ふぶきの部屋

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考えた事なかった・・・女王だけが残る宮家

2024-11-15 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

皇室の未来を考えた時、スリム化を図るべきと私は何度も書いてきました。

なぜなら、子孫が残らない宮家を残す事に意義がないからです。

なぜ、皇族が必要がというと、何等かの事情で天皇の直系がいなくなった時のスペアだからです。

ゆえに本音を言えば、親王や王が沢山いる宮家の方がありがたいのです。

古代 →永世皇族制・・・男子皇族が多かった

奈良時代あたりから →5世孫まで皇族、その後は臣籍降下

鎌倉時代から →直系皇族現象の場合に跡を継げるよう世襲宮家を作るが滅ぶ

江戸時代 →天皇の子、宮家の子は都度都度「親王宣下」「内親王宣下」を受けない限り直系であっても認められず出家させられる。

一方で伏見・桂・有栖川・閑院の4家が「世襲宮家」として直系亡きあとは天皇の子が跡を継ぐ。

幕末~明治 →法親王が続々還俗し宮家をたてる一方、桂宮家・有栖川宮家が断絶。

     旧皇室典範により男系長子相続で5世まで、次男以下は華族となる。

大正・昭和→明治天皇の策により11宮家が誕生。戦後、秩父・高松・三笠宮家を除く宮家は全て臣籍降下

平成 → 三笠宮家の親王が全員亡くなり、大正天皇の血統が途絶える。

   皇太子家に男子が生まれず、秋篠宮家にのみ男子が生まれる。

令和 → 皇位継承者は秋篠宮と悠仁親王のみ

    天皇家と皇嗣家を除けば、三笠宮も高円宮も女王のみが残る予定

 

こうやってみていると、なぜ今の状況になったのかわかります。

危機的な状況は江戸時代、光格天皇の時と、明治になってから。

世襲宮家と内親王を皇族に嫁がせることで宮家を増やす事で乗り越えました。

しかし、現在、「元皇族の皇籍復帰」はなぜか反対の方向で進んでいます。

その代わり、出て来たのが「女性宮家」「女性天皇・女系天皇」で、これは皇室の存在意義を根本から覆すものです。

内親王・女王の役目は、少しでも早く「嫁ぐ」事にあります。

令和の今は家柄なんてどうでもいい人が増えているでしょうが、拘る階級は拘っています。

「元内親王」「天皇の娘・孫」を妻にし、そして子を儲ける事で、その家は金銭ではない「名家」の肩書を得ます。

例えば紀宮と結婚した黒田慶樹氏は、母方が華族に属していて学習院育ち。内親王と結婚で皇室とも縁が出来ました。もし、二人にお子様がいたらさぞや「華麗なる一族」と言われたでしょうし、もし女子であったら悠仁親王のお妃候補にもなったかもしれない。

近衛家に嫁いだ三笠宮家の甯子内親王、裏千家に嫁いだ容子内親王。

共に嫁ぎ先で男子を儲け、嫁ぎ先への貢献度は高いです。

じゃあ、黒田清子さんが何もしていないのかというと、そうではないと思います。

確かに夫は地方公務員ではありますが、「内親王を夫に持つ」事で一定の「忖度」は働いているものと思いますし、社交界での扱いも大きい筈。

 

かつて梨本宮家には女王二人しかおらず、伊都子妃は将来的に宮家が廃される事を案じて長女の方子女王を李家に嫁がせたとの思惑があります。

確かに梨本宮家が断絶してもその血は李王家に残るし、伊都子妃が未亡人になっても行く末が安心というのはあったでしょう。

三笠宮家にはとても長生きな大殿下と百合子妃がいるのに、なぜか親王3人はみな早くなくなり、残ったのは2人の妃と5人の女王。

高円宮家の典子女王は千家家に嫁ぎましたが、結婚当初から不仲が伝えられ、今は実家を頼りに婚家の財産で暮らしている状態。

三女、絢子女王は守谷家に嫁ぎ男子を得ました。元皇族を妻に迎えた事で恐らく守谷家の子供達は将来的に注目されるかもしれません。

こんな風に適齢期で降嫁してくれれば何の問題もないのですが、残った3人の女王は皇室経済法によれば今後、どのような扱いになるのだろうと思います。

三笠宮彬子女王43歳

瑤子女王41歳

高円宮承子女王38歳

 

まず、寛仁親王家の2女王ですが、寛仁親王亡き後は三笠宮家に吸収され、歳費等の変更はありませんでした。

しかし、信子妃は、長期間寛仁親王との不和から宮邸を離れ、麻生家に身を寄せていた事、そして姉妹から嫌われた事から宮邸に戻れず、現在は職員宿舎に住んでいます。

現在、三笠宮家は百合子妃入院でからの状態、寛仁親王家には2女王が暮らしていますが、彬子女王は京都に別邸を持ち、そちらと行き来している状態です。

百合子妃がいない宮家が現実的になりつつある今、本来は宮家の祭祀を取り仕切るのは信子妃でなければいけませんし、宮邸に戻るべきと思います。

しかし、それを彬子女王は許さず生活費すら満足に渡さないと言われています。

寛仁親王亡きあと、彬子女王が麻生さんに「信子妃を引き取れ」といい、麻生さんは「皇室に差し上げた」ときっぱりと断ったそうです。

なぜそこまで娘が高飛車になれるのかと言えば、それは百合子妃という後ろ盾があるからです。

百合子妃が「母を大切しないといけない」と言えば変わったものの、孫をそそのかしたのか、元々嫁嫌いだったのか、とにかく彬子女王こそ宮家の後継ぎと勘違いさせてしまったのです。

この所、やたらマスコミに持ち上げられている彬子女王ですが、なまじ学歴があり気が強くプライドの権化と化した彼女の策略が今後もうまくいくかはわかりません。

宮内庁も言いなりになるべきではないと思っています。

私は寛仁親王の娘、大正天皇の曽孫」というプライドは臣籍降下したらあっという間に崩れ去るものであり、今までおべっかを使ってきた回りが一斉に反旗を翻す事にもなりかねません。

瑤子女王だって、臣籍降下したら「プライベート」な海外旅行が出来るかどうか。

そういう様々な思惑があり、ここまで来たら結婚するより宮家に残った方が得策と思っていることは確かと思います。

 

また、高円宮承子女王は、若い頃からそれこそスキャンダルを起こしてきた女性ですし、現在でも結婚する気はまるっきりないような感じで、今後も母の働きを頼りに自分は自由気ままに生活していくのでしょう。

 

私は将来、秋篠宮殿下、その次の悠仁親王殿下が即位された時まで残るだろう3人の女王がどんな存在感を持つのかかなり心配になります。

三笠宮邸も高円宮邸も正直、秋篠宮邸より大きいのです。

いわゆる「今上」からどんどん血筋の遠い宮家で、尚且つ身位も下になっていく3人が何のために皇室で生活するのか全然理解出来ないからです。

愛子内親王はどうなるでしょう?

身分は「称号を持つ内親王」です。

しかし、将来的に「天皇のいとこ」になります。その頃、愛子内親王が独身で40歳を超え、あのままの状態で仙洞御所に住み続けるのか、あるいは宮邸を構えるのか。

悠仁親王のお妃にも秋篠宮家が経験している苦悩を引き継がせるのでしょうか?

