名古屋の住人が余った「青春18きっぷ」を使いきりたいなら、京都に行けばいい(米原乗り換えで片道2時間)。
「小笠原氏史跡探訪」で丁度京都に行きたい所ができたので、片道2時間かけて行ってきた。
●事前の問合せ
ただし行く前には準備があった。
建仁寺の塔頭「禅居庵」に小笠原貞宗(南北朝時代の小笠原流礼法の開祖)の墓があることを知ったのだが、建仁寺のHPをみると禅居庵は非公開になっている。
墓参りならさせてくれないかと先方に電話した(建仁寺に電話したら禅居庵の番号を教えてくれた)。
小笠原貞宗の墓参りはできるかと訪ねたら、OKとの返事。
これで余った18きっぷで京都に行くことにした。
●建仁寺・禅居庵
建仁寺へ向う縄手通りの花屋で墓参の花を買い、禅居庵の摩利支(尊)天堂へ。
民間信仰の場であるここだけは建仁寺とは別の入口になって、自由に参拝できる。
摩利支天堂の奥に墓地入口があったので行ってみる。
墓地といっても1部屋くらいの狭さ、しかもほとんどが歴代住職の卵塔。
でも奥に石鳥居のついたやけに立派な五輪塔がある。
これかなと思っても説明や刻印がなく誰の墓だかわからない(石には梵字が彫られているだけ)。
●貞宗の墓
もう一度摩利支天堂に戻って、お札などを売っている受付けのおじさんに、小笠原貞宗の墓の在りかを訪ねた。
すると貞宗の墓参りに来ることが寺から伝えられていたという(寺の配慮がうれしい)。おじさんが直々案内してくれたのはやはりさっきの五輪塔。
左右に花を献じて、合掌。
膝まづいた姿勢で見上げると、650年を経て摩耗はしているが今でも風格があり(写真)、貞宗という存在の歴史的な重みがにじみ出てくる。
日本最初の禅寺にこうも厚く葬られている貞宗公はやはり相等な人物であったはず(摩利支尊天堂だけでいえば小笠原貞宗が開基・清拙正澄開山)。
「あなたの価値をもう一度世間に知らしめます」と心に誓う。
●隣の墓
貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓がある。
ここの開山の墓だという。
ならば貞宗が厚く崇敬し禅を学んだ清拙正澄の墓ではないか。
二人の墓が仲良くならんでいることは、やはり伝説のとおり二人の生前の深い親交の証しだろう。
貞宗が新たに武家礼法を構想できたのは、禅の作法である清規を日本に伝えた清拙正澄が目の前にいたからだ。
この関係を否定する学者もいるが、私が作法(礼法と清規)の内側から証明してみせる。
堂にもどって本尊の摩利支天(正澄も貞宗もともに信仰していた)を拝み、摩利支天の使いである猪の置物と御影札とお守りを買った。
小笠原流礼法にとって最重要の人の墓参ができて大満足。これだけで2時間かけて京都に来た甲斐があった(昨日の静岡から遠方への墓参続き)。
これで小笠原氏史跡探訪の旅は一段落(完全に終わってはいないが)。
余った時間で、特別拝観中の建仁寺本堂と、霊仙歴史館を観た。
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