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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

作法・礼法講座5:小笠原流礼法の価値観

2020年10月11日 | 作法

前回、作法を分析的に見る作法学を紹介したので、今回はそれを小笠原流礼法、しかも五百年以上昔の室町時代の礼書に適用してみる。
小笠原流礼法という作法体はいかなる作法観・価値観をもっているのか。
以下、作法学用語で説明するので、前稿(作法・礼法講座4:作法学)を読まれていることを前提とする。

まず条件素について
条件素は作法素(具体的作法)の有効場面を指定・限定するものである。
礼書では、一通りの作法素を述べた後、「〜すべし」の後に「いずれも時宜によるべし」という文言がよく追加される。
時宜、すなわち「時と場合」で作法素が異なることを付加することで、直前に述べた作法素の効力(適用範囲)を自ら最小にしている。
これは1つの作法素を、時宜を越えて固定させない措置である。
要は柔軟に対応しろということだ。

ここには、作法は場面(条件素)によって最適性が異なるという作法観、すなわち「礼は宜しきに従う」=作法は最適性の不断の追究という姿勢がみてとれる。
そして時宜の適否は自分の頭で判断しろ、ということで、作法を実行するには、状況の的確な把握能力が必要であることが示されている。
作法は、丸暗記ではダメで、頭を使わねばならないのだ。

機能素の構造
ではその最適性は、いかなる基準で判断されるのか。
最適性を判断するには判断基準が必要であり、その基準こそが作法に通底する価値観である。
その価値観が作法素に反映された部分が機能素、作法の理由の部分である。

作法とする理由=機能は、一つではない。
たとえば人に対しては「表敬」という機能が、物の扱いには「安全」という機能が優先される。
では、人前で物を扱う時はどちらを優先すればいいのか。

室内で、人が座している前を通るのは(目線の邪魔をするので)失礼であるから、通れるなら後ろを通れと教える。
ところが、膳を運ぶ時はあえて前を通れという。
なぜか。

膳は、”肩通り”か”乳通り”の高さに掲げて運ぶ(最上の表敬位置である”目通り”は危険なので神前の儀式以外では使わない)。
それでもバランスがくずれて膳をひっくり返す可能性がある。
座者にとって背後の高い位置で膳をひっくり返されるより(頭にみそ汁や焼魚が降りかかる)、目の前でひっくり返された方が避けることができて安全である。
なので、膳を運ぶ時は、人への表敬よりも人への安全を優先するのだ。

すなわち複数の機能が競合する時、その優先順をつけ、その優先順が作法素間で一貫している必要がある。
機能の優先順に、作法体の価値観が反映される。
小笠原流礼法は安全の基準を最優先するので、一意的に最適性が決まる。

最適性の判断基準が決まったなら、具体的にいかなる所作が最も安全なのかを考えねばならない(その所作が作法素の行為素に選ばれる)。
物を持つ時、片手より両手で持つ方が安全であるし、この安全を高める(物を落とさない)ことが物への表敬にもなる。
ただし持ち運ぶ際の安全性を高めるには、両手で下から支えるより、片手を下に、他手を横に添える方が、安定性が高まるのでこちらが推奨される。
では、左右の手をどう使い分けるのか。
小笠原流では、左手で支え、右手(利き手)は横に添えるだけと教える。

普段多くの人は、何も考えずに利き手を主たる動作に使いたがる(たとえば鞄を利き手で持ったりしないか)。
それに対し小笠原流では、「利き手を空けておけ」と教える。
たとえば夜の廊下で灯火を持つのは左手で、右手をあけよと教える。
瞬時の反応(つまづいたり、滑ったり,敵と遭遇したり)こそ、利き手(右手)で反射的に体を支えるためで、その方が安全性が高まるからだ。

その理由で、物を支える能力に左右差はないものとし、左で下から支え、右手は横に添えることによって、緊急事態に対応できる”構え”の状態にする。
この安全第一の物の持ち方〔左手で底を持ち、右手を横から添える)が、茶の湯の茶碗※の持ち方に適用される。

※茶の湯初期に使われた台付きの天目茶碗はこの持ち方ではなかった。だから粗相をしやすかったので、今のような茶碗に置き換わった。

お茶しかやらない人は、なぜ茶碗がこの持ち方をするのか、その理由までは教わらないだろう。
茶の湯の作法の元となった小笠原流礼法※は、上述したようなきちんとした論理(機能素)で説明できる(小笠原流礼法を学ぶと、茶の湯の所作の意味がきちんと理解できる)。
※:茶の湯の所作が制定される時、すでに確立されていた小笠原流礼法が参考にされたという。その証拠となるのが、炉点前における柄杓の扱いで、弓を引く所作が入っている(桑田忠親『茶道の歴史』講談社)。