佳子様は将来は「天皇の姉」になります。

本来、秋篠宮殿下は皇太弟になり、内廷となるに従って称号を得なければならなかった。しかし、(宮内庁は面倒だったんでしょうね)結果的に「皇嗣」となり、内廷外皇族になった事で、いわゆるアンチからはバッシングされる羽目に。

それでも佳子様と降嫁した眞子様は「天皇の姉」になる事は確定ですから、その存在感は今以上に増す筈です。

イギリスで言うとアン王女、幕末に存在した孝明天皇の姉の桂宮淑子内親王です。

彼女は

 閑院宮愛仁親王と婚約した為に「内親王宣下」を受けた

 婚約した2日後に親王が薨去

 桂宮家を継いだ弟が亡くなり、女性として単独の桂宮となった

 孝明天皇の姉として、孝明天皇の后よりも高い位につく

人見知りでほとんど顔を見せなかった宮家当主ではありましたが、とにかく扱いだけは女御より上という。

なぜ彼女が宮家を継いだのか、恐らくですけど内親王宣下を受けた2日後に婚約者が亡くなり、とても気のだと父天皇や弟天皇が考えた為ではないかと思われます。

席次は皇后より上だったと言いますから、本人が望むと望まざると権威だけは高かった。けれど一生独身だったというわけですね。

 

佳子様にはぜひよいご縁を得て降嫁して頂きたいけれど、でも今、佳子様が皇室から離れる事は身の安全の為にも好ましくないと思います。

そういう考えにさせているのが天皇家というのが恐ろしいのですが。

また、そういう立場の内親王と結婚したいという男性がそう簡単に現れるかどうか。

眞子様はそんな不安を抱えつつ、小室圭に捕まったと思えば「選ぶ余地」すらなかったんだなと本当に可哀想になります。

天皇の姉が庶民になり、3世皇族である女王が権威を振りかざす・・・そんな皇室にはなって欲しくないと思います。

女王の生活を支える為に税金を払っているわけではないと今の疲弊した国民は思うでしょう。

 

 

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端的に言えば愛子内親王は主要皇族ではない

2024-11-09 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

何だかイギリス風の言い方になりますね。

「主要ロイヤルメンバー」という言い方。

現在のイギリスでは国王夫妻とプリンス・オブ・ウェールズ夫妻、エディンバラ公爵夫妻、アン王女という事になります。

じゃあ、他の王族は? まずヨーク公は正式に王室から追い出されてしまいました。その娘達はプリンセスだけど結婚などして公務に出る義務はありません。

日本に比べると、本当にイギリス王室は王族のスリム化を進めているなと思います。

それでもかなり庶民から見ると「国王はお金持ちすぎ」と思われていますね。

今、いわゆる「愛子天皇派」は皇室の身位(序列)をよく知らずに、「天皇の子である愛子内親王が天皇になれないのはおかしい」と言ってます。

いいがかりにすぎないのですが、だけどそれを延々と言わせておくわけにもいかず、Xなどでは一生懸命に「身位」を説明している人もいます。

しかし、そもそも「無知」な人にそんな説明をして通るのか?聞く気もない人に一生懸命説明してなんになる?とも思います。

馬鹿な奴だとほっとけばいいけど、ほっとくとフェイクな情報はどんんどん拡散されていく。それは未来の皇室にとってよくない、全くよくない事ですから、何とかしなくてはけません。

例えば。

この並び。

何で愛子様は皇后陛下の隣りにいないんだ!秋篠宮家の娘じゃないぞ!皇女様だぞ!」とXでみんな叫んでいます。

それに対し「身位順なんだよ。来年からは秋篠宮両殿下の横は悠仁親王だ」と反論する。

すると、恐らく本当にそうなった時、「秋篠宮家の息子より天皇の娘の方が位が上だ!」と無茶な論法を展開するわけです。

彼らが愛子内親王に向ける言葉の中に「品がある。美しい。可愛い。癒される。こんな人が天皇だったらいいな」みたいな事で、なんじゃそりゃ?なんですけど。中には国連のように「男女平等」を言い出す輩もいます。

愛子内親王ご本人も「私はお母さまの隣り」と思い込んでいるのか、先日の茶会では、入場の時、いきなり秋篠宮両殿下を飛び越して皇后の隣りに行こうとします。

この時の天皇皇后の「無視」っぷりが「親」としてどうなんだ?と。

秋篠宮両殿下も本当は「違いますよ」と言いたい。言いたいけれど言ったらパニック起こすかもしれないので、黙っている。

天皇皇后も同じ。無視無視無視。後ろに控える宮内庁長官の顔が物語る異常事態。

誰が戻したのか、結果的に佳子様の前に立つ。

茶会ではまず、佳子様が「・・・ですよね」と話しを振り、愛子内親王が「実際に現地に赴かれて・・・?」と中半端なセリフを言う。

それを頷きながら見守る佳子様がいじらしすぎて。

そして皇室のスリム化なのか、この茶会には皇族が座らない席も。

なんと宮内庁長官がいる。何で?三笠宮家や高円宮家は主要メンバーじゃないの?

恐らくは、各宮妃が愛子内親王の行動に表情を変える事を嫌がってなんだろうと思いますが。招待客に失礼極まりないですね。

それもこれも「天皇の一人娘」である愛子内親王を皇位につかせる。あるいは、今後も「女一宮」としての格付けをしたい天皇皇后、ひいては小和田家の思惑なのでしょう。

令和の道長とも言うべき小和田家は、平成の間から皇室破壊を押し進め、皇位継承権のない内親王を天皇の座に着けようと運動している。

蘇我氏も藤原氏も叶わない、極悪な「外戚」となりました。

そんな天皇皇后が頼りにするのが、Xやヤフコメの「愛子様上げ」コメントです。

さも人気があるように画策、優秀伝説を広める。

これらはある意味成功しているんですが、こうやって内親王がボロを出すと、よけいに暴れる性格を持っています。

むちゃくちゃな理が通らない意見に、保守派は真面目に「違う」と説明し続けるのですから体力、気力が持たない。

そこで、端的にいうと「愛子内親王は主要皇族ではない」と言ってしまった方がどんなにおバカな人にでもわかるだろうと。

 主要かどうかの判断

 身位

いわゆる「序列」です。

天皇家、皇族方は、宝塚のトップシステムと同じように序列がはっきりしています。これを越える事は皇室を否定する、自分を否定する事になるので絶対にタブーです。

天皇←皇后←皇嗣←皇嗣妃←親王←愛子←皇嗣家の内親王

これが正しい序列です。

天皇家は2000年以上「男系」で皇位を受けて来たので、当たり前ですが「男系」が上、「男系男子」が「男系女子」より上になります。

例えば、歌会始めでの各皇族の呼ばれ方を見るとはっきりわかります。

天皇については呼びません。最高位だからです。

皇后→ 后宮(きさいのみや)

秋篠宮殿下→ 皇太子(ひつぎのみこ)

紀子妃殿下→ 皇太子妃(ひつぎのみこのみめ)

内親王・女王→ 愛子皇女(あいこのひめみこ)

        佳子皇女(かこのひめみこ)

親王→ 悠仁皇子(ひさひとのみこ)

と呼ばれます。

大事なのは「ひつぎのみこ」「ひつぎのみこのみめ」という呼ばれ方で、大昔から「日嗣皇子(ひつぎのみこ)」は今でいう所の皇太子、次期天皇を指すのです。

「秋篠宮は暫定皇嗣だ」と言う人達もいますが。

立皇嗣の礼の時、黄丹の袍を着用しています。これは太陽が昇る様子を表した色で、皇太子でないと着る事は出来ません。

そして天皇から皇太子に与える「壺切りの剣」を貰っています。

つまり、秋篠宮殿下は暫定ではなく正式な「日嗣皇子(ひつぎのみこ)」です。

それから、「光る君へ」を見てる人はわかると思いますが、一条天皇が病になって譲位せざるを得ない時に、三条天皇に「敦平を東宮とせよ」と言います。

東宮という言葉は「皇太子」を指します。

東宮=日嗣皇子です。だから皇太子の住まいは「東宮御所」なのです。

ではなぜ、秋篠宮家は東宮御所に住まないのか。

秋篠宮邸を東宮御所としてもよいのではないかと。

これは秋篠宮家の苦しい選択、「遠慮」であると私は思っています。

確かに「秋篠宮」という宮号は本当に素晴らしいです。発音も文字も美しい。これを残したいという気持ちはわかります。

しかし、秋篠宮殿下は天皇皇后からの無言の圧力を受けたのではと推察。

ゆえに「秋篠宮皇嗣殿下」などと長ったらしい名前になり、それがあっち派に「暫定」という言葉を与えるきっかけになります。

秋篠宮邸を訪れた海外要人はその狭さに驚く。けれど、実は「古いもの」を今に生かしている事に目を見張るでしょう。

海外では「CROWN PRINCE」ですから。

では、将来、秋篠宮が即位したら「身位」はどうなるか。

文仁天皇←紀子皇后←悠仁皇太子←佳子内親王←愛子内親王

となります。では雅子さんは「皇太后」になるのか?

なりません。「天皇の母」ではないので。

その時、仮に徳仁天皇が上皇だったら上皇后になるかもしれませんが、未亡人だった場合、宮内庁は「呼び名」に苦労する事でしょうね。

本来は仏門に入り「令和門院」などと呼ばれる筈ですけど、「令和御息所」とか?

小和田皇太夫人(おわだこうたいぶにん)とか?

つまり、身位というのは今上が世代交代するにしたがって下がっていくものなのです。

ですから愛子内親王は出来るだけ早く降嫁した方がいいのでは?

自分の立場が分からずうろうろするよりはね。

 

 国家・皇室への貢献度

眞子様は皇室を離れて3年になるのですが、今でも週刊誌は追いかけるし、「眞子様大好き」という意見もよく見ます。

離れてみて初めて眞子様の「真の価値」に気づいた人も多いのではないでしょうか?

