2008年10月1日 琉球舞踊鑑賞
一旦緩んだゴムは決してもとには戻りません。
一旦緩んだ時間の感覚や行動様式は決して元には戻らないのです。
「皇室」というものへの適応を諦めた段階で、誰もが口をつぐみ、誰もがアドバイスをしなくなり、雅子様は何となく周囲から浮いているような気がするものの、決してその行動を改めようとはなさいませんでした。
けれど、小山女官は、愛子様まで同じではいけないと、必死に躾け直しをしようとしました。
朝はきちんと起きて遅刻をしないようにする・・・食事の時間を守らせる。食器を正しく使う、挨拶などです。
しかし、それを片っ端から壊していくのが福迫女官であり、また愛子様の頑固さでもありました。
小学校に入ってから半年の間にもう半分もお休みをしている愛子様。
大抵は「風邪」「お疲れ」と発表されましたが、静養ではお母さまに引っ張られ、行きたくない所にも駆り出され、勉強する時間などありません。
皇太子様がいらっしゃる時は、わりと時間に正確になっている愛子様も、お父様が海外に行かれている時は途端に夜更かしになって、朝、起きられず、夕食は夜の10時。当然、学校へ行く事も出来ません。
「愛子様のようなお子様は、これからきちんと躾けてちゃんとした大人にしないと」という小山女官のセリフを、だんだん雅子様はうざったく感じて来ました。
「別にあなたにそれをしてくれとはいってないわ。あなたは愛子の面倒だけみてたらいいの」
雅子様は勢い余ってテーブルの上にあったペン立てを投げつけました。
「私に説教しないで頂戴。愛子の事は私が考えます」
失意の小山女官を「それみたことか」と笑って見送る福迫出仕。
宮中では「三猿にならないとやっていけないわよ」と誰かに言われた事がありました。
そうは言っても「諫言」は悪い事なのでしょうか?
ご自身が外交官の娘だというのに、雅子様はどうしてこんなにだらしないのか。
普通に学習院を受けたら落ちるような家庭だったと言う事に、小山女官は絶望したのでした。
そして、毎年恒例の運動会がやってきました。
しかし、この年は皇太子の重要な公務「全国障害者スポーツ大会」とぶつかってしまいました。
今年は大分へ行かなくてはなりません。
雅子様は当然の如く「私はいかない」とおっしゃいました。
「でも、八大行啓の一つですし、無視するわけには。愛子様の運動会はあくまでプライベートな事ですから。どうか大分行きを優先して下さい」と東宮大夫に泣き疲れたのですが、雅子様は無視しました。
当然、皇太子様は「雅子がいかないというならそれでいい」と一言。
ああ、またこれで宮内庁が悪く言われる・・・・東宮大夫も侍従も、広報課も宮内庁のどこもかしこも理不尽な記者達の言葉に耐えなくてはいけないのかと思うとぞっとします。
官僚というのはある意味「いじめ」の世界でもありますし、パワハラ、モラハラに耐えつつ、乗り越えて仕事をする必要があるのですが、さすがにこの所は宮内庁の中でも体調不良者が続出し、病気療養に入る職員も少なくありません。
何とかごまかしつつ、人事院からの「異動」を待たないとやっていけないと思うのです。
2008年10月12日 学習院初等科運動会
運動会では愛子様は、リレーの選手に選ばれて見事な俊足を発揮しておられました。
その様子を生き生きとカメラで追う雅子様の表情には「重要公務を休んでしまった」との後悔などみじんもありません。
おかしい。どうみてもおかしい・・・・誰もがそう思ったものの、「病気」を印籠代わりに好き勝手する雅子様に意見する者など誰もいません。
気まぐれな雅子様は、突如「外食したい」なとどおっしゃいます。
高級なレストランは当日に予約など出来ませんが、そこをなんとねじ込んで予約しても、
出発の時間を守る事が出来ない雅子様はいつまでお部屋にこもっています。
皇太子様は、周囲がせかすのを無視して、「愛ちゃん、ママが降りてくるまで遊んでいようね」と車寄せで鬼ごっこなどを始める始末。
5分や10分などでなく、それが1時間になろうとも、皇太子様は決して雅子様の様子を見にいかせたりはしません。
黙って待っているのです。
「おかしい。この夫婦」と侍従達が思っても、夫である皇太子様がそういう態度でである以上、何もいえません。
つまり、このような形で東宮御所の平和は保たれていたのです。
2008年10月20日 皇后誕生日の為参内
2008年10月25日 日本橋三越「皇后さまと子どもたち」写真展を鑑賞
2008年10月28日 NHK放送センター日本賞授賞式にドタ出
妻が突然「行きます」「行きません」そういっても、否定するわけでもなくそのままにする皇太子様。その胸中に流れるのはいわゆる「無気力」です。
ご自分の母君が強いタイプなので、黙って従うのが平和の根幹と思っているのです。
何の野心もなく、希望もなく。
2008年10月30日 チャールズ皇太子夫妻 東宮御所で夕食会
チャールズ皇太子とカミラ夫人がいらした時は、普段は出ない玄関先まで出て来た雅子様。
それはもう得意満面のお顔でした。
「英語が得意」ですから、通訳を介さずひたすら喋りつづける雅子様に、チャールズ皇太子は戸惑いをみせ、「何でこの女はこんなにハイなんだろう」と思っていたでしょう。
雅子様的には世界でもっとも有名人に会える喜びというか、そういう特権を持った自分に酔いしれていたのです。
2008年11月10日 スペイン国王夫妻来日
スペイン国王夫妻がいらした時にはわざわざ飛行場までお出迎え。
カーティシーをしたのですが、がつんと頭が国王陛下にぶつかってしまいました。
しかし、晩さん会は出席せず、これで終わりかと思いきや
「両陛下と国王夫妻がお茶するなら私も出たい」と突然雅子様が言い出したのです。
周囲は慌てました。
雅子様は両陛下主催の晩さん会にも、国王夫妻主催の答礼晩さん会にも出席していません。
しかも12日は、国王夫妻は両陛下とつくばにおでましで、その後の正式な茶会です。
ドレスコードはロングドレスです。
雅子様が入る余地などなかったのです。頭に来た雅子様は
「外務省に電話して、入れて貰って」と言い出しました。
どうせ皇后陛下に直談判しても断られるだろうから、第三のルートを使ったのです。
このようにして、雅子様はお茶会に入り込みました。
しかし、服装は普通のスーツ。
突然、茶会への出席を知らされた両陛下は愕然としてしまいました。
しかも、お客様より後に入って来た雅子妃を見て、またも愕然としてしまいました。
「ご紹介しますわね。皇太子妃です」
皇后陛下は震えがちにそうおっしゃいました。
国王夫妻もちょっと驚いた様子で、「夏に皇太子殿下がいらした時は同行されませんでしたね」とおっしゃいました。
雅子様は「はい。病気療養中なので」とにこやかに答え、椅子に座ります。
下手な英語でそんな風にお答えになったので、「?」となっている国王夫妻にスペイン語の通訳が一生懸命に説明し、天皇陛下はなるべく雅子妃に会話がいかないように気を遣い、皇后さまもまた同様に、静かに静かにセーブしました。
