今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

釈尊が実践した非神話的態度

2024年02月04日 | 仏教

宗教の中で神話的部分が比較的少なく、少なくともそれがその宗教の本質的要素でないのが仏教の特徴なので、21世記の現在、従来の神話的宗教を信じられなくなったヨーロッパ人に受け入れられつつあるのもその理由であろう。

ただ、仏教でも大乗仏教(日本に伝わっている仏教)になると、神話性が全開してくるのは残念だ(日本人が親しんでいる仏教は神話満載)。

そもそもの始祖・釈尊に立ち返ると、輪廻転生など当時のインドで常識化されていたものは仕方ないとしても、自覚的に神話的思考に陥らない態度を志向していたことがわかる。

まず、苦を滅する基本である八正道において、とりわけ重要なのが”正見”であるが、
これはすなわち”正しい認識”という態度である(教えとして後世に固定化された正見ではなく、釈尊自身が実践した開かれた態度が重要)
すなわち、何が”正しい”かは前もって固定せず(先入観に縛られず)、清明な理性による正しいかどうかの吟味を怠らず、それが”正しくない”とわかったら躊躇なく捨て去る態度である。
科学的態度と同じだ。

そして仏教の基本理論である縁起論
すなわち人間の苦を、その在り方・態度の因果関係によるものとし、
それが後に「十二支縁起」としてモデル化された。
言い換えると、宿命論(決定論)や運命論(偶然論)を否定し、事象には必ず原因があるとして、その因果法則を探求する態度である(上と同様、後世に固定化された縁起モデルでなく、苦を因果論的に探究する態度に意味がある)
そしてその原因を除去することで解決となる。
この因果律の探究も科学的態度そのもの。

さらに、この世の果てはどうなっているかなど、実証できない問題について、単なる想像だけを根拠に論議する事は無意味であると、沈黙をもって実践している(無記)。
既知と未知とを峻別して、分かったふりして未知を論じない。
これも科学的態度と同じ。

そして、論理は極端化しやすいという人間の思考バイアスを理解しているため、辻褄合せによる思考の暴走を抑えるバランス感覚(中道)を堅持した。
この態度を忘れると、上の因果思考も極端化する(現代人も怪しげな”健康法”でこれに陥っている)。

上の全てはことごとく神話的思考を防ぐ態度であり、ほとんど現代の科学的態度と共通している。
科学的態度の中で実践されていないのは、客観的・実証的データ収集であるが、釈尊が達した境地は彼の他には体現者がいなかったので、自身(主観)以外からのデータ収集は不可能だった。

このように本来は非神話的教えだった仏教が、次第に神話化していったのは、後継者たちが初心を忘れたからだといえるが、
元来人間は物語を作るのも聞くのも大好きなので、神話化によって広く受け入れられたのは確か。

神話的態度と対立する科学的態度とは、与えられた知(理論)を無批判に前提するのではなく、その知に達した人と同じ位置に立って、その知を吟味する事である。
やはり”禅”の態度(良い意味での”独覚”)がこれに近そうだ。

システム4までの話をして、また神話性の話に立ち戻ったのは、宗教の神話的部分すなわち日常のシステム2レベル(家内安全・商売繁盛を祈るだけ)で満足していると、宗教(霊性)本来の境地であるシステム3以降に進めないから。


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