平成の始め、天皇の初孫として誕生した眞子内親王は、一度も公務をする上で「私」を出した事がありません。あのバッシングの最中ですら、威厳と笑顔で数々の公務を担い、総裁職も受けていました。

眞子様の皇室への貢献度は非常に高かった為、それが全て一旦は秋篠宮両殿下に戻ってそして今、佳子内親王がそれを受け継いでいます。

「主要」かどうかの基準は、どれだけ総裁職を担っているかというのがありますが、そういう意味では秋篠宮殿下が一番でしょう。殿下は昭和61年に山階鳥類研究所の総裁に、63年に日本動物園水族館総裁に就任。

ざっと25を超える団体の総裁職を務めています。

そもそも次期天皇ですからそれだけで「主要」ではあります。

今上と雅子皇后が赤十字以外何もしてこなかったけど、次期天皇と言う事で「主要」に入ってます。

悠仁親王も同様。今後、秋篠宮殿下からどれ程の公務を託されるのかわかりませんが、多分相当数になるでしょう。

本来はここまでが「主要」であり、佳子内親王や愛子内親王、各宮家は「主要」に入りません。なぜなら「公務」をする義務がないからです。

でも佳子内親王はすでに3つの総裁職を受け、今や日本の広告塔と言っていい程のご活躍ぶりでいて頂かなくてはならない存在です。

 

では主要でないメンバーは・・・と言えば、筆頭は雅子皇后です。

なぜなら、皇室での最も重要な「宮中祭祀」に一切出ない。

単独で出席するのは赤十字大会のみで、自分の都合のいいように公務を動かす迷惑な存在になっているからです。

愛子内親王にしても成年後、なぜか必要もない「就職」という進路を選び、女一宮にも関わらず給料を得ています。これは生活保護受給者が働くようなもので、本来は許される事ではないです。

なぜ生活保護受給者に例えるかというと、天皇一家というのは、全てが「無料」国の費用で賄われる存在だからです。

翻って、皇嗣家を筆頭とする宮家は、国内を移動する費用も自腹、病気したら10割、等々制約が多い。その分積極的に公務に励む必要はないわけです。

三笠宮家の彬子女王はそれでも宮邸と京都に別宅を持ち、さらに収入を得て海外にまで行くという独自の動きをしていますが、果たしてこれはどうなんだ?どうして誰も異を唱えないのか不思議。

高円宮家は承子女王が就職し、ほぼそっちで生活。宮妃は数々の総裁職(というべきかどうかわからない)を持ち、かなり裕福です。

次期天皇一家になるべき皇嗣家のみが、きっちりと決まりを守ってリーズナブルに生活しているという皮肉な事になっています。

基本、女性皇族は「主要」ではないのですから、佳子内親王以外の宮家はみな臣籍降下すべきです。

内親王の主な役割は何かといえば「降嫁」に他ならないので。

ですから、今の皇室における主要皇族は

秋篠宮両殿下

・佳子内親王

・常陸宮両殿下

・信子妃

まででいいかと。

 

身位を見ても、貢献度を見ても愛子内親王は主要皇族ではない。

元々皇位継承権も持っていない。ゆえに私達は彼女に何も求めない。

その方が内親王にとってもよい事ではありませんか?

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美しさや人気で皇位継承出来るなら佳子天皇になっちゃうよ

2024-07-13 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

・・・・って話よね~~~~ だって佳子様の美しさは世界レベルだし、その人気も訪問した国レベルだもん

会う人を虜にする日本のプリンセス・カコこそ天皇にふさわしいって事になりますが?

かつて「美しさ」を武器にした皇后がいました。

松本清張の「暗い血の旋舞」という本の中で「気が狂った皇后」という表現で書かれていたのがエリザベート皇后。

まさか後にミュージカルになるなんて思いませんでしたが。

 これくらい美人だったら考える?

エリザベート皇后は「精神病」の家系、ヴィッテルスバッハ家の令嬢。

従兄弟にルードヴィッヒ2世。

結婚したばかリの時、皇太后に「歯が黄ばんでる」と言われて以来、顔を隠し、しきたりに従えず、しまいには「旅」にあけくれ暗殺される。

彼女が頼ったのは「美」と「ダイエット」

彼女が21世紀に生きていたら毎日筋トレばっかりやってるんじゃない?

彼女はあまり国益を考えず、ハンガリー好きでハンガリー語は熱心に勉強して女官もハンガリー人にするほどだったけど、基本、オーストリアが嫌い。

彼女が日本の皇后と違ったのは、秀でた美と男子を出産した事。

女性週刊誌・おじさんの週刊誌、マスコミは「愛子様の人気が止まらない」と報じています。

 愛子様の人気が止まらない。うなぎ上り。人気すぎてインスタのフォロワーが止まらない。

 この世に愛子様程美しく、上品で気品があってしとやかで愛くるしい内親王はいない。

 愛子様は偏差値72,英語にスペイン語も得意。本当は東大へ行けたのに、あえて「学習院」を選んだ。それは両陛下の為。

 大学がリモートだったのは「絶対に両陛下にコロナを移してはいけない」と硬く思っていたから。親孝行度も日本一

 愛子様の美貌や気品やファッションセンスは美智子さま譲り

 日赤には毎日朝9時から5時まで勤務し、時に8時まで残業もいとわず、公務は休日にしている程。日赤勤務は愛子様の「生きがい」「好きなこと」

 愛子様は天皇陛下から直々に帝王学を授けられている

だから。 愛子様を天皇にすべき。

愛子様を皇位継承から外したままでいいのか。

愛子様こそ次期天皇にふさわしい。なぜなら・・美しく気高く知的で国民を思っているから。

だ、そうです。もう書いてて恥ずかしいというか、事実とかけ離れたこんな人は皇室のどこにいるんだ?って感じですよね。

一方、秋篠宮家については

 愛子様に負けじと佳子様も通勤!

 佳子様がリーズナブルな服を着れば「みっともない」高い服を着れば「税金の無駄遣い」

 職員用の建物に住めば「別居」「贅沢」

 悠仁殿下の論文は何を書いても「ずる」

とまあ、本当にすさまじいのです。誹謗中傷が。

わかってやってるのが5割。わかんないけど仕事だからやってるのが5割。

顔が綺麗だ、仕草が上品だ、英語が話せる、これで天皇になれる筈がないのは百も承知だけど、なんせ愛子様のお母様は「学歴」「職業」だけで皇太子妃から皇后になった人ですから。

しかし、上記の「愛子様」に当てはめると、徳仁親王は絶対に天皇になれなかった。

 背が低い。

 人気がない。

マスコミがぎゃあぎゃあ「浩宮様のお妃選び」で何年も騒いだのは、ネタになるから。正直、もうネタ切れの時に現れたのが小和田雅子さんで、それまで家柄がよく綺麗で頭のよい女性は全員「お断り」になられていたのです。

本当は人気がないし、成績だってどうだか。なのに天皇になれたのはなぜか。

それは「父を天皇とする男系男子」だったからに他ならないのです。

歴史を紐解くと、本当に皇位継承者が全滅しかかっていた所で女帝に担ぎ上げられたのは後桜町天皇だけ。その彼女も親王の成長と共に譲位し、独身を貫いた。

明治に皇室典範を作ろうとなった時、「女帝」を認めるかどうかで紛糾したらしい。

江戸時代は男系男子はみな早死にしていたし、イギリスには女王がいたし、ロシアにもいた。女性皇族の地位を上げないと世界的に恥ずかしいんじゃないかという意見もあった。

けれど、歴史を振り返ると、推古天皇から後桜町天皇まで、みな未亡人、天皇の妻、母で、即位後が子供を産まないのが通例。未婚の場合は一生独身が通例。

その理由は「女帝によって皇統に余計な争いをもたらすのを避けるため」という点で一致しています。

日本の皇室の場合、天皇が・・・というよりその後ろ盾になってる蘇我氏や藤原氏、徳川氏、薩長などが実際に政治をとり、それらの勢力が天皇を実質的に決めて来た経緯があり、そこに皇配という男性が加われば新たな勢力の誕生になる。

その皇配の実家が女帝を操るという事も考えられた。

多分、すぐに称徳天皇と道鏡が目に浮かんだと思います。

さすがの藤原氏も道鏡の出現には驚いただろうし、言う事聞かない女帝のわがままさにも辟易したでしょう。

下手したら道鏡が天皇になったかもしれないわけで。

戦いによって王位を勝ち取ってきたよその国と違い、日本の天皇は「日本に住む全ての人々の頂点に立ち、国の安寧を祈る存在」であったので、そのよりどころとして「父が天皇」という血統主義が不文律であり、男子が継ぐもの。