結局、会話のしどころがない雅子様は、出て来たお茶とケーキを食べるしかお仕事がなかったのでした。
後に、皇太子様は天皇陛下から大目玉をくらいましたが、ただただ笑ってやりすごしたのでした。
2008年11月12日 両陛下とスペイン国王夫妻の茶会にドタ出
2008年11月20日 ニューオータニで開かれたPTA60年式典にドタ出
2008年6月18日 皇太子ブラジル訪問見送り
それは皇太子様がブラジルにご出発される日。まさにその時に起こりました。
愛子様は、その日は朝からご機嫌がよろしくありませんでした。
何となくお父様が出かけてしまう事をご存知だったのでしょう。
それでも今までは、大してぐずる事もなかったのですが、その日は癇癪を起こし、大暴れしてしまったのです。
殿下も雅子様も、マスコミが玄関前に来る事はわかっていたので焦りました。
「愛子様のお見送りはなしで」と侍従長は申し上げましたが、その時、愛子様は皇太子様の足に腕を回して絶対に動けないようにしながら泣いていたので、そうもいかず。
仕方なく雅子様が、無理やり愛子様をひっぺがして「いい加減にしなさいよ」と怒鳴りつけたので、愛子様はびくっとなさり、動かなくなったところで、皇太子様は玄関前に出ました。
でも、普通に出る事は出来ず、思わず入り口を見つめながらになってしまい、集まったマスコミ各社は「何が起こったのか」と驚いてかたずをのみました。
雅子様は、何事もなかったかのように愛子様の手を引っ張って見送りに出て来たのですが、なんと愛子様は皇太子様を反対側から回り込んでぐいぐい、入り口に押し戻してしまうではありませんか。
マスコミは愕然としました。
人前でヒステリーを起こして泣きじゃくる内親王。
それに対して怒るでもなく、笑ってなされるがままになっている皇太子。
まるで「3人で遊んでいるだけなの」というように歯を見せて笑う雅子さま。
3人がまた戻ってしまった所で、
「見送りなし?飛行機に遅れるんじゃないの?」と他人の記者がおろおろする所。
楽屋裏はもっと悲惨で、「ちょっと愛子、ちゃんとしなさいよ」と怒る雅子様と「愛ちゃん、すぐに帰って来るから待っててね」となだめる皇太子様。
愛子様はどなりつける母を怖がって、どうしても皇太子様にくっついてしまう。
「愛子様離れて・・・離れて・・・」
福迫出仕と新しい小山女官が何度も抱き上げてはなだめすかし、ようやく泣き止みそうなところで
「殿下、いそぎませんと」と侍従の声が聞こえ、皇太子様は再び、玄関に出ました。
今度は雅子様の腰にくっついた愛子様がしゃくり上げながら出て来ました。
皇太子様は何事もなかったかのように車に乗り込み、雅子様も無理に笑顔を作って
「ほら、アイちゃん、パパにばいばい」と促すのですが、愛子内親王は、どうしてもぐずって言葉も出ませんでした。
取り合えず、マスコミは「お父様と離れるのがよほど悲しかったのだろう」と好意的に取り上げましたけど、実際は「小学生でこの態度?」と呆れられていました。
雅子様も非常に不機嫌で、皇太子様が行ってしまわれた時は、愛子様を放り出してご自分の部屋にこもってしまう程でした。
「もう・・・本当にどうしてこうなるわけ?愛子はまるで猛獣みたい。私はこんな子嫌い。大嫌いよ」
感情をあらわに周囲に八つ当たりする雅子様と、何がきっかけで癇癪を起こし始めたのかわからない愛子様。ある意味二人はよく似ています。
そんな愛子様ですが、食堂でジュースを飲み、プリンを食べ始めると静かになりました。
「福迫さん。子供を食べ物でつるような事はよろしくないのでは」と小山女官が注意をするよ、出仕は女官の方を見ずに言いました。
「愛子様の事は私が一番よく知っていますから」
2008年6月27日 皇太子帰国出迎え
さすがにお出迎えの時は、愛子様は大そう上機嫌でお父様の帰りを待ちわびていらっしゃったのですが。
実はブラジルではちょっとした事が起きていました。
本来であれ、両殿下お揃いで訪問すべきところ、雅子様は「病気療養中」という事で単独訪問になってしまったわけですが、殿下は式典で
「雅子もブラジル政府からの招待を大変うれしく思っており、私達夫妻の訪問を願っていた方々に心からのお礼の気持ちをお伝えしたい」と言付かっております」と挨拶をされたのです。
みなは驚いてしまいました。
皇太子様が妃殿下のお言葉を言付かるなど、前代未聞。
まるで殿下はメッセンジャーで、お偉いのは妃殿下の方じゃないかとの批判が起きたのです。
事はそれだけではすみまえんででした。
昼食会では、両殿下も心酔しておられる学会の長男と一緒に写真におさまり、されが学会の新聞に載ってしまったのです。
これには宮内庁も予想外であったのですが、殿下は何知らぬ顔でした。
日系人が沢山いるブラジルで、誰に会っても「お元気で」しかおっしゃらない殿下のロボットぶりは、次第に高まっていた日系人の魂を静かにさせてしまったのです。
2008年7月1日 菊栄親睦会昼食会
2008年7月2日 国立新美術館「エミリー・ウングワレー作品展」
この頃、どこへ行くにも雅子様は髪をハーフアップにして白い服しか着ませんでした。
それは「白」というのが発色がよくて、顔が綺麗に見えると言われたからであり、おでこを出した方が品がいいと言われたからです。
とはいっても、僅かな鑑賞公務以外は、一切の活動をせず、雅子様はだらだらとした毎日を過ごしていました。
何かに出ようとすれば、かつての屈辱が蘇って来る。
誰かが近づいてくると「喋らなくちゃ」という思いで、身体が緊張してこわばってセリフが出てこない。
そんな恐怖感と向き合うのはまっぴらごめんです。
2008年7月15日 スペイン訪問の皇太子見送り
2008年7月31日 トンガの戴冠式に行く皇太子見送り
2008年7月20日 那須御用邸に
唯一自分らしくいられる場所。それは御用邸での静養時。
子供のようにはしゃぎながらメリーゴーランドに乗ったり馬を見たり・・そういう時は際限なく元気になる雅子さま。
8月26日 りんどう湖ファミリー劇場
8月29日 那須どうぶつ王国
9月3日 那須ステンドグラス美術館
毎年同じ所に同じだけ滞在する・・・という安心感が大事なのです。
「同じ事やっていたら何も言われないでしょ」ってな感じですね。
一般人の結婚式に紛れ込んで邪魔をするのも
「私がいたらハクがつくでしょう」と本気で思っているからです。
優越感にひたりつつも、自分らしく遊ぶというのが、今の雅子様には大事な事なのでした。
2008年5月3日 御料牧場へ
いつもの静養、いつもの場所ではありますが、愛子様は少しも笑顔を見せませんでした。
せっかく皇居からわざわざ馬を運んで馬車にして遊んだというのに。
実は入学早々、愛子様は学校生活に適応できなくて欠席を繰り返していたのです。
勿論、幼稚園もしょっちゅうお休みしていた愛子様なのですが、初等科では、より「やらなければならないこと」のレベルが増えて、それに適応出来なかったのですね。
