秋篠宮家に悠仁親王が誕生し、当面の危機は脱したが、スポーツの宮様のように
にわかに薨ぜられた実例もある。
悠仁親王が皇位につかれたら秋篠宮家には二人の女王殿下しかいないので、宮家自体が
なくなる。
まず、秋篠宮家の2姉妹は「内親王」であって女王殿下ではありません。
なんでこんな間違いをしたのか。単なる校正力の差?
「スポーツの宮様」とは高円宮の事ですね。三笠宮家の3親王が非常に体が弱かったり
一番元気だと思っていた人が最初に亡くなるという悲劇があったのは事実です。
でも、それを悠仁殿下に置き換えるとは・・・・思っていても書くなと言いたいです。
万が一、そういう事が起こったとしたらそれは皇室の運命がそこまでという事でいいのでは?
私は個人的に秋篠宮家に親王殿下が生まれた事こそ神勅だと思っていますが。
秋篠宮家は創設された時から・・・というか、殿下と紀子妃は結婚する前から
「キャリアと仕事とどちらを選ぶか」とか「子供と外国旅行」を天秤にかけたりはしませんでした。
いわゆる「普通」にご結婚され、1年後には内親王が生まれ、その3年後にはまた内親王が。
この調子で行けば結婚10年後にはもう2人は確実に産まれていたかもしれない。
無論その二人が親王か内親王か・・・というのは神様次第ですが。
つまり言いたい事は秋篠宮家には「出産を躊躇する」という要素がなかったのです。
にも関わらず佳子内親王出生以降、12年もの間、お子様が生まれなかった。
その理由は、東宮家による「産児制限」です![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ase.gif)
面と向かって「産むな」とは言わなかったでしょう。
でも、佳子内親王ご懐妊の翌日に、泣きはらした目をして出てきた雅子妃に象徴される
「何であっちの方が先に産むのか」という無言の圧力は確かにあった。
あったからこそ、悠仁殿下ご懐妊の時に「お許しが出た」と秋篠宮がおっしゃったのでしょう。
高松宮妃が「どんどん産めばよろしい」とおっしゃっても、結果的にそう出来なかった。
12年ぶりに懐妊すれば「計画的で」「仕組んで」と悪口を叩かれた事、国民は忘れません![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ase.gif)
この件については両陛下にも罪があると思っています。
「紀子ちゃんが可哀想」とおっしゃるなら、盾になって差し上げるべきだった。
この世の中に正常な夫婦が普通に産みたいと思うものを、暗に制御する資格があったでしょうか。
いわば、今の「皇統の危機」は両陛下が招いたものです。
「皇統」を繋ぐ事が個人的な感情に左右されない天皇の「義務」であるとするならば
両陛下も皇太子夫妻も、どちらもその「義務」を怠った事になります。
天皇家の長である陛下がそうであるなら、国民にはどうしようもありません![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_ase2.gif)
有識者会議など立ち上げてあれこれ「女系」などを論じるのではなく、静かに滅びればいいと
すら思います。
「女系」で繋ぐより男系を貫いて滅びる方が日本的ですから。
男系固執派の本音は旧皇族復活の条件闘争
男系派の中には消極的ながら「女性宮家」の創設を容認する派もある。
その場合、女性が迎えるお相手の配偶者は、現在の皇族をベストとするが、それが
現実に不可能な事はわかっているから。代わりの第一案として、必ず「旧皇族」の流れを
くむお方に限る事を主張し、その為現在は民間でも、かつての皇族から臣籍降下された
お方の中から女婿を選び、それ以外の民間人は排除するという
→ 明治40年の「皇室典範増補」によると「一度臣籍降下した皇族は復帰出来ない」事になっている
から不可能。
もし、これを認めると、数えきれない程の大勢のいわゆる「皇別」氏族が容易に皇位につくことが
可能となり、皇位継承の順が決め難く、同時に「君臣の別」が曖昧になるから」
第二案・・・臣籍降下した11宮家の(特に明治天皇の内親王が嫁した4宮家)を念頭にその
中から皇族に復帰して頂くことにせよ。条件付き同意。
→ 大正9年に大正天皇みずから裁可した「皇族の降下に関する施行準則」
これによると当時宮家が増えすぎたため、伏見宮家の邦家親王を「4世親王」とみなして
基準とし、その子孫を「王」になぞらえてその子を5世王相当にあて、子孫の長男系統八世相当までを
皇族とし、それ以外は皇族を離脱させる方針がしめされていた。
つまりGHQの政策がなくても11宮家は臣籍降下していた。皇族とは認められない。
一言でいうと、旧皇室典範時代の皇室と現在の皇室は、全く状況が違うという事。
江戸時代から明治にかけて、天皇家の後継ぎは明治天皇ただ一人でした。
明治になって「皇室典範」を作る時に、「女帝」を認めるか否かで議論があったという話ですよね。
賛成派もいたけど反対派もいた。
結果的には江戸時代にはなかった「男系の男子」という文言が入れられたんですよね。
政府としては天皇を「大元帥」として持ち上げる一方、最低限の力に留めておきたいと
いう気持ちがあったのでしょう。
明治天皇は皇后との間に子供がなく、しかも側室が産む子供が次々早世するという
不幸に見舞われました。
確か、柳原愛子は出産の恐怖でヒステリーを起こしたとか言われていますね。そりゃあ
そうでしょう。生まれた男子が次々数日で死んでしまうんですから。
大正天皇が生まれて、でも予断を許さず、当時の最高医学を持ってやっと生き延びさせた・・・
もし、明治天皇が今上のように単に「皇統に口を挟まず」の姿勢だったらどうなったか。
ご自分の内親王4人を皇族に嫁がせて宮家を創設。
こてはすんなり出来た事ではなかったと言われています。
幸いにして大正天皇には4人の親王が生まれ、「当時」は宮家が増えすぎたと
言われたかもしれません。でも平成の現在、その11宮家の中で続いているのは
何家でしょう
つまり宮家の増減というのは、その都度の状況で判断しなくては
ならないのです。
現在、親王がいる宮家は秋篠宮1家。
こんな時に「旧皇室典範」の補足を持ち出す必要性があるでしょうか?
いや、ありません。
女系派の田中氏に伺いたい。旧皇族が復帰すると何か都合の悪い事があるのでしょうか?
「条件闘争」云々とおっしゃるが、元々皇族だった方が皇族に戻るだけの話なのに。