今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

SHOGUNのエミー賞受賞を慶ぶ

2024年09月17日 | 時事

日本人が歴史的に構築した究極的な人間モデルの1つである「武士(サムライ)」。
明治以降、日本社会自体が、その実現を不可能にしたものの、すなわち社会階級としての武士は歴史的に絶滅したものの、いまだに時空を超えた人間モデルに値することが証明された。

その証明に尽力したのが真田広之である。
「たそがれ清兵衛」、「ラストサムライ」などで武士を演じてきた彼は、かつての三船敏郎を継いで、現代世界で武士を表現してきた。
その努力が実ったことを心から慶びたい。
彼のおかげで武士の心を世界で共有できるから。

ちなみに、小笠原流礼法という武家礼法を嗜んでいる私は、刀を持たず(人を斬らず、切腹をせず)とも、日常の起居進退において武士であることを実現できると思っている。
むしろそれこそが、廃刀令以降の日本人が現実に実現できる武士の在り方だと思っている。
階級や職能、あるいは身なり(ファッション)としての武士は過去の遺物だが、人間モデルとしての武士を、リアルに生きることは可能だ。

ただ、武士は特定他者(主君)との関係性を前提とする相対的存在である点で、究極の存在ではない。
すなわち、私が日常でそれ的に生きても、それが生きる目標であるわけではない。
話が逸れてしまった。
改めて、『SHOGUN』のエミー賞受賞を心から慶ぶ。
おめでとう。そして、ありがとう。


『大菩薩峠』を薦めるか

2024年09月16日 | 作品・作家評

昨日読了した中里介山の『大菩薩峠』の最後の記事。
その名は知っていても(昔は演劇や映画にもなったが今ではそれもないので知る人も少ないかも)、全巻読み通す人は稀だと思うので、その数少ない経験者の一人として、読書選択の一助となればと思い、読書案内で締めくくる(もちろんウィキペディアも参考に)。


まず、皆さんに読むことを薦めるか。
この本は今ではネットの「青空文庫」で無料で読めるので、仮に1巻500円とすると、41巻分20500円浮くし、1巻の厚さ1cmとすると41cmのスペースを使わずに済む。
即ちコスパは青空文庫の中でも群を抜いた最高レベル。
まずコスパ基準で”読まないと損”、と思う人は読むといい。
文体は口語で読みやすく、それでいて語彙の勉強にもなる。


次に、中身の吟味に入ろう。

⚫︎まず情報的価値として、歴史や地誌などの知識になるかというと、登場人物の皆さんが日本各地(北は青森の恐山から、南(西)は京都山科・大原、奈良の十津川まで)を転々とするものの、私にとっては情報として得たのは前の記事で示した愛知・名古屋についてのみ。
むしろ時代考証については、三田村鳶魚の批判(「中里介山の『大菩薩峠』」昭和7年:同じ青空文庫に所収)もある通り、はっきり言ってである。
なのでいわゆる”歴史小説”には属さない。
また各人物にゆかりのある地の中で、表題の大菩薩峠以外に、登場地として今でも名を馳せている(現地がこの小説と因縁付けている)のは、東京青梅の海禅寺(作中では海蔵寺)、同じく青梅の御嶽神社、山梨上野原の保福寺(作中では月見寺)、信州白骨温泉(この小説がこの温泉を一躍有名にした)などがある。
また青梅の裏宿にある七兵衛公園は、裏宿の七兵衛という実在した義民の地だが、小説にその名のまま登場して、大菩薩峠でお松を助け、多摩川沿いで竜之介の太刀をかわす。

⚫︎文学的価値として、感動があるかというと、ないことはない。
ただし最後の41巻まで待つ必要がある。

⚫︎娯楽的価値として、笑えるかというと、介山の解説に冗談・駄洒落はあるが、声を出して笑うほどではない。
またスリル・サスペンス、あるいはミステリーなどの要素もない。
机竜之介はいつの間にか人を切っているし、彼を仇として追う宇津木兵馬は、一向に追い付けない。
藤沢周平が得意とするような躍動的剣劇シーンはない。