2008年5月11日 「粟の種まき」手伝いで参内
本来なら愛子様は学習院ではなく、療育を専門とした学校へ行くべきでしたが、雅子様のプライドがそれを許さず、むしろ学習院を「愛子様仕様」にして、何とか秘密を守ろうとしたのです。
2008年5月16日 東京大学総合研究博物館特別展示「鳥のビオソフィアー山階コレクションへのいざない」
「モノトーン素敵」
久しぶりの「公務」もどきでも、雅子様は少しも集中できないし、そもそも鳥に興味もありませんでし。
回りが見ても「失礼な態度」と言われる程気のない表情をなさっていました。
今の雅子様の心の中は、いかにして愛子様を「普通の子」に見せるかということで一杯だったのです。
「私の子供なんだから優秀でないといけない」
「私の子供なんだから回りに尊敬されないといけない」
そういう思い込みは、かつて小和田の父君が雅子様に強く要求し、そのプレッシャーで雅子さまは必死に父君の理想の為にしたくない勉強をして頑張った日々を思い出します。
結果的に同じことを我が子にしている・・・という事に気づかないのが雅子さまでした。
2008年5月19日 学習院初等科遠足で葛西臨海公園へ
2008年5月28日 来日中のウイレム・アレキサンダー皇太子と私的な昼食
2008年6月8日 メキシコ大使館へ
とにもかくにも雅子様は気まぐれで、自分の要求が通らないとすぐに癇癪を起こします。
だから嫌だと言う事には触れないのがいい・・・というのが宮内庁の見解でした。
2008年3月6日 学習院幼稚園遠足
今の雅子さまにとって生きがいは「食べること」と「愛子様のつきそい」でした。
食べる事に関しては、夢に見ていた「食べたいものを食べたいだけ食べられる環境」これが一番の幸せでした。
さすがの雅子さまも独身の頃は財布と相談しながら外食していたものです。
でももはや、3つ星レストランだろうが、高級な中華だろうが食べたい放題。しかも時間g限られているわけではないから、ゆっくりと好きなだけ時間をかけられるという幸せです。
皇太子様は全くご注意なさいませんでしたし、東宮侍従達も両陛下だって今や雅子様に対しては腫れ物に触るような扱いですから、好き勝手出来ました。
食べる・・・というのは一瞬のストレス解消でしかないのですが
「庶民が食べられないものを食べる」というのがステイタスなのです。
フランスのマスコミは、ついに雅子さまについて「食欲妃」というあだ名をつけてしまいました。ちょうどこの頃はスペインへ同行するかもしれず、ヨーロッパのマスコミも関心を持っていたのです。
外国から見た雅子様は「いつも高級レストランに行って長時間食べている」という事で、実に的を得たものだったのですが、雅子様はフランス語は読めませんし、誰もそんな情報は教えませんから、知らないままでした。
また愛子様の事は、大きくなればなるほど、実態が世の中に出てしまう恐れがあるのです。こればかりは死ぬまで秘密にしておかなくてはなりません。
その為には積極的にはりついて、マスコミや回りに何も言わせない事が大事だったのです。
2008年3月14日 東宮大夫が3月11日、12日、14日に雅子妃と愛子内親王が電車で帰った事を報告
3日間の「電車で帰宅」もわざわざ庶民の真似をして喜ぶ、中世の貴族のような行いで、皇宮警察もはらはらしながら警護していたのです。
だけど、電車で帰宅は雅子さまにとっては懐かしい事ですし、Suicaをタッチするのが楽しくてしょうがない。
愛子様自身は全く興味はない様子なのですが、雅子様は大はしゃぎで改札を通っていくのです。
その様子は何とも言えず、違和感がある光景でした。
2008年4月15日 学習院幼稚園卒園式
そしてついに、愛子様が学習院幼稚園を卒園されました。
その日もやっぱり愛子様は無表情で、楽しいも何も感情そのものが見えなかったのですが。代わりに皇太子様と雅子様が笑ってごまかすしかなかったのですが。
卒園と同時に園長の小山久子氏が東宮女官として愛子様付になりました。
どうしても断り切れなかったのです。
元園長を女官に引き入れた事で秘密保持は出来ると思った雅子様はずっと上機嫌でした。
2008年3月21日 青山のイタリアン「セラン」でママ友とランチ
ママ友とランチも機嫌よくおでかけになりました。
その一方で、学習院初等科への締め付けも強化していきます。
・愛子様の教室には鍵をかける。
・ICチップ付の身分証を携帯させる
・愛子内親王の担当教員以外は教室の中を見る事を禁止する
・愛子内親王に10人ものSPをつける
よもやそこまで要求されると思っていなかった学習院側は慌てました。
今まで沢山の皇族を受け入れて来たのですが、一度もこんな要求をした人はいなかったからです。
担任ですら、最初に決まっていた人を飛ばして、違う教官に変えてしまったのです。
さらにすごいのは、初等科に「貴賓室」が出来た事です。
この部屋は雅子様がいつでも訪問出来て、何をして過ごしても文句を言われないという部屋です。
なぜそこまで・・・・とは思っても、誰も「それは間違っている」という人はいません。
雅子様は初等科に自分の部屋が出来た事が嬉しくてしょうがありませんでした。
雅子様にとって「教室」というのは唯一自己表現できる場であるという思いだけはいつまでも頭の中に残っています。
つまり「生徒」「学生」であった頃の達成感や過去の栄光にすがりついているだけなのです。
2008年3月26日 皇居で昼食会
2008年3月29日 奥志賀スキー
毎年の奥志賀スキーもまた行われましたが、ホテルは以下のような張り紙を出したのです。
とにかく愛子様の実態を知られない為に、車を覗くな、部屋を探るなということなのでしょう。
皇太子殿下ご来訪による規制
本日は当ホテルをご利用いただき誠に有難うございます。
大変申し訳ございませんが、皇太子殿下ご家族が下記の日程でご来訪するにあたって規制がしかれます。ご協力をお願い申し上げます。
記
3/29(土)ご来訪 時間 15時から15時30分
規制内容 通過中は部屋のカーテン及び窓を閉める。
見学は当ホテル駐車場または、県警で指定した場所。
車は頭を道路側に向けて駐車。また、出入の規制有り。
4/2(水) ご規制 時間 <黒く塗りつぶし>
規制内容 同上
もはや誰もが雅子様のいいなりでした。
皇太子様はすっかり諦めてしまわれ、好きなようにすればよいというお考えでした。
2008年4月1日 3月31日付で学習院幼稚園園長を退職し東宮女官となった小山久子
ちょうどその頃。月刊「WILL」に西尾幹二による「皇太子様に敢えて御忠言申し上げます」という論文が掲載されました。
これははっきりと皇太子様に対する批判をぶつけた文章でした。
皇室というのは伝統がもっとも大事である。また皇室は国民と同じ船にのる船人であるのに、なぜ雅子様だけを大事にし、人格否定発言までされたのかという内容です。