また、女性には幸せな結婚をして子宝に恵まれて欲しいと考える国家にとって、独身を強いる女帝という存在は容認できないものだったのです。

確かに愛子内親王は「男系女子」になるわけで、彼女自身は男系です。

そして結婚して子供を産んだらその子は「女系」になり、道鏡が天皇になるのと同様の皇統破壊に通じるのです。

悠仁親王が生まれるまで、実はこの「皇統破壊」を危機が目前に迫っていた事をほとんどの日本人は知らないでしょう。

なぜなら、昭和の終わりと共に「皇室」への関心が急速に衰えてきたからです。

礼宮と川嶋紀子嬢の結婚は、唯一、若い世代に皇室への関心を促す一手でした。

それはイギリスのダイアナフィーバーと共に、世界中の王室や皇室に関心を持ち、沢山の本が出版されたりしたからです。

しかし、あまりにも「美智子さま」が表に出た事。

段々、その行動と「強いきもち」に国民がついていけなくなったこと。

段々無関心と沈黙が国民の中に育ち、それを利用して小和田家を筆頭とする「皇統破壊派」が愛子天皇を担ぎ出したわけです。

 

今でも「男系」と「女系」の違いをわからない政治家や財界人、著名人も多いし、意図的に秋篠宮家の公務が目立たない様にされてきたし。

それでも佳子様の人気だけは押さえが効かないので、無駄な努力で誹謗中傷を繰り返す。

悠仁殿下も同じです。

築附生たちが「彼は普通の男子ですよ。成績もいいし友達も一杯いる。どんな大学に推薦を受けても全然不思議じゃない」といい、鹿児島総文では高校生たちが顔を輝かせて「悠仁さまに頑張れって言われたら・・頑張るしかないじゃないっすか」と嬉しそうに話したこと、そういうのは週刊誌では絶対に書かれる事はなく、隠していた爪が出ざるを得ないこの時期に来て「では殺してしまえ」とまでの危機感が出てくるのです。

安倍元首相だって暗殺されたのだから、皇位継承者だって同様の危機にあってます。

秋篠宮家が、出会った人に愛され支持されるのは、顔がいいとか優秀とかではなく、「この人なら安心」という、国民の潜在意識に訴えかける何かがあるからです。

出会った瞬間、背筋が伸びる。

心地いい緊張感と「きっとこの方はおわかり下さる」という深層意識の中の求めにダイレクトに答えて下さるからです。

この方が祈れば雨が降る、この方に祈って頂いたら国に安寧が訪れる。

言葉には出来ないけど、そういう思いにさせて下さる・・それこそが昭和天皇時代を生きた私達が感じていたことで、それを受け継いでいるのが秋篠宮家で、確実に悠仁殿下は八百万の神々に愛されていると畏れる心です。

 

今の日本は不確実性の中で傾いているような気がする。

今一度、本来の日本を取り戻して欲しいという心のよりどころが秋篠宮家なのです。

 

人気や顔で天皇にふさわしいなんて、馬鹿なこというな。無知なマスコミよ。

 

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将来を嘱望されたがゆえに修士論文提出出来なかった人

2024-07-04 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

・・・って書いたのは今週発売の「女性自身」

どういう意味かわかりませんが、「期待が大きくプレッシャーで書けませんでした」

なのか「マスコミが騒いだせいで書けませんでした」というのか。

何と言っても小和田雅子氏は英語にロシア語にフランス語に・・・5か国語話せる設定じゃなかったっけ?

そんな事言ったら私も韓国語と中国語話せるよ。って事になっちゃう。

オックスフォードであっちのマスコミに「どうですか」と聞かれ「いい学校でした」と答えた皇后陛下。

何でも紋切り型に言う癖があり、それは婚約記者会見の時からそうでしたよね。

「今も昔も変わらず・・・」とかそういう修飾語を使えない質で、

「どうですか」→「いい」

「同じ時期に?」→「いえ、5年」

こんな風にお答えになるわけで、これのどこがそんなにご優秀?と思うのですが。

彼女が、いわゆるオックスフォードで留学時代を送ったり、東大に入ったり、様々な「お勉強」をしながら北米二課に配属されたわけですが、彼女が回りからどう思われていたか、わかる映像があります。

 

マスコミと一緒ですから、とにかく気持ちはハイテンションで、意味もなく「へっ」と笑う。こういう風に笑う人は、心のどこかで落ち着きがなく場違いだと本当は思っている感じです。

北米二課ではお祝いムードというより、しら~~と空気が流れ、本人も気づいてはいるんでしょう。一生懸命に笑ってごまかそうとしています。

「寄せ書き」に驚き受け取りますが、何だか偏った寄せが着ですよね。

回りはあまり笑ってません。

「おめでとうございます」とは言っててもお祝いムードがないのです。

記念写真を撮りたいマスコミ、同僚になんか話しかけられて一瞬目が怖くなったのですが、こういう人だからやっぱり嫌われていたのかなと。

 

親子で渡辺美智雄氏の所に。

椅子をすすめられて、どっちから行ったらいいのかわからずうろうろ。

渡辺氏に「こっちからきたら」と言われて「はい」とか何とか。

態度の一つ一つが偉そうで、みっちーもさぞかしいやだったろうな。

小和田「長い間と言いたいところですがそうでもありません」

渡辺「10年か?10年?6年?」

小和田「留学とかありましたから実質3年です

渡辺「3年か。夜が遅いのでお父さんと一緒に心配していたよ

外務省に父がいると大臣が心配してくれるのか・・・いかに特別扱いかわかりますよね。なんせこの時、カローラで通っていて「新人」はダメなのに特別扱いとマスコミに暴露されて、いきなりやめた程ですしね。

大臣に何を言われても笑ってるだけで。

マスコミに促されて握手したけど、本当はしたくなかったみたいな?

私の方からは今までのお礼などを申し上げまして、皆さまからはこれから頑張って下さいっていうような励ましの言葉を頂きました」

「先月の19日の皇室会議の記者会見で申し上げた通りでございますけれども、そのあと、両陛下や皇太子殿下に大変に温かい心遣いを頂きまして、あの、とてもありがたく存じております

これもセリフになってますよね。

それにしても、いくら父親が同じ職場といえども、父同伴で「娘」になりきって黙って笑ってるだけって、こんな風に父は娘を支配してきたんだなという事がよくわかります。

外務省を出る時は、さすがに拍手と声がかかっていたけど、そっちを向くでもなくずっと隣の人と喋ってる。

三つ子の魂百までだなあと感じました。

とにかく、これから嫁にいく人の顔じゃなくて、絶対的な地位を手にした得意満面な顔に見える。だからあの時も、嫌な感じをしたんだなと思います。

記者会見の生中継の時も、皇太子には学友が何人もテレビ出演してて、だけど雅子さんには一人だけ。

礼宮と紀子さんの時は両方とも学習院で同じサークルで・・だから和気あいあい、女性も男性も好き勝手な事言ってましたけど、こっちの方は皇太子の学友は楽しい思い出があったようですが、雅子さんの友人は話題がない。ただ「おわ」って呼ばれていたという事のみ。

ハーバードでも、東大でもオックスフォードでも外務省でも友人が出来なかった理由は、小和田恒という後ろ盾を傘にしてわがままだったからじゃないのか?