人間描写については、時が幕末だけに、変革せざるを得ない人間が表現されている。

一番印象に残ったのは、自立した女性がきっちり描かれていること。
例えば、冒頭から登場するお松は、当初は周囲の言いなりだったが、次第に精神的に自立し、明治女性のように開明的に成長していく。
唯一の身寄りだった祖父が竜之介に惨殺されるシーンから始まるこの小説では、一人残された少女お松のその後の人生こそ本作の最も重要なストーリーともいえる。
あるいは、男たちを使いこなす経営手腕を誇るやり手興行師のお角。
登場人物のうちで誰よりも自我が強く(ただし屈折したメンタリティ)、実家の財をベースに理想郷を建設しようとする覆面のお銀様(作者はこの人だけ「様」付けで呼称)
いずれの女性も、経済的にも精神的にも男に依存しない(むしろ男の上に立つ)自立した女性たち。

一方、最初の数巻での主人公、血に飢えた剣豪・机竜之介は、次第に幽霊のように影が薄くなっていく(記述も幻想世界と混沌化していく)。
洋学を研究した駒井甚三郎は、ひと足さきに近代人となり、自作の蒸気船で日本を脱出するが、西洋人に西洋文明の限界と大乗仏教の空(くう)の哲学を教わり、茫然となる。
※:介山自身は、この大著を大衆小説ではなく「大乗小説」と性格づけている。私がこの大著を読みたくなったもう1つの理由(記事「『大菩薩峠』を読み始める」で言及)が、この大乗仏教的部分。

即ち、江戸から明治への変革期に相応しい、新しい日本人が描かれている。
といっても、みんなあちこち旅をしながら一筋縄では行かない人生を送る。
むしろ、それこそ、予定調和的物語とは異なる、リアリティある人間描写(あるいは大乗小説の主題)なのではないか。
介山にとって彼らは、作者から独立して、それぞれの人生(物語)を送る存在になっていく(だから収拾がつかなくなった)。
それを読む私にとっても、半年間を共にした愛すべき人たちだ。

かくも、『大菩薩峠』はこれほど私を語らしめる作品だった。


『大菩薩峠』全巻読破!

2024年09月15日 | 作品・作家評

世界最長の小説と謳われる中里介山著の『大菩薩峠』全41巻を、本日読了した。

これを読み始めたのは、今年の2月下旬→『大菩薩峠』を読み始める
その間、「18きっぷ」での東名間の片道6時間の鈍行車内を読書空間としたので、春・夏あわせて10往復すなわち60時間をこの読書に充てた。
今までの『ドグラマグラ』、『死霊』、『カラマーゾフの兄弟』などは、この18読書で間に合った。
ところが『大菩薩峠』はそれではとうてい足りず、ちょっとした電車やバスの車内でもこの読書に充てた。
言い換えると、通常の時間は、仕事や研究に関するするものに充てるので、暇な時間専用としたのだ。


さて、世界最長の小説を読破した、ということは果たして自慢になるか。
いや、日本文学に一定の知識ある人たちからは、「なんと、暇なこと」「ほかに読むべきものがあるだろう」とあきられること必定。
※:例えば『旧約聖書』『史記』『源氏物語』などが該当しよう。
確かに、これを読まずして「日本近代文学は語れない」というシロモノではなく、たぶん高校の”文学史”でも素通りされているだろう。
では、10000ページ、500万字を越えるという長さだけが取り柄なのか。


まず話の時代は安政5年(1858)から慶応3年(1867)年までの幕末の10年。
その10年を介山は30年以上かけて記した。
なぜ書く時間の方が長くなったのか。

それは、主役級の人物がどんどん増えていき、それでも当初は、それらの人びとが、不自然にも同じ地域に集まって出会っていたので、場面は1つで良かったのだが(→『大菩薩峠』を読んでみたら)、
その不自然さにきづいたのか、いやむしろ物語の自律性でそれぞれの主人公がそれぞれの人生を歩みはじめて離散していったため、主人公ごとの記述を、時間を重複してそれぞれ語り尽くすことになってしまったためだ。