最終的には「廃太子」という言葉も飛び出す程の衝撃で迎えられ、この後、いわゆる「皇太子様への批判」はつよくなる一方でした。
皇太子様もかなり悩まれ時々「どうしたらいいんだろう」と呟く事がありました。
一般的に気に入らない、生活が合わないなら離婚という手があります。
しかし、皇太子様にはどうしても小和田家の父君の助けが必要でした。
そもそも小和田家のせいでこんな風に批判される側になったのに・・・今は減っていく公務をどうしたらいいか、存在感が薄れていく一方の自分をどうしたらいいか考えあぐねてしまって。
可愛い愛子様の為にどうでも我慢しなくてはいけないのかと。
生まれてから批判された事などありません。常に「皇太子様は品行方正で平等でいい人」の筈。
それが「妻に引っ張られる夫」に成り下がってしまった。
皇室の伝統も重要な祭祀も全て無視する雅子様。
「別れるのだったらそれ相応のものを頂くわ」と笑って言い切るすごみ。
こんな事、国民に知られたら「どうしてあの時、6年間も執着して結婚したんだ」と責められそうで。皇太子様はそれが嫌だったのです。
ただ、平和でそして紀子妃よりもちょっと美人で学歴が上の女性を望んだだけだったのに。
2008年4月10日 学習院初等科入学式
いよいよ、愛子内親王は小学生になりました。
これから先の修羅の道を皇太子様はまだ知らないのでした。
2008年1月1日 天皇一家
いつものように年が明けました。
天皇家の元旦は大変です。
陛下は四方拝という夜中からの神事を執り行い、さらに賢所で歳旦祭に臨まれます。それが終わる頃には夜が明け、澄み渡った空気の中で国の安寧を祈るのです。
それから侍従達から祝賀を受け、「晴の御前」に箸を立てます。
皇室のおせち料理というのは非常に質素で、一般的に何も具が入らない関西風のお雑煮や、花びら餅などがあげられます。
朝から皇族方や政府関係者各国の大使館などから祝賀を受け、終了するのは午後2時半。
その間ずっと立ちっぱなしなので、相当な負担が強いられます。
それは皇太子夫妻や秋篠宮夫妻なども同様で、陛下に習うしきたりです。
でも、雅子様はとりあえずティアラドレスで参内し、一人で帰って来るのが常でした。
「お帰りなさいませ。ご両親様と池田様がお待ちです」と女官に言われたので、とりあえずドレスのままダイニングへ行くと、小和田夫妻と池田礼子夫妻とその子供達が待っていた。
「お帰り。さあ、皇太子妃殿下のお帰りよ」と母君は嬉しそうに言って、ほれぼれとそのドレス姿を眺めました。
「あけましておめでとう。すぐ着替えるから待って」
雅子様はそうおっしゃると、すぐに着替えに自室に入り、眠っていた愛子様は起こされ、着替えをさせられてダイニングのおじい様達に挨拶をされました。
池田家の子供達は、すでにおせち料理に手を付けていましたし、愛子様も挨拶する前に食べ物に目が行っていました。
一見すれば、どこにでもある元旦の光景かもしれません。
しかし、ここは東宮御所です。
皇太子家に限らず、秋篠宮家、他の宮家もそうですが、元旦は新年の祝賀を述べる客が多く、忙しいのです。2日は一般参賀があり、他にも色々行事が詰め込まれているので、お妃の実家が宮家を訪問するのは、7日を過ぎてからと決まっていました。
しかし、小和田家と池田家は元旦の朝から東宮御所にいたのです。
これは何も今に始まった事ではありません。
雅子様が体調を崩された時からずっと続いて来たことです。
大膳課が用意したおせち料理は来客用ですが、それを小和田家と池田家がほぼ食い尽くしてしまうので、毎年の正月、大膳課はめちゃくちゃ忙しいのでした。
やがて皇太子殿下も帰宅されたので、みなで乾杯し、楽しい正月が始まりました。
「愛子ちゃんも小学生ね。おばあちゃまがランドセルを買ってあげましょう」
「ありがたいお話ですが、それは」と断ろうとした皇太子の袖を引っ張り、雅子様は「言わせておきなさいよ。どうせ買わないから」と言いました。
小和田夫妻は投資などで財をなしているわりには、身内にはお金を使わない一家でした。むしろ、どちらかというと、何もかも東宮頼みではあります。
静養に同行すれば宿泊費や交通費や食費も出して貰えるし、一家で高級レストランに行けばそれも全部東宮持ちです。いわば、国民の税金を使って小和田家や池田家は食事をしたり旅行をしているといっても過言ではないのです。
それでも、小和田の父君は公務員のせいか、「税金から」という意識はありません。
娘が親に尽くして何が悪いという感じです。
そのおこぼれに預かる妹一家も、陰で色々妃殿下を助けているのだからと自負していますし、「准皇族」という意識もあります。
今頃、両陛下は皇居でずっと立ちっぱなしで祝賀を受けている頃、夕方には愛子内親王を連れて参内しなくてはなりませんが、それまでの間はずっと小和田家の娘でいられるのでした。
去年から雅子様の高級レストラン通いは宮内庁の中でもマスコミの中でも問題になりつつありました。
予測できない行動が多い雅子様のせいで、レストラン側は予期せぬ残業を強いられたり、客をを断らなくてはならない。何よりも、その資金が全て税金という事が問題でした。
しかし、「好きな事する」のが治療なのだと信じて疑わない雅子様は好き勝手な行動を改めようとしませんでしたし、皇太子様も何も言いませんでした。
とにかく機嫌よく過ごしてくれればそれでいいのだと。
2008年1月15日 皇居で食事会
2008年1月25日 長野県行啓
長野国体開会式
そうは言っても、何とか公務をしてほしい東宮職としては、ほぼ無理やり、長野県での「冬季国体開会式」への出席を取り付けました。
雅子様はスキーなどで何度も長野県を訪れていますので、その点に関しては問題がなかったのですが。
1月25日、長野に到着した皇太子夫妻は早速小布施市を視察。
長野県の人達は、雅子様のあまりにもラフな格好に少し驚きましたが「これもご病気だから」と受け入れました。
翌日は開会式に出席したものの、雅子様は行進にすぐ飽きてしまい、隣の皇太子様とひそひそおしゃべりばかりしており、それがまたテレビを通して全国に報道されるといった有様。
「仲がよろしい」と好意的に報道されるものの、頑張ろうとしている選手達が気の毒ではありました。
さらに、予定されていたスケート競技を雅子様はドタキャンしました。
寒いし、眠いし、お腹がすいたし、これ以上は我慢が出来なくなったのです。
「行かないったら行かない」とホテルの部屋に鍵をかけ、皇太子様まで追い出してこもる雅子様を侍医ですら説得できず。結局のところはドタキャンを認めてしまいました。
2008年2月13日 羽毛田長官が苦言
宮内庁に激震が走ったのは2月13日のことでした。
この日は羽毛田宮内庁長官の定例記者会見があり、マスコミからの「雅子様の病状
」やドタキャン、レストラン通い等について両陛下はどう思われているのかと矢継ぎ早の質問が飛んだのですが、長官はそれに答えず次のようには発言しました。