相手の気持ちを慮る事が出来なかったから、次第に離れていってしまったのかも。

 

それが「将来を嘱望されたがゆえに修士論文を書き上げることが出来なかった」皇后の現実です。

国益にもならず、論文一つ書き上げる事無く、せっかく行ったイギリスでも遅刻とひきこもりを続けた60歳の女性に「名誉博士号」を贈るとは。

大学に法則発動しないように祈るだけですね。

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淑女とは何であるか・・・礼宮殿下と紀子さんの婚約会見

2024-06-29 07:00:10 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

まず、富田メモによると。

「礼宮 陛下も承知し喜んでいる。伝えてほしい」と書いています。

1989年の夏に礼宮殿下と川嶋紀子さんの婚約が発表され、皇室会議を経て正式に決定。

でもその前4年間程、お二人は交際していたのです。

礼宮殿下は昭和天皇が亡くなる前年に恐らく「川嶋紀子さんと結婚したい。その時はお印にヒオウギアヤメを頂けますか」と了承をとっていたと思われます。

ヒオウギアヤメは昭和天皇最後の研究対象であり、礼宮も手伝っていたから。

この富田メモの日付は1988年4月28日となっています。

昭和天皇は1987年の4月29日、祝宴の途中に吐血して倒れ、手術。

1988年の8月15日の終戦記念日を最後に公務に出られなくなってしまいます。

覚えているのは入院する時の昭和天皇が車に乗って通り過ぎるのをテレビで見たこと。

「腸閉塞」とか言われてたけど、本当はがんだったんだよね。

侍医がいるのに吐血するまで体調不良がわからなかった事はありえないミスだと思います。

8月15日。写真週刊誌に「涙を流す天皇」と言う写真がのりました。

本当に胸に迫るものがあったのを覚えています。

恐らく、礼宮の結婚の話はベッドの上で聞く事になったんだろうと推察します。

いわゆる愛子天皇派がいう「昭和天皇は川嶋紀子さんに反対」は嘘だったとはっきりわかるメモですね。

昭和天皇は礼宮をとても気に入っていて、皇居に上がって、帰り道に「花が咲いているからみよう」と言って、途中まで送ってくれたりしたらしい。その時に咲いていた花は彼岸花だったそうです。

つまり。小和田雅子さんと違って、川嶋紀子さんは大学に入った頃から皇室とは深い関りを持ち、昭和天皇は温かく二人を見守っていたのです。

ただ、「可哀想」の名のもとに反対していたのは皇后美智子さまという事になります。

何が可哀想って、「皇室に入ったら紀子ちゃんが苦労する。学生で身分も低いしお金もないし」

って意味だったんですよね。

私はこの婚約記者会見が大好きです。

一応喪中と言う事で紀子さんは紺のワンピースにでかい白の手袋をしていました。

(本当は手袋なんて必要ないのに美智子皇后の【手袋事件】にまつわるトラウマがあんな変な手袋をさせたのだろうと思います)

たどたどしくも、しっかりと敬語を使って、言い間違いをしながらも必死に頑張る紀子さんに日本中が「可愛いこんな女性がまだ日本にいたのか」と驚いた瞬間でありました。

 

「どこに惹かれたのか」と聞かれて

礼宮:話をしていて楽しい・・人なんですね。また何となく愛嬌があるというか、可愛らしい

こんなセリフを互いに見つめ合ってちょこちょこ笑って言うから、記者さん達はさぞや暑かったろうと。見ていた私も「勝手にして~~~」状態。

紀子さん:御所内で飼っていらっしゃるナマズやあひるなどを可愛がっているお姿、また魚類の研究に熱心に研究されているお姿に惹かれました。またタイのお酒、メコンに誘われるまま、先生、ご友人たちと語り、またギターを弾かれたりするお姿や、あの、そういう所に惹かれました。

礼宮:付け加えますと、非常にこの話題が豊富な人じゃないかなと私、思っております。

 どこかの誰かの「一言付け加えさせていただきますと」とは違い、テレにテレちゃってついつい口を挟んだ様子の礼宮が可愛い。またなぜか犬の鳴き声がするんですよね。

 

「皇太子殿下の結婚について」

礼宮:あの、兄の皇太子の方が勿論早く婚約・結婚等が決まればそれに越したことはなかったわけですし、私といたしましてもその事について強く望んでおりましたが、ま、先ほども申し上げましたような(川嶋家へのマスコミの問い合わせが多くなり結婚を急がざる得なかった事)、事情もあり、私の方が先になってしまったと。いう事でございます。

マスコミ;最近の雰囲気はいかがですか

礼宮:雰囲気。以前に30歳までに出来れば上出来という風に申しましたけれども、やはり30までに出来れば上出来なのではないかと私は思っております。

マスコミ:暗い見通しなんでしょうか?

礼宮:暗い・・・暗い見通しといいますか。私もよくわかりませんけど。

 こういう率直な事が言えた時代だったんですね。最後はかなり投げやりに答えていました。

 

「どんな家庭を築きたいか。お子様は何人」

紀子さん:始めの質問でございますが、礼宮様とご一緒にあの、のんびりと明るくそして和やかな家庭を築けたらと思っております。それから次の質問についてでございますが・・・それは

礼宮:何人にしましょうか。

紀子さん:あの、それもこれからゆっくりと考えてみたいと思っております。

 見つめ合って笑い、回りも笑い、さらに照れて笑う。最高の瞬間ですよね。どこかの誰かのように「お幸せにして差し上げたい」なんて言わないところがなんとも奥ゆかしい。礼宮の突っ込みが最高で、こういう一々どぎまぎする紀子ちゃんが可愛いんだろうなと。

 

で、ここからがすごいのですが、「結婚を知らされた川嶋家の反応」を聞かれて。

紀子さん:父は自分の人生は自分の責任や自分の判断で決める事が望ましい。

それからよく考えて、よく悩んだうえで結論を大切にしなさいと申しておりました。

また母は【紀子ちゃん、よく考えてみましょうね】って申しまして、その後で20歳前半の頃は色々な豊かな経験をすると共に、またよく勉強しライフワークの基礎となる、基礎を作る重要な時期ですよっていうようなことを申しておりました。

 まず、この頃、紀子さんは留学をしようと考えていたんですね。ご両親もそれを後押しするような感じだったと思います。

でも、実は娘が恋をして、その恋に突っ走っていくのではという心配をしていたと思うのです。相手は皇族で人柄がいいのもわかるけど、それに流されていいのかと思っているようなお言葉です。

「自分の責任で自分で判断」は厳しい言葉で、以後、紀子さんは川嶋家に甘える事をせず、全て殿下と共に解決してきた・・甘えを許さない厳しい家庭です。

60過ぎても実家にべったりの皇后とは偉い違いがあります。

また、母、和代さんの「ライフワークの基礎を作る重要な時期」こういう事を話せる母親というのは、果たして当時存在したろうか?と思います。

自分を見失うなとおっしゃっているんですね。

紀子さんはゆえに、留学はしなかったけれど「福祉」分野の勉強をこつこつ続け、自分を確立していきます。だから美智子皇后に叱られても自分を保つことが出来たのではないでしょうか。

一方小和田雅子さんにとって学歴しか誇るものがなく、あとはスキーだ旅行だと遊ぶ事が主であった人の場合、皇室に入ってからのギャップに驚き、適応障害になってからは散々「ライフワークを持て」と言われたけど結局出来ませんでした。

紀子さんは母によって素晴らしい教育を受け、だから今があるのです。

 正直「ライフワーク」というものを女性が持って続けることは難しい。やっぱり余裕がある家じゃないとそんな事を言ってくれる親には恵まれないと思うのですね。

私自身を振り返っても、そんな事は言われなかったです。ただ、私が好きな事、やりたい事に反対しなかった事だけはありがたかった。いくら本を買ってもドラマを見ても叱られる事はなかったし、それが今の「皇室」「宝塚」というライフワークに繋がっているからです。

私も一時期、手話が習いたくて教室に行った事もありますが、そういうことも絶対に反対しない親でしたが、うちの旦那の親は「嫁は嫁の務めをすればよい」という考え方だったので随分衝突したのは確かです。

紀子さんは、まるで皇室に嫁ぐ運命のような教育を受けてこられたのです。

 

紀子さん:礼宮様は大変理解がある方で、出来る限りお勉強を続けていきたいと思っております。

ともおっしゃって、学生結婚ですが互いを尊重し合っている風ですよね。勿論、皇族だからそれが許されるわけですけど、それでも紀子さんは出産や育児、公務、儀式と勉強のままならない時を過ごすのです。

 

マスコミがこの頃は非常に気さくでフレンドリーで「けんかをした事ありますか?この際・・・」って。そこで紀子様が「からかった事?」って聞いてます。やっぱりからかってたんだ~~とにんまり。

礼宮;双方からかったり、そういう事は致しましたけれども・・ね?

紀子さん:ええ。

マスコミ:紀子さん、涙を流されたようなことはないんですか?

