久しぶりに大学の元教え子の結婚式に出席した。
実は式の招待状が届いたのは昨年の6月で、秋口に式を予定していたが、コロナがぶり返したので、半年延期になったのだ。
言い換えれば、大切な人生の通過儀礼がやっと通常通り執り行なえるようになったわけだ。
すなわち、大勢での密集や会食(談笑)が抵抗なくできる状態に戻った。
結婚式は、人生の通過儀礼※の中で、当事者が主体的に開催し、享受できる唯一の儀式である。
※:主なものは「冠婚葬祭」すなわち、加冠の儀(成人式)、結婚式、葬式、死後の回忌祭。他にお七夜、食い初め、七五三、還暦など。
そして主催者と縁のあった人々が集って、つかぬまの出会い・再会を楽しめる。
実は、この日のために礼服を新調し(手持ちの礼服はウエストが閉まらなくなった)、靴も礼服用のストレートチップを購入し(今では革靴は儀礼にしか履かない)、二日前に散髪して初めて白髪を染め、すっかり新鮮な状態で臨む。
披露宴だけの出席と思っていたら、当日になって招待状をよく見たら、挙式からの出席だった。
キリスト教会での挙式出席はよくあるが、神(道)式での挙式に参列するのは初めて。
実は、日本の伝統的結婚式では、いわゆる挙式は、結婚する当事者2人と、式三献(三々九度)の儀式を執り行なう雄蝶・雌蝶役の2人の女性と花嫁を介添する女性の計3人と合わせて5人だけで行なった※。
※:雛人形の男雛・女雛と三人官女の組み合わせがこれを示す。言い換えれば五人囃子以下の雛壇は人形屋さんの追加分。
すなわち結婚は本来は当事者2人だけの儀式で、親兄弟すら同席しないものなのだ。
ただし、その後の宴会は大勢参加して夜通し(3日間)続いた。
キリスト教式の結婚式※を模して大正時代から始まった神式の挙式は、伝統的三々九度や神道的儀式(修祓、祝詞、玉串奉奠、鈴の儀など)も含まれるが、キリスト教式に指輪の交換などもする(キスはしない)。
※:キリスト教式結婚式は、逆に開放的で、たまたま教会に居合わせた部外者も参列できる。
今回の神社は、出雲系なので、拝礼は出雲式に二拝四拍手一拝。
さすが神官の拝礼姿勢は直角で見事だった。
ちなみに、参列者は指示されなくても全員マスク。
続く披露宴での私の席は”新婦友人”テーブルの一角で、大学の教え子がいるかと思ったらおらず、同じ丸テーブルを囲むのは高校時代の友人たち(♀)と、卒業後の友人たちの2グループに挟まれた状態。
すなわち、私にとっての縁者がおらず、しかも双方とも新婦の年齢帯なのでまず私とかなりの年齢(世代)差がある。
さらに私には「大学教授」の肩書きが各人に配られた座席表に記されている。
大学教授って話しかけづらい相手の上位にくることは知っている※。
これでは彼女たちから私に話しかける気力も起こらないだろう。
※:大学教授に話しかけるには、専門領域は何かを尋ねればよい。ただし、その話題に下手に興味を示すと、話が止まらなくなるので注意。
2グループに分かれた円卓で一人黙然としているのも居心地が悪いので、私から左右に話しかける。
切り出しとして、共通の知人である新婦との間柄について尋ねればよい(上のグループ情報がその結果)。
考えてみれば、初対面の(学生以外の)若い人と会話(雑談)するって久しぶり。
もちろん、新郎・新婦、それに双方の親御さんにも祝福の挨拶をしたが、つかぬまの出会いを楽しむのもこうした宴席ならでは。
ついでに、新郎・新婦が用意してくれた、航空会社ファーストクラス採用のワインを数種類飲めたのもいい思い出になった。
もちろん、縁ある二人の人生の門出に参加できたことこそ、一番の意義であることは言うまでもない。