阪神大震災
平成7年1月17日に起きた阪神淡路大震災は日本にとって大災害に見舞われる日本の始まりのような出来事でした。私たち関東からみると、朝、関西で大きな地震があったと報道され、次に見たのは街が燃えているシーンでした。
真冬の寒い時期、早朝の大地震。本当に大災害でした。
宝塚は幸いにもこの震災の時も東日本大震災の時も上演中ではなかったので、誰かが直接被害にあうということはなかったかもしれませんが、それぞれ家族がどうなったかさぞや心配だったろうと思います。
星組トップに就任したての麻路さきが後年語っていましたが、こんなに大きな震災に見舞われているのに中日劇場での上演が中止にならなかったことに驚き、毎日「これをやっていいのか」と悩む日々だったといいます。
確かに、東日本大震災の時も休演しなかった宝塚に批判が起きたりしましたが、とにかく歌劇団のスタンスとしては「何があっても上演し続ける」というのは信条だったのでしょう。生徒たちはそれに従うしかないのです。
大劇場は出来たばかりで劇場そのものに傷はつかなかったけれど、スプリンクラーの故障で衣装が全部駄目になったとか、それでも細かい傷があって修復にはかなりお金がかかったといえます。
宝塚の衣装にはスパンコールやビーズがついているため、洗濯するのがとにかく大変で一ヶ月以上かかるんですよね。それにもろもろのセキュリティを考えるとやっぱりここは休演するしかなかったでしょう。
退団公演の安寿ミラは公演が出来なくなり、危ういところを歌手の細川たかしに救われ、梅田の劇場・飛天で続行。天海祐希もまた公演の変更を余儀なくされました。
それでも3月31日、星組、麻路さきトップお披露目公演「国境のない地図」は幕を開け、81期生が初舞台を踏んだのでした。
今、ビデオで見ると衣装が地味というか、ありあわせのもので何とかしました感が強いのですが、ベルリンの壁を取り扱った作品は、復活アピールにはちょうど良かったのかもしれません。
観客動員数は大幅に落ち、客席に赤が目立つようになっても宝塚は回り続けなくてはなりません。
けれど、やっぱりどこかで「赤字解消」の秘策を打ち出さねばと思っていたんでしょう。
問題になり始めた組子の数と上級生の頭打ち
震災が始まるちょっと前から宝塚ファンの間では「トップ・二番手・3番手の間がなくなってきている」というのは囁かれていました。
昔は宝塚というのはファンも組子も青春の1ページを彩るところで、ある程度の学年まで行けば見せ場を与えられて綺麗に退団し、芸能界へいくか、奥様になるか・・そんな道だったのです。
トップにならなかったからといって、その生徒の価値が過小評価されることはなかったと思います。
例えば・・・ものすごく古い話ですけど水穂葉子さんという女役がいらっしゃいまして。「ベルサイユのばら」でランバル公爵夫人を演じていた人ですが、この方の「悶絶しそう」が大評判になって、最後は「モンゼット夫人という役名になったのですが、この人など別にトップになったわけでもないけど強い印象を残してくれています。
昭和の「誰がために鐘はなる」なんてほとんどが専科ばかりで二番手は峰さお理だったくらいです。
が、段々と男役至上主義になるにつれて「入団した以上はトップを目指さないと意味が無い」と考えるようになったのでしょうか。いわゆる「路線」に乗ると誰も退団しなくなっていくのです。しかもトップと二番手の差が1学年とか2学年になると、次のトップの学年が上ということになりますよね。天海祐希のように突如上級生を飛び越えて・・というのはなかなか出来るようで出来ないのです。
実際、麻路さきと二番手稔幸の学年差は2学年ですが、実際は稔の方が年上だったりしますし。一方で「娘役は若い方がいい」とばかりに、やたら早い抜擢による弊害も起きていました。
また、「青春の1ページ」の宝塚ではなく「職業」としての宝塚、芸能界へいくステップとしての宝塚を考え、昔のように「寿退団」が少なくなると、組子が増えてきます。
宝塚は年功序列の世界ですから、どんなに実力がある若手も上級生よりも上にはいけない、そういうしきたりが若手の成長を邪魔するようになっていたのです。
歌劇団は本気で「生徒の若返り」を図ろうと思っていました。
恋愛ではない作品を書きはじめた作家たち
昭和の宝塚の2大演出家は植田紳爾と柴田侑宏でおおがかりな恋愛ストーリーを描いていました。外部の作家を起用したりしたことも多々あります。
が、平成に入ると2大巨頭はお披露目やさよならに周り、若い作家たちが台頭してきます。
その代表格が小池修一郎と正塚晴彦の2人です。
この二人の芸術性の高さはコアな宝塚ファン、作品から宝塚を分析しようという人たちには多いにうけました。「誰も死なない作品を作る」稀有な作家たちだと。
テーマが「罪と罰」だったりエコ問題だったり、生き様だったり、いわゆる「ベルばら」に象徴されるような歴史的な大恋愛ドラマはこの二人は不得手でした。
特に正塚晴彦は大劇場よりもバウ作品に定評があり、久世星佳という演じ手を得て独特の世界観を打ち出します。小池修一郎はあて書きは得意なんですけど、今ひとつストーリーが浅薄で内容があるようでないというのが一般的な見方だったと思います。
しかし、宝塚の世界から見事に濃厚な愛のシーンを抜き取った作品は斬新でもあり、たまにはこういうのもいいかな・・・と思われるものだったのです。
が!
