皇太子妃とはいっても平成の・・・じゃなく、昭和の皇太子妃の「母」です。
女性雑誌に載ったこれらの言葉を今、思い返すと、どんな印象になるでしょうか。
(昭和34年4月10日直後)
「私達としては思ってもいなかったことで、どなたにもご相談申し上げることも
できない問題でございました。
それだけに、本気で考えねばならなくなった後は、他の子供達にもよく話して
じっくり話し合いました。ですから、ただいまは全く悔いのない気持ちでございます」
「(娘は)皇室に差し上げたものでもう正田のものではございません」
本気で考えなくてはならなくなった時に、夫ではなく、他の子供達と話し合った
というのがイマイチわからない。
もしかすると、この結婚に対し正田英三郎氏は蚊帳の外に置かれていたのかしら?と。
「皇室に差し上げた・・・」云々は名言として残っています。このセリフがあったればこそ
「さすがは正田家」と言われたんですよね。でも、一般庶民でも結婚してしまえば
娘は娘であって娘ではない。「二度と実家の敷居をまたいではいけない」と教えられた
人も多かった時代です。娘は婚家の人となるという考え方が普通でした。
リアルで見ていた方、このセリフをどう思われたでしょうか。
(昭和60年3月4日)
「それは妃殿下は本当にお幸せでいらっしゃると思います。
皇太子殿下にはお優しくして頂き、また、色々な方々からいつも
助けられておいででしょうし。
でも、私にとっては大変な歳月でした。あの時から私の人生はガラっと変わりました」
「そう、いつの日からだったでしょうか。
朝起きて窓を開けると、庭の塀の外から、もうカメラマンがカメラを構えているんです。
ええ、四六時中です。私はあの時からカメラが大嫌いになりました。
私はもともと大がつくくらいにカメラが好きでした。
子供達のスナップを撮って来たのも昔から私でしたし
8ミリだって撮影機が出たばかりのものをすぐに買って、私が撮っていたんです。
性分なんですよ。
子供達にきちっとしたものを残してやりたかったんです。
でも、それがカメラに追われる立場になると、もういやいでいやで
見るのも嫌になってしまいました。
漠然とですが、二人の息子と、二人の娘が成長して孫が生まれたら
8ミリを回すようなおばあちゃんでいたいと思っていました。
でも私はあの日からカメラを捨ててしまったんです」
カメラが好きというのは、かなり自己顕示欲が強い人なんじゃないかと。
どれだけブルジョワなんだろうと思われるセリフですが。
マスコミに追いかけられた事が原因でカメラが嫌いになって孫の写真や
8ミリも撮れなくなった・・・
家の前にはカメラを構えるマスコミの面々。
一方で電話が鳴り続け「婚約を辞退しろ」などの嫌がらせがあったと言います。
多分そのせいで疑心暗鬼になったんだろうと思われますが。
「私の描いていた老後の楽しみも、ある意味では奪われてしまいました。
たいしたことじゃないけど、私は焼き物が好きだったんです。
美智子も焼き物が好きでした。だから孫達にいつか焼き物を教えて
って言われるようなおばあちゃんになりたかったんです。
こういう事は理屈じゃないんです。
できない事とわかっていても、年をとるにつれて自分の夢だった事への
思いが強くなって。
もし美智子の事がなかったら私は今も趣味の中にカメラと焼き物が
あったと思うわ。二つばかり楽しみを奪われたということかしら。
カメラの件から思う事ですが、正田家には4人の子供がいた筈です。
皇太子に嫁いだ美智子妃に孫が3人生まれて、それが遠い存在だったとしても
他の子供達の孫だっている筈。
そっちにカメラを回せばいいし、焼き物を教えてあげればいい。
「皇室に差し上げたから正田のものではない」といいつつも、どこかで
「浩宮・礼宮・紀宮は私の孫なのに自由に会えない」と恨んでいたような気がします。
「子供は美智子妃一人」の印象を与える言葉が続き、他のご兄弟はどう思って
いたんでしょうね。
それにしても「焼き物」すらさせてもらえない程のプレッシャーって一体・・・・
「最高の縁組と最適の縁組とは違うんですよ」
「色々な事で苦しみました。ひどいこともされました。
どうして私達が・・・と、あの頃はそう思い続ける毎日でした」
「(ひどいこと)それはお話したくありません。ごめんなさい。その当時の日記だって
もう読み返したくないんです」
「(日記は)今もちゃんと残してありますよ。ええ、あのころのものもね。