ただしこういう動作合理性だけが機能(作法の理由)ではない。
たとえば陰陽五行思想が作法の根拠になっていることは、特に儀礼において多い(こういう場面は安全が確保されているため)
日本の作法の原典ともいうべき儒教教典『礼記』には、すでに陰陽五行思想が作法の根拠に使われている。
たとえば、天子の服装は、四季で色を使い分けよとある(月令)。
すなわち、五行思想によって、春=青、夏=赤、秋=白、冬=黒と季節ごとの色が指定されている(四季に五行だと1つ余るので、四季の間に無理やり”土用”なるものを創設し、残りの黄を当てはめる。五行思想はかように苦しい牽強付会だらけ)
これに準じて日本で仕官の服の色を規定しようとしたが、小笠原流は、春は広義の青として萌黄色(新緑の色:日本人は緑も青に分類)を選択するものの、夏が赤では暑苦しいので涼しげな水色にし、秋の白も使いにくいので、土用の黄で代替し、冬の黒は、まぁ温かく感じるのでOKとした。
すなわち、礼記が指定する五行基準を公然と批判して、その代わりになんと色彩心理を基準としたのだ(色彩検定2級の私が解説すると、赤は暖色、水色は寒色、そして黒も暖色に入る。緑はどちらでもない)。

小笠原流礼法の女性観
陰陽五行思想は、礼記はもとより、日本の宮廷儀礼にも採用されている伝統的作法基準なのだが、合理的知性を備えた小笠原家の人々は、この怪しげな基準に距離をおきたい雰囲気が礼書のあちこちに見て取れる。
それが如実に表れているのが、女性観の問題だ。

そもそも『礼記』(郊特牲)には、「婦人は人(男)に従う者なり。幼くしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子(息子)に従う※。」すなわち女は一生男に従えという「三従の徳」を説いている。

※:ことわざカルタにある「老いては子に従え」の元ネタ

なんでこんなことを説くかというと、前漢時代の『礼記』が成立する前に、董仲舒という儒学者が出て、本来デジタルの陰陽思想に五行という世俗の迷信思想を無理やりくっつけ、そして原理的には対等で互変的な陰・陽☯を、陽が上で陰は下に序列化し固定した。
この根本的序列化を「陽尊陰卑」といい、陰か陽かに分属される世界の二極対がこれに対応してことごとく序列化される。
その結果、陽に属する男と陰に属する女の関係も”男尊女卑”に固定され、陰(女)の陽(男)に対する生涯の従属が儒教文化圏で当然視されるに至った。

ところが、室町時代の小笠原流礼書『大双紙』は、この三従の徳の箇所を引用した後、こう続けている。
「そもそも日本国は和こくとて、女のおさめ侍るべき国なり。天照太神も女体にてわたらせ給う上、神后皇宮と申し侍りしは、八幡大ぼさつの御母にてましますぞかし(…この後、推古天皇をはじめとする歴代の女帝を列挙…)。二位殿政子と申せしは(…北条政子の業績を列挙…)、五十一ヶ条の「式目」を定められ侍るなり。今にいたるまで武家のかがみとなれるにや。されば男女によるべからず。心うかうかしからず、正直にたよりたしかならん人かんようたるべしと見えたり。」

すなわち日本の女性は、歴史的に三従の徳によらず、男の上に立ってもおかしくないし、結局男女で差をもうける必要はなく、要は人間性だと言っているのである。
室町時代にこのような現代的言説が誕生したことに驚くが、実は訳がある。
この原文(元ネタ)は、一条兼良という公家(関白)によるもので、時の第一権力者で大富豪の日野富子(将軍義政の妻)に語ったものである(『小夜のねざめ』)。
となると「女のおさめ侍るべき国なり」も富子への最大級のリップサービスで、阿(おもね)りに満ちた文脈での言説であることがわかる。
ところが、その言説が、おもねりの文脈を離れて、武家の男子を対象とした小笠原家の礼書に採用されたことこそ意味がある。
すなわち時の小笠原氏はこの言説に共感し、男たちに示したいと思ったわけだ。
かように小笠原流礼法は、礼法のバイブルといえる『礼記』に盲従せず、陽尊陰卑が論拠でしかない男尊女卑思想から自由であったことがわかる※。

※:残念ながら、この思想は広まらず、儒教(朱子学)が官学となった江戸時代になると、董仲舒的男尊女卑思想の方が広まってしまった。その代表例が『女大学』

このような価値観をもった礼法だからこそ、私は勤務先の女子大で、自信を持って学生に小笠原流礼法を教えている。

以上、巷の作法書にはなかなか書かれない作法・礼法の本質的な部分をシリーズで記事にした。
今後私が作法の細かい問題について記事にする場合、ここで示したことを前提としてご理解いただきたい。

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