「天皇陛下の一昨年のお誕生日の記者会見で、愛子さまと会う機会が少ないことは残念だというご発言があり、皇太子殿下はそれを受けて、昨年の会見でこれからも両陛下にお会いする機会をつくっていきたいと思うとお述べになった。
しかし、昨年一年を見る限りは、ご参内の回数は増えていない。両陛下も心配しておられると思う。殿下ご自身が記者会見でご発言になったことなので、大切になさっていただければと思う。
天皇陛下が皇太子であられた時代には、当時の両陛下がご在京で両殿下もご在京の場合、できる限りご一家で毎週一回、ご参内になるのを定例になさっておられた。
(現在は)陛下がお招きになられる場合や、行事に伴ってご参内される場合を別にすると、殿下のご発意によりご一家でご参内になられるのは年に二、三回という程度にとどまっている。
――長官の意見か。
私自身の気持ちとして申し上げているが、回数もさることながら、やはり会見でそういうふうにおっしゃっていただいているので。私だって「私がこういうふうにする」と言えば、できるだけそうなるようにする。そのことをちょっと申し上げた。まもなくご誕生日の会見も来るので。
――両陛下の気持ちは。
(参内が増えず)どうしたんだろうということでのご心配はなさっておられる。これは間違いないだろうと思います。」
これはすぐに全国に報道され、マスコミが食いつきました。
要は、「愛子に会えない」発言し天皇陛下はなさったあとも、全然皇太子殿下は愛子様を連れて参内しないではないかという苦言です。
ご自分がした約束は果たして欲しい・・・これは非常に重くきつい言葉でした。
これに怒ったのは雅子様でした。
「羽毛田の奴、何様なのよ。参内が増えていない?何度も連れて行ったじゃない」
皇太子様も今回ばかりは雅子さまと同じ考えでした。
「羽毛田は陛下を利用して自分のいいたい事を言ってるだけだ」
「じゃあ、しかえしすればいいじゃない。何よ。愛子に会えないなんてわざとらしく。正月と誕生日に会えれば十分じゃないの。毎週とか毎月とか、そんなの一般ではありえないわ。もういや。舅って何でこうもうるさいの」
「うっとうしいな。本当に。出来るだけ愛子を連れて行ってるのに」
「そうやって自分の言う事をきかせようって魂胆じゃないの?」
「そうかな」
「そうに決まってるわよ。そうはいかないんだから」
雅子様は怒りのあまり、そこらじゅうのガラス製品を粉々にしてしまいました。
一部が飛んで皇太子様の手を傷つけてしまいましたが、そんなの平気です。
「愛子は私の子よ。あんな年寄に取られてたまるもんですか!」
そんな大騒ぎの時、侍従が入って来て、この惨状を目にし、「こ・・皇太子殿下、お怪我を。すぐに治療を」と叫びました。
「うん」皇太子様は、雅子様のように怒ってもすぐに収まり、気弱な部分を見せました。
「侍医を呼んで。それと大野先生も」と侍従がいい、女官が走っていきました。
「殿下。治療が終わりましたら陛下にご連絡を。そのような要請がありました」
「え?陛下から」
「はい。何でも参内せよと」
もうすぐ殿下のお誕生日ですし、その日は参内するのに。なぜ今頃・・・
2008年2月15日 皇太子殿下参内
結局翌々日には、皇太子様が一人で参内し、両陛下に会われました。
陛下としては、内親王の行く末が心配でならなかったのです。
このまま学習院に進ませていいのだろうか、本当にこのままでいいのか?
何事も国民に隠さない精神でいらっしゃる陛下は、ご自分の健康状態も隠さずに表してこられました。
しかし、東宮家のやる事は、事実を否定して虚を進めるといったもの。いわば嘘つきです。
皇后陛下はそれがいいのなら・・・と思っていらっしゃるようですが、陛下はこと、悠仁親王が生まれた事だし、愛子内親王の事実を公表し、適切な療育を受ける必要があるのではないかと思われたのです。
しかし、皇太子殿下は終始不機嫌な表情で、「プライベートな事ですし、雅子が悲しみますので、あまりおっしゃらないでください」と。
「しかし、このままでは」
「愛子は優秀なんです。普通の子より優秀です。それは変わらないんです。それの何がいけないのですか?」と逆にくってかかる始末。
「本当にそんな事を思っているのか」
「思っています。愛子の教育は雅子に任せています。今のところ、それに間違いはありません。私達は幸せにやっていますので、これ以上の干渉はおやめに」
陛下は体中の力が抜けていくような気がしました。
何という事を・・・すっかり取り込まれてしまったのではないか。
もう天皇と皇太子の間の溝は広くなりすぎてしまったようでした。
2008年2月23日 皇太子誕生日
誕生日を前にして記者会見に臨まれた皇太子殿下は、件の問題について、次のように発言されました。
「両陛下の愛子に対するお心配りは,本当に常に有り難く感謝を申し上げております。
御所に参内する頻度についてもできる限り心掛けてまいりたいと思っております。
家族のプライベートな事柄ですので,これ以上立ち入ってお話しをするのは差し控えたいと思います。
「今もお話しましたように,これは本当に家族の内の事柄ですので,こういった場所での発言は差し控えたいというふうに私は思っております。」
まさに取り付く島がないといった風情でした。
理解不能で常識はずれな事がまかり通ってしまう裏側には、情報を受けた側の「思い込み」もかなりあるんじゃないかと思います。
きちんと情報を精査し、理解せず思い込みで記者会見などで質問する記者。
ゆえに「若い子を育てる=ジャニー喜多川を想起させる」なんてとんでもない事を言い出すんですよね。望月何とか見たいに執拗に「東山さん自身のセクハラは!」というのは、もう「東山は性加害者」と断定しての意見です。
そして今のマスコミの流れとして、少しでもジャニーズ側を庇うと「おかしなこと言って。ふぶきさんのような勘違いしている人は許せない」とか言い出すのです。
まず、一息ついて冷静に考えましょう。
先日、藤島ジュリー景子の手紙にもありましたけど、「メリーは従順な人には優しいけど、違う意見を言うと怒り出して潰してやる」という人で、ジュリー氏は過呼吸になりパニック障害になったと・・・・ああ、やっぱりなと思いました。
私、本当にそっくりな人を知っていて1年一緒に仕事したけど、彼女は猫なで声と怒りの爆発が瞬間的にやってくるので、回りはみんな怯えて思考停止になるんです。
反発したら退職に追い込まれました。つまり「ジャニーズの闇」の本当の加害者は、メリー喜多川だったのではないかとすら思います。
マスコミはそんな爆発するメリーに怯えて忖度するしかなかった。
理屈をこねまわして物を投げつける・・・非常識なのになぜ許されるのか、外側の人には理解できないでしょうけど、中にいた人はわかる。
なだめる為にはいう事を聞くしかないのだと。
それを一番よく知っているのは実は黒柳徹子ではないでしょうか?
