今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

微妙な身体感覚の夢

2024年02月05日 | 心理学

今朝の寝覚め直前に見た夢で、微妙な身体感覚を体験した。

それは、(実際の)知人と(夢の中だけの)小さな男の子と3人で、ある目的地に行く夢で、
その途中、垂直の大きな壁を降りる所に達した。
その壁の3-4mほど下の中空には、ビル工事に使われるような一定幅の人工的な足場が設置されている。
先頭に立った知人は、その足場に向かって飛び降り、無事に着地した。
私は、もっと慎重な手段で降りるものと思っていたので、その大胆な行動に驚いた。

次いで、男の子もそこに飛び降り、問題なく着地。
そして先行した二人は、壁から離れた所にいる。
こうなると私もそれに続かざるを得ないので、意を決して眼下の足場に向かって飛び降りた。
その間の落下感覚を感じ、その後の着地の衝撃を足裏に感じ、さらに勢いで上体がややバランスを崩してふらついたが、着地はなんとか成功した。

夢はこの後も続くが、この夢で印象的だったのはこの部分で、落下中の空気感、着地時の衝撃、そして平衡感覚(のズレとその調整)という一連の微妙な身体感覚をはっきりと感じたこと。

尤も、あらゆる感覚認知は脳内の現象なので、実際の身体状態とは無関係に夢の中で身体感覚を得る事は不思議でもなんでもない。

どんな感覚でもその現象が夢の中で主題化すれば、記憶に残るほど実感できるということだ(見た夢についての色彩の記憶がない場合、それが主題化されなかっただけで、別に夢がモノクロだったわけではない。実際にモノクロの夢を見たら、その違和感がはっきり記憶されるはず)

だから、「これは夢ではないか」と疑って、頬をつねってみて痛かったとしても、夢でないと判断するのは早計(夢はそれから醒めて初めて夢だった分かる。明晰夢を例外として)。
認識された外界=実は脳内での構成、ということだから、唯識の理論が説得力をもつわけだ。

もう一つ、印象的だったのは、夢の中で私が”驚いた”こと。
すなわち、夢主の思考の範囲外の現象が夢の中で発生すること。
これをもって、意識(自我)とは別の”無意識”が夢を見させている、と主張したのがフロイトだが、
そのような無意識を認めていない私は、夢は意識現象とみなしている。
ただ、夢の映像展開は自我がコントロールしている通常の思考・想像(システム2)とは異なる。

例えば、瞑想中にシステム3を発動させることによって、自我が主我(意識作用)と自極(主観点)に分離できることを経験すれば、思考は自極にとっては観照対象=客体となる。

夢内容(ストーリー)を構成できるのはシステム2であり、自極にとっては、それは別の機能(現象)なのだ。

動物起源とされるフロイト的無意識は、記憶像の単なる再現のような静止画的な(入眠時に見る)夢なら可能だが(動物が見る夢はこのレベルのはず)、上の夢のような現実でない手のこんだストーリーを構成(創造)する能力はない。
それは人間の思考・想像力、すなわちシステム2によるものといえる。

瞑想でのシステム3(主我と分離した自極)と異なるのは、夢主とは別個に働いているシステム2によるVRを観客として観照(鑑賞)しているのではなく、夢主がそのVR世界に巻き込まれている点だ。
このようなシステム2における自我と意識作用の微妙な分離状態が、夢という不思議な現象である。
※:この分離を理論化したのが精神医学者・安永浩で、そもそもは統合失調症者の症状の説明モデルとして構築された。ならば夢は健常者が経験する一時的・可逆的な統合失調状態といえる。


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