「手相は統計学である」という嘘を、いまだに言う人がいて呆れる。
その人は「統計学」がなんたるかを知らない。
知らない概念を使って断定しているのであるから、その命題は意味不明な妄言でしかない。
統計学とは、データを集計する応用数学である。
データを集計する基本は、データ数とのその合計である。
この計算結果に準拠しないものは統計学ではない。
特定の手相の人が、どういう状態(知性・寿命など)だったかという、2つの変数間の相関性を判断するには、データをとった人たちから、ある状態だった人は幾人、そうでない人は幾人という集計結果を明らかにする必要がある。
そして、それらのデータによって、2変数間の関連性の強さの指標である「相関係数」が算出される(上の場合、正確にはクロス表分析による連関係数の算出だが、ここでは2変数間の相関性を説明したいので、より一般的な相関係数に置き換える)。
それによって特定の手相たとえば生命線の長さと寿命の長さとの相関関係が強いか弱いか、0(無相関)とみなして良いかまで判断できる。
これが統計学。
こういうことを一切しないどころか、幾人のデータを元にしているか、それに該当すのは幾人かの%すら示さないのは、小中学生レベルの集計ですらない。
なので手相は統計学ではないと断言する。
それでも統計学と強弁するなら、統計学の数学的根拠は確率論であるから、手相は確率現象ということになり、決して”断定”できない(手相が真にデータに基づいているなら、あなたが○○である確率は65%というように確率表現ができる)。
いやしくも「〜学」というなら、その学の要件を満たさなくてはならない。
それが知性ある人間が構成する世界の常識というものだ。
それに対し、易(えき)占いは、データに基づいて帰納的に構成されたものではなく、陰陽理論に基づく演繹的論定であるから、原理的に統計学ではない。
一方手相は、陰陽理論に基づくものでもない※。
なら手相の論拠はいったいどこ(那辺)にあるのか。
※:易は運気の絶え間ない変動を重視する運命論、手相は誕生時にすでに決まっているという宿命論という違いもある。
漢方なども、三千年の歴史で、現象を見て今でも残ったものだから効果ある と漢方家は仰いますが、そうするとエビデンスが出ていても良さそうなものなのに…とも思います。
漢方は、臨床的にはそれなりの効果が認められていて、今では西洋医学の先生も治療に併用しているほどですが(例えば天気痛)、理論はいまだに超古典の『黄帝内経』を論拠にしている現状に呆れます(現代医学がヒポクラテスを論拠にしているようなもの)。
漢方は実証(エビデンス)的にはもちろん、理論的にも発展すべきなのですが、肝心の体内の陰陽二気が科学的に確認されておらず、また解剖学的に五臓六腑だけで”脳”が含まれていないのが致命的欠点です(経絡には頭部は含まれているのに)。
易も漢方も3000年前のまま進歩無しなのは、科学ではなく思想に過ぎないからです。
私は、これらの素晴らしい東洋の知恵も思想を脱して科学になってほしいと思っています。