自称「マッチの母」ですし、ジャニーズとはそれこそ長い付き合い。
彼女が知っていながら黙っていた事は責められないんでしょう?だって大物だから。
それに比べたら東山も井ノ原も赤子の手をひねるのと同じです。
毎日、あっちこっちのテレビ局を走り回ってる。相当なお金が手に入ったでしょう。
自分の子供を思うなら、過去は全て振り捨てて思い出すべきじゃなかったね。
諸悪の根源がいないのだし、後輩の活躍を阻害するような結果に至って悲しいとは思わないのかと。全て横並びの企業スポンサー達の態度に「ざまあみろ」とでも思ってるのかな。
で、当事者の会。この悪人顔の片割れさんが「誹謗中傷された」と訴えを起こしましたね。果たして本当に誹謗中傷だったのでしょうか。
お金が絡んでいるから出てきているのだろうと思うし、どれだけ搾り取れるか。
その基準がないのが問題ではないですか。
一言でいう「性加害」というけど、ジャニー氏の「小児性愛」は病気の類にあたり、本来ならパイプカットして行動制限させなきゃいけない類のものですが、昭和の頃に、そんな価値観すらなかったわけで。
なのに、その価値観がなかった事を責められてもどうしようもないのではないか!
たった一人の姪であり娘であるジュリー氏すらも傷つけて終わったのだから、これ以上は何もしない欲しいと思う。
さて、もう一つ理解不能なことが。
いわゆる宙組の娘役が自殺した事件です。
今回、彼女が出演する筈だったのは、「パガド」でこれは芹香斗亜のお披露目大劇場公演でした。彼女は初日から休演し、初日の次の日に自殺したと。
そえによって、宙組は8日まで休演。もしかするとずっと休みかもしれない。
この余波は花組にも波及して
東京の花組が3日に休演。
ネットでしか見てないけど、日曜日に星風まどかが泣きながら芝居をしていたらしい。
宙組は彼女の古巣であり、自殺した娘役を可愛がっていたとも。
また花組には同期もいるし、あらゆる事で心身の状態がよくない・・という事らしいです。
ネットでは、すでに月組移動が決まっている天彩峰里への批判が止まらず、文春の記事を鵜呑みにしている人が多いことがよくわかります。
でもいじめとされた事は「ヘアアイロン」の一つだけ。額に傷が残ってるの残ってないのと写真で色々言われていますが、なぜ今、自殺だったのかは誰もわかりません。
なのに、その一点だけをとらえて「虐めた」と決めつけているんですよね。
でも、そういう事ってどうしようもないので、跳ね返すしかないんですよ。
可哀想だけど死んではいけなかったのです。
だけどね。そういう事があって心が揺れ動いたから休演するっていうのもどうかと思うんです。
神田沙也加が亡くなった後も、すぐに朝夏まなとが代役がたって続演しましたよね。
猿之助が自殺未遂しても、すぐに代役が立てられた。
商業演劇というのは、そうであらねばならないんです。
なぜかって、プロだし、お客様からお金を貰っているのだから。
返金するからいい・・・という問題ではないんですよ。何度でも同じ公演を見る事が出来る人なんて一握りなんだもの。
そして、理解不能なのは皇室でも。
天皇皇后は、すでに「侍従の代拝」で終わっている筈のインドネシア訪問に対する武蔵野陵への参拝を行いました。
女性週刊誌に「お礼参り」と書かれていて笑ってしまったんですけど。
暇だったのか、やばいと思ったのか、それはわかりませんが、いきなり陵を参拝したわぇですね。
そして先日。
これまた急に一家で日本赤十字社を訪れて、関東大震災から100年の展示を見て、何と供花したんです。
天皇って皇太子時代から赤十字とは深い仲ではなかった?今頃?
時間は午後5時半。
この日は休館日だったにも関わらず、赤じゅうたんひいてお出迎えさせ、夕暮れ時におでましですよ。
皇后と愛子内親王はまるでお揃いの喪服を着ているようです。
実際は皇后のインナーは紺なんでしすけど、遠目には喪服にしか見えない。
パールのネックレスにパールのイヤリングですから。
しかも、絶対にマスクを外さないという・・・・
関東大震災が起こった日は9月1日。もう10月2日なんですけど急に興味を持ったんですかね。
いきなり3人で供花ですから。もはや理解不能、違和感しか感じない。
ドタ出?なぜ休館日、なぜ夜?なぜ喪服?ですよね。
しかも愛子内親王にとってはこれが初供花。
もうすぐ22歳。今まで何をして来たんだか。早く一人で伊勢へ行きなさいって。
季節外れに季節外れの事をするのが天皇一家流なんでしょうかね。
突然の報に驚いてしまったというか、「は?」っていうか、何が何だかわからない状態ですけど。
先に大劇場公演宙組の「パガド」が初日から休演ということで、「コロナかな」と思いました。
ところが、翌日の1日に新聞報道が出たわけですね。
「兵庫県宝塚市のマンション敷地内で9月30日、宝塚歌劇団(宝塚市)に所属する俳優の女性(25)が死亡していたことが1日、捜査関係者などへの取材で分かった。兵庫県警によると、現場に争った形跡がないことなどから、自殺の可能性があるとみて調べている。
また宝塚歌劇団の木場健之理事長は1日、宝塚バウホール(宝塚市)で開催された「宝塚舞踊会」の開幕前、観客に向けて「劇団員の死に関する報道があった。謹んで哀悼の意を申し上げる」とあいさつしたという。
県警によると、女性は宝塚市湯本町のマンション敷地内の花壇に倒れており、近隣住民が9月30日午前7時ごろに110番。マンション最上階の18階に女性のかばんが見つかった。
宝塚歌劇団は「複数の出演者の体調不良が判明し、公演実施が困難」として、1日の宝塚大劇場での宙組公演「PAGAD(パガド)」「Sky Fantasy!」を中止していた。2日は休演日で、3日以降については改めて発表するとしている」
宙組の休演は訃報を受けた後
理事長の哀悼の意は新聞報道を受けたあと。
そしてHPには、新聞報道がなされてから。
昨日、宝塚歌劇団員の死亡に関する報道がございました。
謹んで心より哀悼の意を表します。
また、ファンの皆様ならびに関係者の皆様にご心配をおかけしておりますこと、深くお詫び申し上げます。
ご親族の心情に配慮し、詳細につきましては公表を差し控えさせていただきます。
今後は生徒の心身の状況を十分に配慮しながら、対応を検討してまいりますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
これだけですよ。
仮にも現役の歌劇団の生徒が亡くなったのに名前すら明かさないというのは、観客に背を向けているのと同じではないか。
「生徒」とはいえ、プロです。ちゃんと組のプロフィールにも載っているし、活動していたわけでしょ。なのに、名前も出さず「遺族の意向」があるから差し控えますでは、全然答えになっていません。
96期のいじめ問題にも目をつぶった劇団。
そして文春にスクープされた時も知らん顔だった劇団。
宙組のいじめがあったかどうかって事はあまり問題ではないのです。
要は組をまとめられない組長やプロデューサーに責任があるのでは?