言い換えれば、冒頭の大菩薩峠上で邂逅する、机竜之介と、彼に祖父を斬り殺されたお松と、お松を助けた七兵衛の3名を中心とした話で進まずに、彼らはその後出会う人たちの主人公群に埋没していく。
悪く言えば、収拾がつかなくなってしまった
その結果、1つの物語としての終結(落とし所)を見失うことになるわけで、
結果的に最長の小説、しかも作者の死によって未完となった訳だ。

なので実際、41巻目の最後の記述も、終息を示していない。
その意味で読後感はすっきりせず、読み終えたという達成感も得られない。
※:ただしこの拡散事態は、ある意味必然で、致命的欠点とはしたくない。その理由は次の記事で。


正直、読破して一番不満に思ったのは、表題の大菩薩峠(1897m)が、初回の竜之介の刃傷場面と、後にそこに地蔵を安置する場面しか登場しなかった事。
表題に惹かれて読んだ者として、これは裏切れた感が強い(介山自身は決して山岳に無関心な人でないのに)。

ならなぜ介山はこの表題をつけたのか。
ウィキペディアによると、介山が実際にこの峠を訪れたのは、執筆開始後12年経ってからという。ということはこの峠に特別な思いがあったわけではないようだ。

挿入追記:小説とは別の介山の『峠』という一文(青空文庫所収)によると、峠の原音は「たむけ」で、越える人が行く道・来た道に手をあわせる場所だという(柳田國男の説)。
すなわち、峠は上りと下りの中間にあり、象徴的には天上と地獄との間の人間の立場、更には上求菩提・下化衆生の菩薩の地位を示すという。
人生は旅であり、旅では峠を越える。
そこは回顧の場であり、希望の場である。
すなわち、峠こそ人生そのものを象徴しているという。
そして菩薩が遊化に来、外道が惑わしに来る場。
介山が前者への期待を込めるとすれば、なるほど『大菩薩峠』という表題が最も相応しい。
この表題は人生そのものを意味し、単なる固有名詞のあの峠を限定したものではなかったのだ。


筋(ストーリー)を追うことに意味がないならば、この小説を読む意味は那辺にあるか。
実はこの読書と一時期並行して読んだ本に、宮崎哲弥氏の『教養としての上級語彙』(新潮社)がある。
その書で紹介されている語彙に、『大菩薩峠』からの引用例があった。
それに触発されて、『大菩薩峠』で使われていて、私が意味を把握していない語彙を抜き出していったら、出てくるわ出てくるわ。
元々、専門の学術用語以外の語彙を増したいと思って宮崎氏の本を読んだのだが、その目的なら『大菩薩峠』こそぴったり(う〜ん、この場で自分の語彙力不足を痛感)

電子書籍なので、表記された単語はその場でネット検索でき、やってみるとネット辞書にもない語彙がずいぶんある。
もちろんその時代(明治〜戦前)を反映しての事情もあろうが、さらにネット検索して使用例を探すと、なんと『大菩薩峠』だけが使用例、という語彙の多いこと。
中には『大菩薩峠』での使用例のみで、意味の説明がないものも複数あった。

介山は作家デビューの前は小学校の国語教師をやっていて(ただし大学は出ていない)、その後新聞記者になったので、面目躍如というところか。
この小説は、発表当時、世間的に注目されたものの、”大衆小説”として文学作品の”格”として一段下に見られていた点で、介山は不満だったようだ
※:同じ青空文庫に『余は大衆作家にあらず』という一文がある。

介山自身の学歴コンプレックスもあって、あえて語彙力を衒(てら)ったのかとも思ったが、むしろ介山の語彙力を総動員した結果というべきだろう。


ちなみに、本書で使われた語彙・成句の中で、私が思わず膝を打ったものを紹介する。
まず「後ろ弁天前不動」。
これは後ろ姿が弁天様のように美しい女性を見て、期待して前にまわると…という場面に使う成句。

