはし)に宿をとり、そこから豊津までに往復した。
行橋には小笠原氏の史跡はないが、街の一角には家々の前に堀川が流れて風情がある。
街の東はずれに歴史資料館と図書館が一緒になった建物がある。

細かい話だが、豊津にある「みやこ町中央図書館」はコピー代が1枚20円と高い(ここの利用者には大量に複写を申し込む人はいないようだ)
ほぼ同じ資料がある行橋なら1枚10円と半額。
あるいは小倉の北九州市立図書館でもOK。

やがて忠忱は伯爵となり、東京に転居する。

ちなみに行橋駅前から、リニューアルオープンした北九州空港へのシャトルバスが出ている。
東京からの旅なら空路が便利かも。

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