外からしか見ていないのに・・・と言われるけど芝居を見ていればわかります。
ここ数年の宙組が非常に士気が低下していて、技術的に問題があるということ。
長すぎるトップから3番手のせいだと思ったりもしましたけど、何かが裏で起こっている事は想像がつきますよね。
寿つかさ組長の退団も突拍子もない出来事でしたし、今回の天彩峰里の組替えも裏にあると思っていましたので。
いじめを認めているわけではないですよ。
ただ、私も先日、職員からこんな事を言われました。
「公務員というのは、モラハラ、セクハラ、パワハラを乗り越えて強い奴だけが生き残る世界だ」って。
時代遅れとその時は思ったけど、今もやっぱりそういう事で心を病んで仕事が出来ない人が多々いることは確かです。私のような非正規の中でもそういう事はあるらしい。
医療関係でも、私が勤めて来た病院でもあの天野先生が虐めで干される、退職に至ってしまった事を考えると、負けたらダメなのか、負けるが勝ちなのかと考えてしまいます。
歴代のジェンヌ達もいわゆる「いじめ」は経験しています。
私もそういう話は沢山聞いていました。
無視して笑うか、言い返すか、技術を磨いてやり返すか・・・芸能界全てがそういう世界でしょうよ。
死ぬ前に退団という道もあったのではないかと思います。
自分が悩んで・・・というよりは、もっと違う理由があったのではないか。
回りが騒ぎ過ぎたせいなのではないかと。
花の25歳。お姉さんもジェンヌ。どんなに悲しいか。
それを思うと本当に残念です。
そして、すでに誹謗中傷の的になっている天彩峰里が気の毒でしょうがない。
文春記事に信ぴょう性がないということは、礼真琴の件で明らかになった筈。
何も語らずそっとしておくことが本当にジェンヌを守る事ですか?
それこそ東宝・阪急の圧力を文春にかけてやればいいのに。
これでは第二第三の犠牲者が増えるばかりだと思います。
「どうしてあれをしてはダメとかこれをしてはダメとかいわれるんでしょうか。私には何の権利もないの?」
真夜中、雅子様は受話器を握りしめています。
東宮家の電話は無料ですから、どこへなりともかけ放題。
とは言っても誰にでもかけているわけではなく、電話の先にいるのは大野先生でした。
「人権意識がないっていうか、宮内庁って古くて馬鹿なんじゃないかと思います。うちの夫も、陛下のいいなりで信じられない」
今日はまたも一段と声のトーンが上がっているように思います。
これは相当なストレスなんだなと先生は思いました。
でも、夏もずっと那須で遊んだし、秋にも御料牧場へ行ったし、これ以上何が不満なのか先生としてはよくわかりません。
「自分が悪いのではないか」と落ち込む患者に向き合う事はあっても「自分の意志が通らない」と怒る患者への接し方は今一つわからないのです。
「怒りを鎮め、お経でも唱えれば」と言いたいところですが、雅子様としては大真面目なのです。
「では、妃殿下は何をなさりたいので」
「そうね・・自由が欲しい」
「自由・・それは皇室にいては無理では」
「皇室にいながら自由でいたいのよ。他の事なんか考えたくないの。おいしいものを食べたり、好きな所に行ったり」
「労働は」
「それって・・公務はやってるじゃないの」
日帰りだろうと、地方へは行った。愛想がないとか、ドタキャンしたとか言われるけど、仕方なくやってやってるのだから、それくらい我慢しろと言いたい雅子様。
「一度、本当にお好きな事をされてみては」
医師としてはそういうしかありません。
「好きな事をなさるご自分を肯定するのです」
この「自己肯定」という言葉は雅子様にとってまさに渡りに船という言葉でした。
去年から、ほぼ一ヶ月に一度、高級フレンチで外食しているけど、その頻度をもっと上げようかな。今年のクリスマスはどうしよう。
そんな事を考えていると何やら楽しくなります。
大野先生はこれで電話を切る事が出来るかなと期待しています。
どうして雅子妃と言う人はこうも「長い」のか、時間を守る観念がないのは、雅子様特有の「癖」「障害」として見るしかないのだろうと医師は思います。
それを責めると、またも「なぜ時間を守らないといけないのか」という話になり、「周りに迷惑をかけない為です」などと言えば「自分が最上なのになぜ下の者に気を遣わないといけないのか」と悩み始める・・・とんでもない方なのです。
思えば、小和田の父君もご自分の「非」を認めた事はありません。
常に恫喝し、𠮟りつけ、あるいは物を投げてわからせる方針。
上にいる者の特権がそうなのです。
雅子様にはもう一つ、考えないといけない事がありました。
それは愛子様の事です。
大きくなるにつれて、無表情ぶりが目立つようになってきた娘に、とりあえず高い服を着せて、真っ当に見えるようにピッピとまりを横につけて写真を撮る。
そしてさらに「ご優秀に」見せる為に「愛子様は最近ではピアノの演奏にも興味を示し、皇太子様のヴィオラも弾いたりする」
つまり愛子様は音楽的才能がとてもあるのだ・・・という風に見せるわけです。
でも、それを続けるには味方が必要。
そこで、雅子様が目をつけたのは学習院幼稚園の園長である小山氏。
宮内庁の人間を差し向けて「愛子内親王が小学校に入ると同時に女官として東宮職に入って欲しい」と説得したのです。
「そんな、恐れ多い」と断る小山氏に対し、「妃殿下のお望みを叶えないつもりですか」と半ば脅しまでかけたのです。
そうして美味しいポストにつけて、実際の愛子内親王の秘密保持に務める。
これも重要な事でした。
2007年 12月1日 愛子内親王6歳
秋篠宮家に悠仁親王が生まれ、女性天皇の芽がダメになりそうな今、せめて「ご優秀な愛子様こそ天皇に」という流れを作らないといけません。
こんなに小さいのに音楽的才能にあふれ、作曲も出来るし詩も書く。漢字は読めるし計算も得意。
盛りに持った「ご優秀伝説」は嘘ではあるけど、そんな事をいう人は一人もいません。それこそが東宮の「力」なのでした。
2007年12月9日 雅子妃44歳
雅子様のお誕生日には恒例の「医師団見解」が出されました。
「妃殿下におかれましては、この一年も、依然としてご体調には波がございましたが、前向きに頑張られるお気持ちを強くお持ちになられて、真摯に努力を重ねてこられました。
そして、愛子内親王殿下の育児を中心に日常のご活動を続けられ、公私を問わず、ご活動にも広がりが出てこられております。
ご公務に関しましては、東宮御所や都内でのご活動に加えて、長野県と徳島県の地方行啓にもお出かけになりました。
このようなご活動の積み重ねは、ご快復のために必要な自信につながるものであり、治療的に大きな意味があったと考えております。こうしたご活動の後には依然としてお疲れが残られますが、以前にくらべるとご回復が早くなっていらっしゃいます。