そんな話をどこからか聞きになって、私の体験した事を本にしないかと
いう依頼は何回もありました。でもそれはごめんだわ。
あんな辛い思い出は絶対に人様に知って頂きたくありません。
でも、もし、私が当時のことをありのままに書きしるしたり、
また、話したりしたら・・・そこに出てくる人たちはみな、
こうおっしゃるでしょうね。
「正田のばあさんは気が狂った」とね。
それほどのことをされてきたということかしら。
日記を公表すれば、少なくとも100人以上の方にご迷惑がかかると思います。
そのうち50人近くの方は、すでにお亡くなりになりました。
でも、御健在な方は、きっとお困りになるでしょう」
よく問題になるのがこの部分。
一体、どんな事が日記に書かれているのか、困る人は誰なのかということ。
そして「皇太子妃の母」が晩年になって、なぜそんな事を唐突に言い出したのか。
彼女の日記は当時公表されれば、かなりのインパクトがあり、
ほのめかす言い方は一種の「脅し」に見えます。
香淳皇后が公の場から消えるのと同時期のこの発言は興味深いのかも。
そろそろ日記が出て来ないかと?100年後かなあ。
それにしても、雑誌の取材とはいえ、このような発言をする「皇太子妃の母」の強さと
言ったらありません。
小和田家も叶いませんね。
「勿論、一番ご迷惑がかかるのは皇太子殿下で、そして妃殿下でいらっしゃいます。
だからこれまでの事は私が静かに胸の中にしまっておけばいいことです。
美智子も、親子ですから、そういう私の気持ちは知っていると思います」
母の恨みを娘は知っていたという事。
母にとって娘の入内は「名誉で光栄で嬉しい事」ではなく、「災難で苦行で忍耐」で
あったという事。著しくプライドを傷つけられたという事です。
皇太子にも何か言いたげな感じがしますよね。
(昭和40年ごろ)
「私どもみんなそれぞれ忙しくいたしておりますでしょう。
そのせいか、昔から、夕食後は家じゅうがなんとなしに食堂から居間に移って
冬は暖炉を囲みながら夏は軽井沢で寄る遅くまで話し合う習慣が出来ておりました。
それで子供達がいろんな心配事に直面しても、親子でその都度話し合えましたから
母親としては幸せでございました」
何となくここでも「父」「夫」の存在が・・・・
冬は暖炉で夏は軽井沢。旧皇族方がこんな文章を読んだら・・・
悔しさで憤死しそう。
昭和60年3月4日
「でも、こんなおばあちゃんになっても出かけて行く用事はちっとお減らないんですよ」
「でも忙しくしている方がいいのかもしれないと思ったりもいたします。
自分の時間が有り余って感傷に浸る暇がない方が」
感傷というのは「もし娘が皇室に嫁がず、外交官か学者と結婚していたら
孫達とも自由に会えて「正田家は頭のいい人達ばかりで羨ましい」とみなに言われ
社交界の花形になっていたかもしれない。それが皇室に嫁がせたばかりに
「皇太子妃の実家とは素晴らしい」と言われても、「お家柄がないのにご立派ね」
なんて言われてかえって傷ついた?
英三郎氏のとった「控えめ」な行動も、常に「何でそこまで」と思ったんじゃないかと。
父にしてみれば、揚げ足をとられないように必死に頑張ったつもりなんでしょうが
母からすれば「うちは何も悪い事なんかしてないわ」ぐらいな思いだったのでは。
「(娘へ一定の距離を置く事にもどかしさは)
いいえ、それはございません。不自由な事が多いんでしょうって
尋ねられることもありますが、皇太子殿下には心苦しく思うばかりに
色々お気遣いを頂いてまいりました。
主人の還暦の時などには、お揃いでこちらまでおいで下さったこともございました。
勿論、世間の親子のようにはまいりませんこともあります。
でも、それ自体は窮屈とは感じません。それよりも人様から私達に
向けられる目や、声の方がよほどつらかったわ」
「私達の言葉がたらなかったのかもしれませんが、
私達の一言が随分誤解されたことはありました。それでも私達は
何を言われてもいいと思っていました。
でも振り返ればどうしてと思うぐらい辛い事はありました。
とにかくあらかじめ話し合っていたことでも約束が違いすぎました。
こんな思いで苦しむのはもう沢山です」
「今の私の一番の願いは、そっとして欲しいということかしら。
おばあちゃんは静かに死んでいけばいいんです」
「あらかじめ話し合っていたことでも約束が違い過ぎた」というのは
どういう意味なんでしょうか。こんな思いで苦しむ程の何が。
というか、誰と約束したんでしょう?