次に「一瓢を携えて」。
これは瓢箪に酒を入れて外出し、行き先でそれを味わう楽しみを含意している表現。現代人の行動表現には使えなさそうだが、実は瓢箪好きな私は、酒を入れて携帯できる瓢箪を入手しているので、これをぜひ実行して、ブログでこの表現を使ってみたい。

その他として、愛知県の”愛知”の由来は高尚な「フィロソフィ(知を愛す)」ではなく、年魚市(あいち)だということ。
そして名古屋は都会なので「名府」とも表現できること(これも使ってみたい)。
さらに、「天下の興行は名古屋から出で、名古屋の興行は女流から出でるという歴史が作られる」と介山に言わしめている点も、かの地で女子教育に携わっている身として励みになった。

あるいは「火事の時は、明るい方へ逃げないで、暗い方へ逃げるもの」という教えは夜間の宿泊ホテル火災時に役立つ。

面白いと思ったのはオノマトペ(擬音語・擬態語)で
戸を叩く音はトントンではなく「ホトホト」(安普請の薄い戸だとこっちの音に近いか)。
硬いものが触れる音はカタカタではなく「戞々(かつかつ)」。
ゆっくり歩くのは「ホクホク」。
よろめきながら歩くのは「タドタド」(ドタドタとは正反対の様態で、「辿々しい」から来ているようだ)。

あと自分が今まで勘違いしていた言葉として
飯事(ままごと):幼児とりわけ女児の遊びの「おままごと」は、ママ(母)の真似をすることかと思っていたが、ちゃんとした日本語で、飯(まま)即ち食事の真似事ということだった。「まんま」という表現もここから来ているようだ。
ふり(振り)の客:フリー(無料:買い物をしない)の客という言葉ではなく、これも歴とした日本語で「紹介や予約なしに来た客」という意味。

かように、長くつきあっただけに、出会った語彙も多く、語彙収集という思わぬ余禄にあずかることができた。
語彙を増やしたかった私に、渡りに舟だった。

『大菩薩峠』を薦めるか


健康診断に臨む

2024年09月13日 | 健康

年に一度とても神妙になる日がある。
それは職場の健康診断の日。

日頃の不摂生がこの日の検査で明らかになってしまうから。
なにしろ客観的な数値として出るので弁解の余地がない。

なので、数値がボーダーラインを超えないよう、数日前からこの日をめざして急ごしらえの摂生に取り組む。

まずは食べる量を控え、特に揚げ物を避ける。
そして、腹筋運動などをやったりする。
体重を下げ、さらに腹囲を減らすためだ。
体重が下ることは、まずは脂肪が減ることを意味する。
腹囲に響く内臓脂肪はつきやすいが減りやすいともいう。
腹筋運動は脂肪を減らすためではなく、筋肉をつけることで筋収縮が増して腹が引き締まることを期待して。

さらに今回は内臓脂肪を減らす漢方の「防風通聖散」を服用。

そして、2日前から、アルコール摂取を全面的に控える。
肝臓の数値(γGTP)対策のため。
この時期、夕食に冷たい(第3の)ビールが欠かせないが、この2日だけは、ノンアルビールで代替(結構満足)。
寝酒も禁止で、冷水で我慢する。

さて当日。
体重は努力の成果が実った!
ただなぜが身長まで下ってしまって、これ以上下ると四捨五入して㎝が減る。
降圧剤のおかげで、血圧測定は難なくパス。
一通り終わって、あとは血液検査の結果待ち。