適応障害は、世界的に広く受け入れられているアメリカ精神医学会の基準でも、長く持続することがあるとされているものであり、妃殿下におかれましても、なお治療が必要な状態が続いております。
しかし、ご自身のご努力はもちろんのこと、皇太子殿下のお力添えもあり、少しずつ着実に快方に向かっていらっしゃいます。」
毎年同じ文章しか思い浮かばず、しかしながらご自分の「肯定感」を強く打ち出す事は忘れませんでした。
いつもの年とは違うクリスマス。
それは「お買い物」でした。
雅子様は12月19日。南青山のお店を女官と一緒に訪れて、まるで子供のように商品を選んでばんばん買いあさったのです。
皇室では表だってクリスマスは祝わないものですが、そんな事、雅子様には関係ありません。小さい頃欲しかったもの、小さい頃から憧れていたツリーのオーナメントやらワインやら、それはもう楽しくて仕方なかったのです。
「去年より大きなツリーも買うわ。部屋一杯をクリスマス一色にする」
そして妹の礼子さん一家も招いて盛大なパーティをしたら楽しいだろう。
高級なプレゼントに妹も甥達も目を丸くすることだろう。
そう考えるだけで楽しくなるのです。
2007年12月19日 南青山でクリスマスのお買い物
そう言えば、冬休み前にママ友が言ってたっけ
「今年の恵比寿ガーデンプレイスはバカラのシャンデリアがすごいらしいわよ」と。
それなら絶対に見に行かなくちゃ。
そこで、突如東宮職に「恵比寿へ行く」と言い放った雅子様。
「恵比寿?何しにいくの?」と皇太子様はおっしゃいましたが、雅子様は
「クリスマスなんだからイルミネーションを見に行くに決まってるじゃない」とお答えになりました。
「でも、そんな所は沢山の人が集まるんだろう」
「だから何?関係ないわよ。皇宮警察がいるでしょ」と。
東宮職は仕方なく、マスコミを呼び、「一般客にわからないように取材を」と要請しました。
本来は、恵比寿ガーデンプレイスでイルミネーションを見たら、その足ですぐにウエスティンホテルのレストランで夕食をとるという日程だったのです。
しかし、マスコミが隠れて取材しているのを知ってか知らずか、東宮一家は堂々とバカラのシャンデリアの前で記念撮影を始めたのです。そして皇太子様や雅子様はそれぞれのカメラを出してパシパシ撮り始めました。
最初は全く一般客も気づかなかったのですが、さすがに一家が動き始めて気づき、ざわざし始めました。と、同時にSPが突如現れ、皇太子様達をぐるりと囲み、そのまま移動し始めたのです。
庶民は蹴散らされ、あるいは東宮家を追いかけるマスコミとぶつかり、せっかくの楽しい夜が一瞬でおじゃんになってしまう。
そんな国民からは別世界にいるような雅子様は、回りも見ずににこにこと移動し始めたのでした。
2007年12月21日 恵比寿ガーデンプレイスクリスマス・イルミネーション
2007年12月23日 天皇誕生日
そして、天皇誕生日。夜の「お祝い御膳」の後、またしても東宮家は外出し、今度は六本木のイルミネーション見物をしたのです。
さすがに、これにはマスコミも黙ってはいず、「東宮家はご自分達が動いたらどんな影響を与えるのかわかっているのか」と東宮大夫にくってかかりました。
しかし、大夫は涼しい顔で「両殿下はマスコミがどこにいるのかおわかりにならなかったようです」とにっこり笑いました。
12月24日のクリスマスイブには、池田礼子邸で、派手なクリスマスパーティが開かれました。勿論小和田家のご両親も一緒です。
東宮御所のクリスマスツリーは結局、東宮職員の目を楽しませただけで早々に片付けられてしまいました。
2007年12月27日 両陛下主催の昼食会
こういった行動は、普通は両陛下から「お叱り」を受ける筈ですが、雅子様は叱られるどころか、昼食会では「イルミネーションは楽しかったの?」と皇后陛下に聞かれ、「そりゃ、バカラですから」と得意そうに雅子様が答える始末。
普通なら、聞かれただけで「しまった」と思う所ですが、まるっきり天然の雅子様の得意気な雰囲気にはもう誰も逆らえないのです。
もし、ここで注意などしたら、今度は何ヶ月ひきこもるかわからない。
両陛下はそれを恐れていたのでした。
2007年12月28日 動物のお医者さんとフランス料理店「ロジェ」に
それをいいことに、皇太子夫妻は年末。
ピッピとまりの主治医を招いて、高級フランス料理店「ロジェ」で夜8時半から午前0時まで食事を楽しまれました。
三ツ星で有名なロジェ。
予約を取るのも一苦労なのに、東宮の威力はすごいもので、たまたま主治医が「ロジェの店長と顔見知り」だったのでいともたやすく店に入り、閉店が9時なのに、真夜中まで延々とワインを飲みほしたのです。
このような贅沢が東宮家に許される事自体、異例ですし、しかもマスコミに取材されていたとは。
さすがにこれは雅子様も予想外の事で、「マスコミってゴミだわ」とののしり、またも大野先生に長電話をして何とかおさまったのでした。
2008年1月1日 天皇一家
2007年9月22日 大相撲観戦
2007年10月1日 オペラ鑑賞
2007年10月6日 学習院幼稚園運動会
2007年10月16日 初等科運動会見学
2007年10月26日 徳島訪問
皇太子のみ大塚美術館視察。雅子妃ドタキャン
2007年10月27日 阿波浄瑠璃鑑賞
国民文化祭開会式
2007年10月28日 藍染体験
雅子様は特に愛子様を天皇にしたいとは思っていませんでした。
秋篠宮家に親王が生まれるまでは。
でも、親王の誕生が雅子様の心の引き金を引いてしまった事は確かです。
本能的に「自分達の将来はどうなってしまうのか」と漠然と不安を抱いたのです。
そこに小和田の父君の「皇太子が死んだらお前達は皇居から追い出される」の一言がかなり効いたのです。
ついこの間、皇太子様はポリープの手術をお受けになった。
いつご病気になるかわからない。
もしもの時・・・・その時・・・・皇位継承権のない内親王と二人、追い出される。そう考えただけで不安になります。
その不安を煽ったのか、払拭したのか、週刊誌には「愛子を天皇に」の記事が出てしまいました。
現在、皇室典範では女子皇族に皇位継承権はありません。
しかし、このタイトルは明らかに「愛子内親王に皇位継承権を与えよ」という運動の始まりでした。
雅子様にとってはとても都合のよいお話です。
娘が天皇になれば、自分は一生安泰でいられる。
そうすれば娘も自分もバカにされずにすむのだ。
なぜ「馬鹿にされる」という文言が浮かんだのか、ご自分ではわかりません。
でも、心の奥底にある潜在意識、つまりコンプレックスが言わせたものとしか解釈のしようがないのです。
ハーバード大を出た、英語が話せる、語学力抜群で優秀と喧伝されていても、真実の姿はご自分にはわかりますから。
だから一層、雅子様は自由気ままに振舞う事で、ご自分は権力者である事を内外にお示しになりたかったのです。