正田家が最初固辞していた縁談。しかし、一方で「固辞」とみせかけ
裏で積極的な「美智子さん」のイメージ作りをしていた事は確かです。
朝日新聞記者を呼びつけたり、写真をがんがん取らせたり、ヨーロッパに
旅行したり。
正田家の窓から手を振る正田美智子さんは婚約前だけど「妃殿下」の
ようでしたよね。どこにも嫌々な気持ちはみられませんでした。
「美智子さんを皇太子妃にすれば〇〇という夢がかなう」だったのか
「〇〇をあげよう」だったのか。
みなさんはどう想像しますか?
これは「週間女性昭和63年6月14日ー7月12日号」に掲載された連載を
さらに再構築された文章です。
大元の原文がどうなっているのか、ぜひ全部読んでみたいものだと思います。
そうすればまた違ったものが見えてくるのではないかと思います。
しかしながら、週刊誌が再掲するにあたって、どうしてこれらの部分を選んだのか
その意図は何だったのか・・・という事も興味がわきませんか?
インタビューしたのが昭和60年の3月。
私の記憶的には、この頃からおおっぴらに「香淳皇后始め旧皇族による美智子妃苛め」
の実態が語られ始めたと思います。
いわゆる「手袋事件」は誰でも知っていた話ですが、昭和天皇・香淳皇后訪米時の
見送り事件とか、入江日記に書かれているようなあれやこれや・・梨本伊都子さんの
あれやこれや・・・が堂々と、しかも何度も民放の皇室特集で語られ始めました。
そもそも美智子妃ブーム以来、民放は年に一度は皇室特集を報道してきましたけど
それが2回に増えたり、ちょこまかとやるようになってましたよね。
時の皇后の生い立ちより美智子妃に割く時間の方が圧倒的に多かった。
当時、20代だった私の印象としては、
美智子妃は皇太子からの再三の求婚から逃げ続けたけど逃げ切れず
「美智子は参ります」と言った。
美智子妃は聖心女子大をトップ成績で卒業した。
「私達は虫くいのリンゴではない」
学歴があって(トップ成績)英語が話せてピアノが弾けてハープも得意じゃないと皇太子妃になれない
でした。
皇太子と恋愛結婚したというよりは拒み切れずに結婚を決意。それは
清水の舞台から落ちる以上の衝撃。言い方が悪いけど
「金持ちで才色兼備のかぐや姫のような女性を手に入れられたんだぞ」と
皇室に恩を売ったような形ですよね。
後ろ盾は小泉信三を始めとする皇室改革派(カトリック信者)・GHQ
平成になって礼宮の婚約者・川嶋紀子さんは
学習院大学大学院修士課程
英語が得意・ピアノが弾ける・マンドリンも。
帰国子女
財力以外はほぼ完璧なお嬢様。
加えて
学習院常磐会ご推薦
勢津君のお気に入り
紀子妃の後ろ盾は常磐会とそれに連なる名家。
結婚にあたっての川嶋家は常に自然体でした。
美智子妃のように横にぴったりと母親が付き添うでもなく
父君とキャンパスを歩く映像は「父に守られる娘」そのもの。
皇室とははっきりと距離を置き、表面的には一切でない。
だけど、それが嫌だという事ではなく、「娘は娘。私達は私達」と
割り切っているような感じがします。
将来、悠仁天皇の祖母は皇室にこのような恨み言をおっしゃるでしょうか。
皇太子の婚約者・小和田雅子さんは
(一応)ハーバード大卒、外務省勤務・東大学士入学・オックスフォード大留学経験者
(一応)英語が得意
(一応)お金持ち
後ろ盾は外務省。関係。政府。
小和田家は娘の能力や意志を無視し、娘の知らない所で
さらにいうなら「ダメ」と断られても諦めずに娘を皇室に入れたような
印象があります。
マスコミを使ってあざとい程のイメージキャンペーンを張り、印象操作。
さらに皇室のお宝売却疑惑まで。こんな黒い「皇太子妃の実家」は見た事がない。
最近では後ろめたいのか、体力がないのか沈黙の行。
内心は娘達と孫の精神的病に身も引き裂かれそうな心境では。
こういうのを古代から「祟り」って言うんだけど。
あー「約束」が何だか知りたい。激しく知りたいです。