これでまた一年間、好きな物を食べ、酒を味わう日々を過せるのが嬉しい。


2024年の論文一応の書き上げ

2024年09月08日 | 心理学

大学はまだ夏休み中なので、夏と表現するが、今年の夏も図書館に通って論文執筆に勤しみ(ただし今年の夏に限っては、関連文献として心霊コミックを読みふけた)、本日の日曜は国会図書館が休みなので、近所の区立図書館で、原稿を一応書き上げた。
字数は私の標準の15000字。
内容は、霊視認についての一般的態度調査と霊視認事例2つの紹介。

今回特に問題にしたのは、伝統的霊概念が霊の不可視性を前提としている点。
すなわち、科学的態度以前に、プラトン以降の「霊肉二元論」による(世界に流布している)霊概念(霊=非物質)においてすでに霊視認は否定されているということ。
もちろん既存の宗教も、死後の世界(天国、極楽、黄泉、地獄…)をちゃんと用意しているので、幽霊は理論的に存在しない。

なのに、世界中で霊の目撃情報(噂・流言)があいついでいたため、既存の宗教は無理やり後付けで浮遊霊を認めたり(浄土真宗は認めていない)、霊魂論の近代版である心霊科学では、霊の「物質化現象」というこれまた後付けで容認せざるを得なくなっている。

私が頼りにしたかったのは、心理学者による霊視認現象の心理学的説明だが、
例えば ユングは、英国の農家滞在中に幽霊を目撃したのだが、怖がって翌日退去して、貴重な実体験を研究材料にしなかった。
後年、彼の無意識理論に基づく観念的議論で霊に言及しているが、科学としては霊の”観測”こそ大切。
というわけで、既存の霊概念も心理学も霊視認を説明できない。
科学の方は幻視と決めつけているが、既知の病理による幻視は説明できても、健常者の幻視現象は認められていない。

なので、現象データから出発せざるを得ないのだ。


今夏得た快適に過ごすグッズ2024

2024年09月07日 | 生活

2024年の夏を過ごす上で、快適さを増してくれたグッズをまとめてみる(個別には記事で紹介)。


まずは、アームカバー
太陽光の赤外放射は皮膚の表面温度を気温よりも高く上げるが、それを防止してくれるのがこれ。
私は日傘男なので、頭部は赤外放射から守られているが、傘を持つ腕は無防備で、実際日焼けしていた。
アームカバーは紫外線も防いでくれるので日焼けもしない。
出がけに水に浸して装着すると一層快適。
ついでに防虫効果もある。
放熱効果が高いので、室内でもつけていて快適なほど。
逆に冷房が効きすぎた室内・車内で腕の冷えを防いでくれる(長袖代わり)。
これが100円ショップで200円で買えるのは嬉しい。


次に、大型冷風扇
卓上用の小型だと、冷風を顔に浴びる効果しかなく、部屋を冷却できない(顔以外が暑い)。

ところが床上用の大型だと風量が多くて、エアコンと併用で、室内の温度をさらに下げることができる。
エアコン併用が前提なので、同じ室内でエアコンの冷気が届きにくい空間用としての補助として使える。
ネットで10000円ちょい。
冬は加湿器にも使える。


番外編として、秋葉のレアモノショップ・サンコーで買ったファン付きの日傘
電動ファンが傘の内側の上部で回るので風が全部頭にかかる。
日傘は日陰を持ち歩くわけだが、そよ風が付加される。
35℃越えの暑さの中でも、ないよりマシだと痛感。
バッテリも、数日分の外出にもつ。
なのでそれまで使っていたファンなしの普通の日傘は持ち歩かなくなった。
売り尽くしセールで買ったので、もう売っていないようだ。
なので、持っていない人は、日傘に首掛け式のファンを併用するとよい。


これらは、買って以降使い続けて、快適さをアップしてくれた。


みんな確定申告すればいい

2024年09月06日 | 生活

自民党の総裁選に立候補している河野太郎氏が提案した「全ての国民に確定申告を」という意見がバッシングにさらされている。

だが給与生活者ながら毎年確定申告をやっている私からすると、賛成だ。

なぜなら、お金(詐欺ではない真っ当な還付金)を振り込んでもらえる可能性が発生するから(確定申告をしないと還付金は絶対もらえない!)