紀子さん:涙を流した事がございますのが、あの、皆さんご存知だと思いますけれども英国にいらっしゃった日でございます。

マスコミ:けんかじゃないですね。

 ほんと。はいはい。好きにして。そうだね~~お見送りで泣いてたね~けんかはどうしたって感じですが。これが一年後になると、同じ質問で秋篠宮が「喧嘩しても、あなた、すぐに謝りますね」と紀子様に言います。紀子様は「えっ」と言葉を失うんですけど。

多分、ちょっとした時間の遅れに秋篠宮が怒って、紀子様は謝ったんでしょう。本当は紀子様の方が怖いと思うけど。

 

さらに図に乗ったマスコミは「結婚前にタイへ行くという話はないのか」とか意地悪な事を言うのです。礼宮はタイでは超有名で、当時の国王が「実の息子」以上に可愛がっていたし、国民も「礼宮さま大好き」だったんです。今の国王なんて全然人気なかったですしね。

礼宮=タイで、ゆえに結婚式にも特別にシリントン王女が参列したのです。

その後「タイの愛人説」などが出て来るとは考えなかったでしょう。

最後、「本当に失礼な質問ですが、紀子さんは礼宮さまが初恋ですか」

紀子さん:申し上げてよろしいですか。

礼宮:どうぞ

紀子さん:はい。そうでございます。

 質問されて驚いた紀子さんが礼宮を見て笑い、礼宮もますます照れている様子が初々しくて好きです

さすがに29歳の小和田さんには出来ない質問ですからね。

 

人間ね、30年以上連れ添っていると気持ちも覚めるし、喧嘩もするし、すれ違うし、結婚の時はあんなに好きだったのにって思うけど、秋篠宮ご夫妻は変わらず仲がおよろしくて、それは国民の模範となってますよ。

紀子様はより秋篠宮の後ろに隠れるようになってしまい、それはちょっと悲しいなと思うけど。眞子様の事は一日足りとも忘れていない筈ですし、その気持ちを思うと何とかして差し上げたい。

けれど、いつか雪は溶けると思って欲しいです。

なかなか頑固で親の事なんかみじんも考えない平成3年生まれですけど、そんなものだと思って下さい。

本当にご結婚記念日おめでとうございます。

 

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1989年にタイムスリップ 礼宮殿下と紀子様の恋

2024-06-29 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

6月29日は秋篠宮両殿下の結婚記念日なので再掲しますね。

 

毎日毎日、愛子天皇派による「愛子様美しい。天皇にふさわしい」

「雅子さま、お綺麗」を見ていると、本当に心が折れそうになります。

皇位継承権のない人になぜ「即位」を求めるのか。

小和田恒の宿願だからでしょ?あのじーさま、やたら元気で目が光っていておかげで皇室も日本も左傾化するばかり。

浄化するものはやっぱり佳子様とか~~紀子様の可愛い映像かな。

そういえば、もうすぐ秋篠宮両殿下の結婚記念日ですね。

結婚34周年かな。

本当に変わらずお若く、仲睦まじく。

そこで一生懸命映像を探したけど、色々消されてここも雅子さん一色になってます。

それでも見つけた映像をご覧あれ。

まず、これはまだ日本のマスコミが正常だった時の映像であり、ナレーションであること。

変な思惑もなく、素直に皇室を敬い、礼宮殿下と紀子様の結婚を祝福していること。

当時、1989年の8月に突如、「礼宮さま、婚約」のニュースが飛び込んできたわけですがその時の庶民の驚きと喜びったらなかったんです。

 昭和天皇が亡くなるまでの3か月間の重苦しい雰囲気

これはみんな経験した事で、1月7日に昭和が終わり、2月に大葬の礼が行われいわゆる「喪」期間になったわけで、皇族方の活動も制限されていました。

しかし、喪というのは段階を踏んで明けていくもので、礼宮の婚約が報じられたのは、その第一段階が明けた時ですね。

 写真週刊誌に記事を書かれる

私はその頃は「へえ、そんな人いるのか。でも本当かな」くらいに思ってました。要するに礼宮殿下に彼女がいて、同じサークルに入り、学友たちが冷やかしてるみたいな記事だったので、一人や二人・・と思っていたら結婚という話が出て、びっくり。

しかも、川嶋紀子嬢は何と可愛らしく、控えめでお父さんはイケオジで。って感じ。

で、このビデオでは皇室ジャーナリストの川原敏明氏が「結婚は無理と思っていた」という風に言っています。

その理由は「身分がある」から。

つまり正田家のようなブルジョアじゃない、学習院の教授の娘だったと言う事が問題だと河原氏は言ってたんですが、小和田家との縁談の時には沈黙ですね。

川嶋家は清貧で知られていたのは事実。

教員官舎に住んでいるなんて、今まででは考えられませんので。

しかし、「学ぶ」事には贅沢で川嶋氏は妻子を連れてアメリカへ、そしてオーストリアへ留学。

紀子さんが学習院女子中等科に入った時は日本語よりドイツ語の方が得意だった「帰国子女」でした。

 沢山の学友の姿

もの番組には礼宮様と紀子さんの学友が出てきます。同じ学校ですからみんな良家の子女。

みんな言葉を選びつつも、同等に宮と会話している風がとてもいいし、紀子さんについても「上品な人」という事で好かれていたんだなとわかります。

そう、兄の浩宮と違って礼宮は交友関係が広いし、付き合いも深い。

学生時代はサークルなどを通して日本を歩いていた・・・悠仁さまが行っている「国見」をしていたわけですよね。

この中には後に紀宮のお相手となる黒田さんも入ってます。

取材する側としては非常に楽だったと思います。

 福祉に興味がある紀子さん・・・・

ここで、非常に興味深いナレーションが。「福祉に興味があった紀子さんは、施設を回って特に自閉症の教育に熱心だった」

え?そうなの?こりゃ初耳。

紀子様といえば手話というイメージですが、まさか自閉症児に関わっていたとは。

何だかここに運命的な出会いがあり、ゆえに眞子様も佳子様も自然に女一宮と接する事ができていたと言う事ですね。

 川原敏明氏「宮邸は100坪、200坪」発言

これまた、そうだったっけ?というような感じで。

つまりこの時代、皇室に関わってきた人の考え方としては

礼宮殿下は天皇の息子で内廷皇族。皇位継承権2位の男系男子。だから新居は三笠宮邸や高円宮邸よりも大きくなるのは当然。7LKくらいだろう」と言っていたわけです。

私も、新居は新しく建てるものだとばかり思っていたんです。

まさか、築40年の職員宿舎に住むなんて誰が考えたでしょう?

今、旧秩父宮家を改装し、やっと「皇嗣」としての役を果たせるようにそれなりに大きくなった邸を「贅沢」というマスコミの気が知れない。

では、なぜ高円宮邸はあんなに大きいのか、なぜ三笠宮邸は大きいのか。

週刊誌にはわざわざ職員宿舎を改造して宮邸にした理由を「兄より早く結婚し、しかも学生だから」と美智子さまがおっしゃった・・・と書かれていました。

婚約会見では「誰も反対はしなかった」と言っていた殿下ですが、本当の事を言えば皇后が「兄より早く結婚するとは何事か」と相当お怒りだったのではないかと。

息子の新居はボロでも、自分達の宮殿は全く新しく建てた事を思うと、本当に上皇后は自分達の事しか考えていなかったんだなと思います。

今もって「皇嗣」の住むべき東宮御所に居座っているんですからね。

 

でも、今考えるとあの時、結婚を強行してよかったんですよ。

その後の苦労を思うと胸が張り裂けそうですけど。いつか、きっと穏やかな日が来ると私は信じています。

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装束にみる皇族の身分

2024-05-06 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 女系派というか、愛子内親王派はいつも、あらゆるものを皇嗣家にスライドしたり、また重箱の隅をつつくような書き方をして、正統派をかく乱しようとします。

でも、無知すぎてまっとうな答えを出しても理解できず、さらにわけのわからない質問をしてきたりします。真面目に答えるのをやめたらどうかと思うのですが、そうなると、Xなどは「愛子天皇派」に席巻されてしまうので、やっぱり反論は必要です。

悠仁親王成年まで4ヶ月。儀式としては約1年近くあるのですが、恐らく秋頃には進学がお決まりになり、3月の卒業と同時に記者会見と加冠の儀があり、それから伊勢へ行ったり忙しいだろうなと。

馬車行列やって下さいね。宮内庁。

さて、「秋篠宮殿下は暫定の皇嗣なので皇太子ではない」と言う意見が高森何とか始め、多数の女系派から聞かれます。

そもそも平成の天皇退位という事自体が、政府・宮内庁にとって予想外の事で、それに対しては皇室典範違反となるので、本来、止めなくちゃいけなかったわけです。

しかし、マスコミの圧力と、天皇自身がマスコミにリークするなどして報道が先に立ち、引き返せなくなりました。

ゆえに「特例法」で対処する事になったのです。

正直、退位した天皇への尊称は「上皇」でいいとして、皇后には正式名称がありません。恐らくは「○○院」と呼ばれて終わるでしょうけど、美智子様はクリスチャンで仏門に帰依したくなかったんでしょう。

