※この記事は、2024年3月に閉鎖される私のサイト内の記事の転載です。
作法教室に通っている人に向けた内容です。
人が作法を学ぶ目的と効果について、明確にしたかったのです。
作法を学び始めて、どんどん作法を知ってくると、周囲の人の振る舞いが実は作法にかなったものでないことが目についてくる。
すると、今までなんとも思わなかったのそれらの人に対して、失望感さえもつようになる。
これは作法を学ぶ途上で陥る、一過性の"副作用"※である。
※:学んだことで却って不幸になる状態
作法を学ぶのは、自分が天狗になるためではない。
作法を真剣に学ぶ者は、この状態に陥ったら、一刻も早く抜け出さなくてはならない。
作法の最大のタブー
作法の究極の目標ともいうべき、作法が理想とする人間関係のあり方は何か。
逆にいえば、他者に対する作法の最大のタブーは何か。
ただし一定以上の品性を前提とした作法(マナー)の話であって、
道徳(モラル)や法律(ルール)ではないので、”殺人”などの犯罪(ルール違反)レベルの話ではない。
16世紀のイタリアのデッラ・カーサによる作法書『ガラテーオ』
(イタリアの作法の基準となり、今ではイタリア語のgalateoは“礼儀正しさ”という意味になっている)はそれを明確に述べている。
「どんなに相手に敵意をいだいていても、あざ笑うようなことは決してしてはなりません」
すなわち最大のタブーは相手をバカにする(あざ笑う、侮蔑する、嘲る)こと。
デッラ・カーサによれば、”怒り”は、少なくとも怒る当事者にとっては正義の怒りであるから、
正当な主張であり、これは不作法ではない。
それに対し、他者を侮蔑することは、悪意以外のなにものでもないという。
「あざ笑うというのは、自分たちの利益とは無関係に、ただその行為が趣味で隣人に恥をかかせようとするわけです」
あざ笑うのは、相手をいためつけるためにやる悪意に満ちた行為であり、そこには(怒りとはちがって)微塵の正義もない。
デッラ・カーサ以上に後世のヨーロッパの作法に影響を与えた同時代のオランダのエラスムスも、
その作法書でこのタブーを次のような言い回しで表現している。
「礼儀正しさとは(中略)他の人の過失を快く許すことにあるのです。」
すなわち、作法を知っていると自認する者が、他人の不作法をあざ笑うとしたら、
その者は作法の枝葉しか知らず、作法の根本がまったく身についていないことを露呈していることになる。
同時代(戦国時代)の日本では、小笠原昨雲という兵法家(礼法家ではない)が著した黎明期の武士道書『諸家評定』でも、
「同輩を嘲(あざけ)ることに、諂(へつら)い・恥をかかせる・遺恨の三つの罪有り」として、
「嘲りは不忠の第一也」としている。
つまり嘲りは武士道として最大のタブーなのだ。
また、侍は、「人を嘲りて理屈をいはんとする時は、恥を取るべき事なるぞ」と、
他者を嘲って優位に立とうとするよりは、むしろ恥を選ぶべきだとも言っている。
たとえば自分の才気煥発に自惚れると、自分の親をも嘲ってしまうことがあるが、
「みづからの賢才なりと慢じて、父母の愚なる事を嘲る事、虚人のことわざなるべし。いかんとなれば、みづからの賢才は、父母のさづけたるにあり」と戒めている。
これで作法の最大のタブーがわかった。
ではその逆の作法の本質は何か。
作法の本質と効果
これは論理的に導出できる。
侮蔑の反対、”表敬”である。
儒教の根本経典の1つで、世界最初(前2世紀)の体系的作法書『礼記』(らいき)の冒頭は「敬せざるなかれ」
(敬しないことはあってはならない)で始まる(礼記:曲礼上)。
礼とは敬の表現なのである。
「敬」という心(気持ち)を形に表現することが「礼」という記号体系なのである。
礼記によれば、敬は「誠」であり、「仁」※の具現であるという。
※:仁(≒愛)は儒教第一の徳。礼は義に続く第三の徳。
つまり敬は、偽りでない心底の愛に由来する。
「仁者は必ず人を敬す」(荀子:臣道篇)というように、誰に対しても敬する。
つまり礼において人を侮蔑することはありえない。
「賢者なれば則ち畏れてこれを敬し、(中略)不肖者(≒愚者)なれば則ち疎んじてこれを敬す」(同上)というように、
礼の世界はとにかく敬す以外に選択肢がなく(親疎の別をつけるのみ)、
愚者をバカにする人間(ネット世界にも散見する)の方が、その行為によって愚者よりも品性において低級な人間ということになる。
ましてや身近な相手なら、上下関係を問わず敬す。