そういう先輩の後を追う後輩たちが続出しました。木村信司・植田景子・児玉明子・斉藤吉正らです。彼らは大昔の宝塚のような徒弟制度の中で生きてきたわけではなく、大学卒業と同時に歌劇団に就職し演出助手を務めながら腕を磨いてきた人たちです。彼らには確固たる描きたいテーマや世界観があり、宝塚の生徒は二の次というか、本来、座付き作家はトップや組カラーに合わせて作品を書くものですが、その逆をやり始めたんですね。
気がつけば、男は自分の夢をおいかけ、女はそれを見守るだけの話が多数出来てしまい、平成の初めから中盤までは駄作しか生まれておりません。
きちんとしたオリジナル作品が書けない作家たちが増えてしまったのです。
エリザベートが宝塚を救った
昭和・平成を通して宝塚では沢山の海外ミュージカルが上演されています。剣幸「ミーマイ」涼風真世の「グランドホテル」など、これらはみなブロードウエイミュージカルでした。
ブロードウエイミュージカルは上演するのが大変です。東宝が版権を得る時にオフ・ブロードウエイ作品を一緒に買わされたり、宝塚風のアレンジを許さなかったり。
私が聞いたことがある話しでは平成10年の1000days劇場こけら落とし公演として上演された月組・真琴つばさの「ウエストサイドストーリー」はフィナーレがなかったのです。
でも翌年、稔幸のお披露目として上演された同作品にはフィナーレがついていました。最初は全員シャンシャンを持たずに降りてきて・・最後は持っていた?ような大階段降りでしたが、トップお披露目だから何とかここは見逃して欲しい、とあちらさんを説得した結果だったような。
でも結局、今に至るまでビデオ化はされていませんね。
「グランドホテル」も涼風版はビデオになりませんでした。
というように宝塚にはあまりそぐわないだろう作品をそのまま上演する・・・海外ミュージカル。
ところが、小池修一郎がずっと温めてきたウイーンミュージカル「エリザベート」に関しては、小池が積極的に宝塚歌劇団の特徴を理解させ、ゆえに主役がエリザベートではなくトートにすることが出来たのです。多分、ヨーロッパにおけるミュージカルはなかなかアジア圏まで広げることが出来ていなかった為、マーケットの拡大という意味で両者の利害が一致したものと思います。
小池修一郎はこれにより雪組、一路真輝のさよなら公演として平成8年に「エリザベート」を上演することにこぎつけました。
当時、全編歌ばかりのミュージカルは「レ・ミゼラブル」くらいで、宝塚では未経験。それゆえに組子達の緊張度も高く、もし一路の声が駄目に鳴ったときのために二番手以下全員が役代わりできるようにしたといいます。
宝塚独特の「エリザベート」は大ヒットし、やがてそれがウイーンでも上演され始めます。
なぜエリザベートがヒットしたか・・・・それは当時の世相と関係があると思っています。
男女雇用均等法の中、女性たちは家事も育児も仕事も頑張る綱渡りの状態で生きていました。今以上に「女性らしさ」「妻らしさ」「母親らしさ」を求められる一方で「自由」がないと思っていた人もいるのです。
嫌なものを嫌だと真っ向から拒否できるエリザベートがうらやましい、自分の殻に引きこもることで我を通していく彼女は自分のようだ、フランツ・ヨーゼフがもっと理解ある夫だったら私だってこうはなっていないのに。というまさに「ME TOO」運動です。
今思えばエリザベートの生き様は身勝手ですし、誰がどうみても皇帝陛下はいい人だとわかるのですがね。
それでも楽曲のよさで往年の大ヒット作品として今も上演され続けています。
つまり、宝塚にとってドル箱になったのです。困った時には「ベルばら」「エリザベート」ってことになったのではないでしょうか。
高いレベルを求められるジェンヌたち
「エリザベート」のヒットで、宝塚は大きく変わりました。
歌唱力にしてもダンス力にしても、衣装の着こなし、メイク、かつら全てにおいて高いレベルを求められるようになりました。
衣装では美しい色合いとレースや刺繍が綺麗な任田幾英から有村淳が台頭してきます。
有村淳の衣装は濃い色が多く、上品さが売りの任田よりさらにバージョンアップしています。
「エリザベート」が上演されるたびにその時のトップに合わせた衣装を作り続けています。
衣装がより豪華になればかつらやメイクも変わる必要があり、生徒達はより努力しなければならなくなりました。
「エリザベート」一つで宝塚は世界の宝塚になっていったのです。
しかし、トップスター制度も過渡期に入り、4組制も限界に来てましたし、新しい東京宝塚劇場の建設も視野に入って来ました。
小池修一郎による「華やかな宝塚」の具現がある一方、自己主張に終始する作家たちに翻弄される生徒たちの姿がそこにはありました。