自ら「上皇后」と名乗りました。

で、徳仁親王が天皇になると、弟の秋篠宮殿下は本来「皇太弟」ですが、これまた皇室典範にない。じゃあ、特例法で「皇太弟」にすればよかったじゃないか。

でも、これは徳仁天皇が自身で語ったように「壬申の乱」を想起させるので、使いたくない。

さらに「秋篠宮」という皇室史上最も美しい宮号を残したいという気持ちもあり、正式には「秋篠宮皇嗣殿下」となりました。

「皇嗣殿下」の扱いは「皇太子と同等」と特例法ではされたのですが、それはあくまでオモテ側の事で、国際プロトコルでは「CROWN PRINCEでよい。

が、オク側では雰囲気で「皇嗣家は内廷じゃない。なぜって秋篠宮だから」になってしまったわけです。

もし、伊藤博文が生きていたら、「内廷にせよ」と大改革を行ったのですが、今の政府って、「皇室に下手に口を出すと身を亡ぼす」と思っているのか、「したいよういどうぞ」って感じ。

ゆえに、「天皇一家と上皇夫妻は内廷。でも秋篠宮家は内廷外」になりました。

内廷=天皇と財布が一緒。御料牧場の食材無料。信号操作できる。御用邸使える。

外廷=他の宮家と同じ。健康保険なし、御用邸使う権利なし

特に御用邸&御料牧場は天皇一家が独り占めです。家族3人で那須・須崎・葉山・ぼ両牧場をいつでも使えます。葉山は時々上皇夫妻が泊まります。

この贅沢感ったらありません。

それは別として。「暫定だ」という理由には「皇嗣」は何人でも置こうと思えば置けるからと言います。

しかし、現在、皇位継承権を持つ男子は二人のみ。

秋篠宮殿下と悠仁殿下です。ゆえに暫定も何もない。確定事項なのです。

もう、誰もがわかっていると思いますけど、日本の「色」には「禁色」があり、格がありますよね。

例えば「紫」は高貴な方しか使えない色とか、浅黄色は新選組のユニフォームで有名ですが安い色です。

さらにそこに文様やらなにやら複雑な事があるのですが、決定的な事は、即位の礼において、

天皇は黄櫨染の袍を着用する。

左側の天皇が着用している袍が「黄櫨染」です。

太陽を意味する色で染めが非常に難しく、応仁の乱で100年もの間途絶え、そこから掘り起こして再現したもので、この「黄櫨染」色が最も格が高い色になります。

そして、

皇太子は黄丹の袍を着用する

これが黄丹の袍です。黄櫨染と同様「絶対禁色」とされ、太陽が昇り始める様を表現し、やがて天皇になる人しか着用がゆるされません。

秋篠宮殿下は即位の礼、立皇嗣の礼共にこの黄丹の袍を着用されました。

これこそが「世継ぎの証」であり皇太子である証明なのです。

紀子様の袴は赤ですが、これは既婚者を表す色です。

秋篠宮両殿下はご結婚の時から素晴らしく装束の似合う方でした。

即位の礼における眞子様・佳子様。濃き色の袴は未婚を表します。

 

平成の立太子の礼の徳仁親王

天皇派黄櫨染の袍、徳仁親王は黄丹の袍着用。

秋篠宮殿下の結婚の儀。この時は筆頭宮家だったので黒の袍です。

 

そして皇后にもまた最も格式の高い色があり、それが「白」です。

これを着用できるのは皇后のみと言う事になりますね。

 

このように、奈良時代ごろから、皇室内の装束の規定が定まって行き、現在もそれが守られているのです。

いくら言葉で「暫定」のなんのと悪口を言っても、外国においても、国内においても秋篠宮家は皇嗣家、つまり東宮家と同等なのです。

 

さて「東宮」という言葉です。

中国史劇でもよくこの言葉が出てきます。

皇太子の事です。

元々は「東宮」「春宮」と書き、皇太子が住む場所の事を指してたようで、中国では「東宮」はあくまで住む場所、人の事は「太子」と呼んでいました。

古事記にも「厩戸皇子は上宮に住んでいたが、推古天皇によって東宮に移った」つまり皇太子になったと言う事ですね。

 

東は朝日が昇る、若々しさとか縁起のよさなどを表現しています。

皇太子という呼び方はあくまで近代の呼び名であって、元々は「東宮」です。

天皇がいて、その下に東宮がいる。それを覆そうというのは謀反です。

秋篠宮は「東宮」なのです。

たとえ内廷でなかろうとも、称号がなかろうとも、東宮なのです。

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皇統は男系男子に限るのです

2024-04-17 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

21世紀の今、当たり前のことをあらためて言わないとわからない連中がいると言う事に腹が立つし、いわゆる「嫌がらせ」でそういう事やってるんだなと思えば、罰が当たれと思ってしまう。

どういう経緯かわからないけど、最近の「愛子天皇派」の言い分は

 愛子様の方が人気があるし品があるし綺麗だから天皇になってくれたら嬉しい

 秋篠宮家はいやだけど愛子様なら天皇にふさわしいと思う

 男の子を産んだからってティアラを被れるのが不思議。男尊女卑

これらは全部悪口なんですよ。

天皇家への悪口と言うのは、実は今が初めてではありません。

1970年代から1980年代くらいまでは「天皇制廃止論」系の本ばかりが並んでいました。

全部昭和天皇の戦争責任を問うものばかりで、むしろ昭和天皇を讃える本を探す方が大変だったくらいなんですよ。

若かった私には昭和天皇の「戦争責任」がよくわからなくて、今でもよくわからないよねという感じ。

一般人はみんな昭和天皇の事を敬って「日本のおじいさま」と思っているのに、なぜ本屋へ行くと、こんなに批判と悪口ばかりの書籍が並ぶのかなと思ってました。

 

そして今は秋篠宮家バッシングです。

ネットに書き込んだり、週刊誌の記者達はどうせ皇室がなんたるかなんて知らないし、関係ないし、実際、実生活には関係ないから平気で罵詈雑言が言えるんだろうと思います。

その昔は「古事記や日本書紀は全部嘘」論がまかり通っていた時代だったので、古代の天皇を全員なかった事にして、「天照大神」なんていないじゃんと悪口を言っていたのですが、今や「愛子様こそ天照大神」とか分けわからんことを書き込むわけですね。

同じ事を何度も書くのはどうかと思うんですけどね。

 もし日本に天皇がいなかったら

確実に日本は朝鮮半島のように同じ民族が争う事になり、やがて中国に侵略されていたと思う。

天皇というのは、日本列島に住む人、そして渡来人も含めて、全ての部族の統合的存在で、その中心に伊勢神宮があり、天照大神を祀る天皇がいる。

天皇の役目は「鎮護国家」に尽きます。

日本の安泰の為に祈る。あらゆる手を尽くす。そういう存在です。

政治は主に政治家がやる。

日本にも部族同士の争いはあったのです。でもそれをやってると国が亡びると考えて平和的な方法を見出した。それが「天皇」という存在なのです。

 元号は文化遺産

役所以外で元号を使う人はもういないけど、元号はその時々の祈りがこもっているものだし、時代を象徴する言葉です。

かつて中国にも元号はあったし、ヨーロッパにもあった。でも、今や日本くらいしか使わない。だから大事。歴史も考古学も知らない、必要ではないと考える人も多いですけど、歴史を知らないと世界で恥をかくし、その国独特の文化を持つ者は尊敬されます。

明治になって「1天皇1元制」になりました。つまり元号は天皇の人生そのものなんです。だからこそ、安易に退位してはいけないんですよね。

歳をとった、ボケた、歩けなくなった・・・そんな世俗的な事はどうでもいい。天皇というのは、それでも国の安泰、国民の幸せを祈る存在であるから。

今の天皇が尊敬されないのは、そういう「元号を背負った重み」を感じていないからでしょうね。

 皇統は男系男子に限る

と、皇室典範に書いてあります。

みなさん「憲法9条」の改正にはやたら反対するのに、皇室典範の改正には「早く女性、女系天皇を認めろ」とせかす。これっておかしくないですか?