すなわち確定申告をすれば、源泉徴収で天引きされた税金から、正当に払い戻しがされる可能性がある。
私の場合で言えば、自分と扶養家族(母)が支払った医療費が合わせて年間10万円を超えた分は還付の対象となる。
医療費以外にも寄付金控除とかもある(私は「国境なき医師団」に些少ながら定期送金している)。

あるいは2箇所以上から収入を得ている人(こういう人は確定申告をしなければならない)は、
個人事業主になれば控除とは別に必要経費の申告ができる。

本来、自分が払う税金は自分で管理すべきもの(資産管理の一部と思えばいい)。
それを勤務先に年末調整してもらっている方がおかしい(勤務先にとって余分な仕事)。

今ではネットで簡単に申告できる。
敷居が高いと思わない方がいい。


※:「個人事業主」の登録を税務署にすれば、自宅を事業所と兼用でき(面積配分が必要)、事業所分の経費(家賃、光熱費、交通費など)は必要経費で落とせる。その分、申告内容は複雑にはなるが(税務署内の税務相談で公認会計士からアドバイスを受けるといい)。私も過去、色々副収入があったので名古屋宅(賃貸ワンルーム)の半分を事業所にしていた。


台風10号停滞の理由

2024年09月01日 | お天気
9月1日になって、台風10号が伊勢湾沖で停滞してしまった。
元々の遅速・迷走の理由は、東から張り出している太平洋高気圧の影響とされ、
また偏西風に乗り切れないためと言われていた。
前者は地上天気図で確認できるが、後者の「偏西風に乗り切れない」ことは地上天気図ではわからない。
※:皆さんがテレビ・新聞で見る普通の天気図の正式名称。ここでは地上でない天気図を紹介する。

ならなんでそれがわかるのかというと、気象予報士のアンチョコ、
予報の直接資料である高層天気図(数値予報天気図)によるもの。
※:なので気象予報士試験の「実技」は、これら複数の図を見て予想する出題。
その一部(複数ある高層天気図の1つのその地図の部分)をここに掲載する(下図)。
これは昨日・8月31日の午前9時時点の上空500hPaの高層天気図の地上台風付近の図である。
高層天気図は、等圧面の図で等高線が記されている。
見慣れている地上天気図は、地上(海抜0m:
およそ1000hPa)での等圧線が記されている。
かような違いはあるが、見方(解釈の仕方)は同じで、地上天気図のつもりで見て大丈夫。
図の上部の「5700」と記されてるところが、高度5700mを意味し(この図では一番低高度)、しかも等高線(60mごと)が密集しているので強風地帯を示し、ここは上空なので偏西風帯そのものと見なせる。
そして、紀伊半島にかかっている「L」印が、周囲よりも低高度核、地上でいう低気圧に相当する。
高層にある「L」は地上台風の上部ともいえるが、実は地上と無関係に発生することがある。
※:台風はものすごく強い上昇気流渦なので、大気の鉛直空間内で背が高く、高層天気図中にも反映される。
南に蛇行した偏西風の一部が切り離されて、そこだけ北からの寒気が残ってまった場合で、これを「寒冷渦(かんれいうず)という。
寒冷渦は、地上天気図には反映されないが、いわゆる「上空の寒気が」大気を不安定にして、思わぬ短時間強雨(「ゲリラ豪雨」はマスコミ用語で、気象学者は絶対使わない。私も同様)をもたらす。
すなわち、寒冷渦は、気象関係者だけが知っている(素人は知らない)、地上低気圧・前線以外の悪天候の原因なのだ!
台風10号はどうやら、以前からこの付近にあったこの寒冷渦に捕まったらしい。