部下に対しては「君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす」(論語:八佾)と、
忠と礼(=敬)は相互的関係にある(部下の忠を求めながら、部下を敬しない上司はダメ)。
自分の子に対しては「子は親の後なり、敢て敬せざらんや」(礼記:哀公問)と、
親(無条件の敬の対象)への敬の延長として、わが子を敬する。
では自分自身に対してはどうか。
「身を敬するを大と為す。身は親の枝なり。敢て敬せざらんや」(同上)として、もちろん敬す。
これは有名な「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という『孝経』の教えにつながる。
親がわが子のピアスやタトゥーを嫌がるのは、わが子の体が傷つくのと同じ痛みを親自身が受けるからだ。
さらに、人だけでなく、「山林川谷丘陵の能く雲を出し風雨を為し怪物を見(あら)はすを皆、神と曰ふ」(礼記:祭法)と、この世の自然までも(神として)敬する。
これは仏教の「草木国土悉皆成仏」(涅槃経)にも通じる。
つまり、自分を含めた世界の全てが敬の対象となる。
人は例外なく敬するのであるから、当然、互いに敬し合うことになる。
たとえば小笠原流礼法の教室では、開始と終了時に教師と生徒は礼(お辞儀)をするのだが、
その際、互いに同じ”双手礼”という深い礼をする。
そもそも作法では敬意の度合いをお辞儀の深さで表現するのだが※、
教師から生徒への礼と生徒から教師への礼はおなじ深さ=表敬度である。
※:封建時代の礼法では、互いの上下差を礼(お辞儀)の深さの差で表現したが、現代の小笠原流では、人に対する礼は全て”双手礼”で統一し、より浅い礼は部屋に対する礼、より深い礼は神仏に対する礼と分けている。
つまりここでは自分がされるのと同程度に教師も生徒を敬するのであるから、
生徒の人格を否定するような”パワー・ハラスメント”は発生しない。
それに対し、「お客様は神様です」といって客が絶対的上位者だと誤解させる風潮は、敬を片務的な義務(形式)に堕してしまう。
実際、この言葉があらゆる場面での”客”を不作法にし、(他者を敬せない低レベルの者に)堕落させた。
互いを利するのが”商売”であり、店側と客側は自分が受けた利に対して互いに「ありがとう」と言い合うのが本来のあり方だ。
欧米ではこの相互的表敬ができているのに、礼の伝統のあった日本では客がいばりすぎている。
さて、作法を深く学び、研鑽を積み、自分の価値が自分でもわかるほど向上したとする。
そこで内心、優越感を覚えるのは、人間心理として無理もない。
その時が、作法的には危険なのだ。
「よく実った穂ほど、頭(こうべ)を垂れる」というが、この譬えが”慢心(古くは”我慢”)の戒め”では表層的すぎる。
自重によって頭を垂れるのではなく、相手への誠なる敬意によって頭を下げるのが正しい礼なのだ。
敬の伴わないお辞儀は、人前での単なる前屈運動にすぎない。
この世のあらゆる存在者(他者、自己、その他一切)が敬するに値することを認めたら、
つまり自分の存在が敬に満ちたものに囲まれているなら、それはこのうえなくすばらしい世界に住んでいることになるわけで、幸せなことではないか。
そう、作法をやれば幸せになるのだ。
言い換えれば、副作用状態の人はくだらない世界に生きていて不幸の中にある。
このような心の変化(礼の人徳化)こそ、作法をやる目的・効果に値する。
なのに、現実の作法の社会にいると、作法の知識だけ増えて、人徳が却って低下する人(口うるさいだけのイヤな奴)を散見するので※、あえて記した。
※:この副作用は既に『礼記』(経解)で「礼の失は煩(口うるさい)」と指摘されている。
最後に弁解を少々。
作法書は、不作法な様態を活き活き描くために、例示する不作法者に対してユーモアまじりの侮蔑的な表現をせざるをえない時がある。
これは、特定の個人・団体を侮蔑しているのではなく、不作法の具体例としての言葉のアヤとして御容赦願いたい。
実際、作法書の著者なら、そのような記述は、私はもちろんのこと、デッラ・カーサもエラスムスも、孔子様までもが逃れられなかった。
引用文献
●デッラ・カーサ.G (池田廉訳)『ガラテーオ―よいたしなみの本―』 春秋社
●エラスムス.D (中城進訳) 『子供の礼儀作法についての覚書』(「エラスムス教育論」所収) 二瓶社
●小笠原昨雲 (古川哲史監修 魚住孝至編、羽賀久人校注)『諸家評定』 新人物往来社
●他に『礼記』『論語』『荀子』『孝経』『涅槃経』