憲法9条はアメリカから与えられた思想で、日本潰しの条項です。これに縛られる日本を馬鹿にしているのもまたアメリカ。

しかし、そのアメリカも旧皇室典範から戦後の典範への変更はあまりなかった。

「皇統は男系男子に限る」という部分は変えなかったのです。

また、どこかの教授が「後桜町天皇」を例に出して、直系長子じゃないとダメ云々と書いていますが、教授の肩書がついているのにその知識量のなさに呆れます。

江戸時代の天皇の即位は常に吊り橋状態、いつ綱が切れてしまうかわからない状態での継承が行われて来ました。

後桜町天皇は嫡出の皇女ですが、非嫡出の弟宮が即位後、さっさと亡くなってしまったので仕方なく践祚。しかしそれは、次の天皇たる男系男子に繋げる為の中継である事ははっきりしています。

非嫡出だった弟君、桃園天皇はいわゆる皇后の「嫡子」とみなされたので、本来内親王宣下を受けない後桜町天皇も地位が上がっただけです。

結果的に桃園天皇→後桜町→後桃園→光格となるわけで、光格天皇は閑院宮家出身です。

後桜町天皇の実力が発揮されるのは、皇位から降りた後で「国母」と言われるようになったんですね。

 次世代天皇は秋篠宮悠仁親王です

これは決定事項であり、「好き嫌い」「向いている」とかで言われる事ではありません。

「ふさわしい」かどうかで天皇が決まるのなら今上はいません。

綺麗だ、品がある、可愛い、人気があるでは天皇は務まりません。

22歳にしてやっと一人で雅楽鑑賞が出来るようになった内親王が、母親が祭祀を全く重視していない時点で、本来なら皇籍はく奪ものです。

 

何度もいいますが、天皇のもっとも重要な役割というのは「祭祀」です。

国家の為、国民の安泰の為にひたすら祈るのです。

その大前提があっての被災地訪問であり、赤十字であり、福祉活動であり、各公務であると言う事。

 

上皇夫妻が昭和天皇のすねをかじりながら、ブルジョワ的生活を謳歌したために、小和田雅子は「皇室に入れば贅沢できる」と単純に考えたのかもしれませんけど、守るべき伝統を守らない時点で失格です。

 

男子が生まれない皇太子家に遠慮して12年も出産を控えられていた秋篠宮家。

GOサインが出た時はすでに40近く。

しかもリスクを抱えてのご出産。そして日嗣の皇子はお生まれになったのです。

 どこまでも愛嬌のあるお顔で、ちょっと細くて小っちゃくて泣き虫なこの親王をどれ程待ち望んできたでしょうか。

トンボが大好きで、ご両親からもお姉さま達からも愛されて、笑顔がとびきり可愛らしくて。

それなのにどうでしょ。

伊勢神宮や武蔵野陵を参拝する時はドキっとするほど大人びて、学者っぽくて、

神様も喜んで殿下をお迎えになっていた・・・・

大人びて、そんなに早く大人にならなくていいと思いつつも、殿下のめざましいご成長に日本にも希望があると思う私です。

 今や立派な学者さんです。

あるべき皇族の姿を体現されているのが悠仁親王殿下。

18歳のお誕生日も、それから加冠の儀も楽しみですが、式年遷宮にはきっと大切な役割を果たされると思っています。

こればかりは「練習」してどうなるものではないので。

やがて来る、悠仁天皇の御代まで生きていたいものです。

 

 

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森暢平氏のわかりにくい論文に反論する2

2024-02-27 07:06:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

森暢平氏が一番言いたかったことは「11宮家は元々臣籍降下するしかない家柄」だったから、それなら現役皇族の愛子内親王を天皇にしようという話でしょうね。

有識者会議の「養子縁組を含めた皇統に属する男系の男子の方々が皇族となることについても、比較的前向きな意見が多くあったのではないか」(2021年6月16日)

を結論ありきのでっち上げだとしています。

いわゆる「皇族ノ降下ニ関スル施行準則の前に増えすぎる皇族を何とかしようと、何度か「臣籍降下しろ」という要請が政府からあったのですが、臣籍降下する皇族がいなかったんですね。

なので。最終的に大正9年にこの制度を確立したわけですが、この法律にひっかかった皇族がいました。それは有栖川宮家です。

有栖川宮家は後継ぎがいなくて養子をとろうとした所で、この法律が出来てしまい、大正天皇に「お願い」をしたんです。

しかし、天皇はこれを聞き入れることが出来ず、泣く泣く祭祀と宮家を天皇の3男「宜仁親王」にゆずり、「高松宮家」を創設させたのです。

そしてこの法律は

 5世孫から臣籍降下

 長男以外は華族に臣籍降下

 伏見宮家だけは邦家親王を祖として5世孫から

 一旦臣籍降下したら皇籍復帰を認めず

という事になりました。

でお、これも「勅旨」「請願」があれば・・という事で絶対にってわけでもなかったようです。

例外を認めようと言う事ですね。

というのも、皇族がいつ減るか・・というのはわからないからです。

江戸時代、明治に危機的な皇位継承者不足を経験した皇室ですから、政権もそこまで「何が何でも」とは言えなかっただろうと言う事。

とはいえ、「宮家を継ぎたくない」からと自ら進んで臣籍降下した人もいるし、後継ぎが決まっていても亡くなる可能性もあったわけだし。

11宮家のうち、絶対に「断絶」だったのは梨本宮家と東伏見宮家。

 

でも内親王が嫁いで創設された宮家は別だったんだろうと私は考えます。

すなわち、明治天皇の3内親王が嫁いだ、竹田、北白川、朝香の3宮家は皇位継承順位の上に来たはず。

さらに昭和天皇のご長女が嫁いだ東久邇宮家はさらに上に来たのではないでしょうか。

皇統は男系男子で。母が皇族であればなおよろしい」という考えたですね。

 

この考え方に従えば紀宮の嫁ぎ先は旧宮家でよかった筈なんです。

しかし、上皇后が「旧皇族・旧華族」を退けてしまったので、繋がりが消えました。

結局、「民間のお妃」は「皇統」の為に自分を犠牲には出来なかったのでしょう。

ゆえに今上の結婚でも「皇統」は考えず、本人のお好きにさせたのですね。

危機を救った秋篠宮家には足を向けて眠れない筈なのに、産児制限までかけていたと言う事で。

本当に悠仁親王が生まれて下さってありがたかったです。

「旧宮家養子案」を潰したいのなら、悠仁親王が一日も早くお妃を娶り、男子が生まれるまで着実に出産を重ねて頂くしかないのです。

 

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森暢平氏のわかりにくい論文に反論する 1

2024-02-27 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

サンデー毎日に載った「旧皇族に継承順はなかった「有識者会議」の牽強付会」

なんですけど、森暢平氏の論文。

さっぱり意味がわからなくて。

要は「有識者会議が旧宮家を養子にしようとするのは間違っている」と言いたいらしいのです。

 有識者会議の言う「日本国憲法及び現行の皇室典範の下で、皇位継承資格を有していた方々であり、その子孫の方々に養子として皇族となっていただくことも考えられるのではないでしょうか

 戦後の臣籍降下時、当時の皇太子明仁→常陸宮→秩父宮→高松宮→三笠宮→寛仁親王・・・の次に継承権を持ってたのは山階宮武彦であるということ。

 かみ砕くと

 旧典範ではなく戦後の新典範において、山階武彦王が皇位継承順位7位だったんだよ・・と解釈します。

山階宮武彦王

この方ね。昭和天皇のいとこにして、海軍航空隊に所属した「空の宮様」

森暢平の言い分

 旧典範では「嫡出」「庶出」があり、嫡出が先に継承権を持つ。

 伏見宮邦家王の子供達がそれぞれ宮家を創設

 本来の継承順位は伏見宮家が先に来る

 ゆえに伏見宮博明王が7位の筈。

 かみ砕くと

 山階宮は邦家王の側室が生んだ子の子孫なので、本家本元の伏見宮博明王が先に皇位継承順位が来るはず。

 

ここまで大丈夫ですか?

次ね。

 戦後の11宮家は博明王以外は庶出だった

 新典範により、全ての宮家を「嫡庶関係ないみなし皇族」とする

 昭和22年の公示は「伏見、山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、北白川、竹田、閑院」の順になった。

 宮家にとって席次が重要なのに、皇位継承順位順ではなかった。

 ゆえに11宮家の皇位継承順位はなかった

 かみ砕くと

 最も大事な「皇位継承順」に並ばなかった11宮家には継承順位がついていなかったんだよ。

 

だからどうなんだ!って話ですけど、話はこれからです。

 大正9年「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定

 伏見宮邦家から数えて5親等離れた子孫は、皇籍を離脱することが決まっていた

 戦後の臣籍降下はそれを早めたにすぎない。

 かみ砕くと

 そもそも11宮家なんて臣籍降下するしかなかった皇族なんだよ

 

って事です。

ここが一番言いたかったみたいです。

何を今更・・・・って感じですが。

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