するとどうなるかというと、まずは停滞する。
これが現在の状態。
 
そして台風自体は、力が弱まって、風速17m/sという台風の定義を満たさない「熱帯低気圧」に弱体化するので、強風の心配は減るが(暴風圏はその前に消滅)、大気の不安定さは残るので短時間強雨の可能性は残る。
ただし、この「L」の北西隣にW(Mの逆様に見える)すなわち暖気があるので
、寒冷渦としては強くない(この暖気は台風が上空に押し上げたものなので、台風が寒冷渦を弱めたといえる)。
やがて東側のH(背の高い太平洋高気圧)からの南風に押されて、北の偏西風に誘導されると見られている。

台風の間接効果による大雨で注意すること

2024年08月30日 | 防災・安全
前の記事に示したように、南西諸島・西日本に接近する台風の北側に秋雨前線があると、
台風のずっと東側で台風が引き込む南からの水蒸気たっぷりの空気が、その東側にある太平洋高気圧の西の縁で集まって北上し、
その行く手に秋雨前線が立ちはだかっていると、前線の南側(台風からずっと東側の太平洋側:東海〜関東)で大雨が降る。
※:”水蒸気たっぷりの空気”を手っ取り早く確認するなら、気象衛星画像の「水蒸気画像」画面で(動画にするとなおよい)。
これは定型パターンなので、今更不思議がらないでほしい。

昨夜の関東の大雨はそれで、(弱まった)台風本体の雨より強いくらいだ。
今回の大雨をさらに細かく見ると、やや西に傾いた南南西の風が関東に入り込んで西側の丹沢・関東山地にぶつかり、そこで風が収束する(集まる)ため、山地の東麓の上に線状降水帯が発生した。
その結果、山地の東麓にあたる相模平野・八王子・青梅・飯能のライン(線上)で大雨が降り、これらを流域とする河川が増水した。

今後台風本体が東上するにつれ、雨域は変化するが、関東に台風本体の雨がやってくることは必定。
そこで注意してほしいのは、今までの長雨で地盤が揺るんでの土砂災害
先月の愛媛松山での土砂災害も先日の愛知蒲郡の土砂災害も、いずれも警戒区域の外で発生している。
ただし、そこは警戒区域の近くで、周囲は要警戒の場所だった。
ということは、ハザードマップの確認結果で「ウチだけは安心」、というロケーションは危ないということ。
少なくともトバッチリは受ける覚悟が必要(例えば上の地域以外に多摩丘陵にある町田・川崎・横浜あたりも)。

追記:31日は、静岡から三重までの東海地方に南北走行の線状降水帯が発生している。東海道新幹線が終日運休なのもうなづける。

カテゴリーに「仏教」追加

2024年08月29日 | ブログ編集

我がブログのカテゴリーに「仏教」を追加した。

もともと仏教に関心があり、仏像も好きでお寺にはよく訪れていたが、仏教を主題とした記事はほとんどなかった。
ところが、専門の心理学において”スピリチュアル”を解禁し、なおかつ「心の多重過程モデル」の構築を推進していくうち、そのシステム3・4において、教えとしての仏教との接点が増えていき、記事も増えていった(仏教は人の心の高次レベルに対応)。
だが仏教そのものについての記事は、カテゴリーがなかったので「雑感」に入れていた。

自分にとって重要度を増してきた仏教についての記事が「雑感」にくくられるのは不適切と思い、オリジナルのカテゴリーを作った次第。

そうすると、今まで「パワー・スビリチュアル」や「心理学」に入れておいた記事もいくつかを「仏教」に移動となった。
あと「東京周辺」「旅」に入っていたお寺巡り、あるいは仏教美術展の記事も、内容を吟味して、いくつかを「仏教」に移動した。
いわゆる「お寺巡り」の場合でも、神社や他の名所も一緒に巡った場合は移動せず、タグを「#神社仏閣」にしてある。
一番迷ったのは仏教についての「作品・作家評」。
これも仏教に限定したものは「仏教」に移動した。

ということで、私にとっての仏教、すなわち「心の多重過程モデル」から見た仏教(という視点にオリジナリティがあるはず)の記事は「仏教」カテゴリーにまとめられた。

→カテゴリー「仏教」の記事群(降順)