昭和34年4月10日。その日は素晴らしく晴れ渡った日だった。
国民の誰もが「新しい時代」の始まりを感じていた。
それは「敗戦国からの脱却」に他ならない。
敗戦からの困難な道のり。国民は前だけを見て走ってきた。
夢をみながら・・・あるいは夢を見る余裕もなく。
皇太子の結婚は「この国は立ち直ったのだ」という心の証だ。
盛大に派手にそしてどこまでも厳かにお祝いしよう・・・日本という国の再生を祝う日
だから。
もう敗戦国とはいわせない。これからは日本は世界に打って出る。
文化も意識も全てにおいてアメリカに負けない国を作り上げるのだ。
だって日本のお妃になるミチコさんは、こんなに美しくてスタイルがよくて頭がよくて
優しくて完璧。
世界に誇る「プリンセス」になる事は必定。なんと誇らしいのか。
ショウダ家から出てくるミチコさんは、美しいドレスにケープを羽織っていた。
ご両親や兄弟姉妹はみな顔を伏せて今にも泣き出しそうだった。
そんな面々に「お別れ」をされるミチコさんは月のしずくのように美しかった。
胸中にどのような思いを抱いているかなど、国民にとってはどうでもいい事。
これはお祝い。楽しい事。日本にとって、国民にとって。
やがて街頭テレビ、あるいは誰かお金持ちの家に集まってみるテレビに
映し出された「皇室の婚礼」の一部始終。
衣冠束帯姿の皇太子と十二単のミチコさん。ここに伝統美があった。
実はミチコの十二単はお古だったのだけど、そんな事もどうでもよかった。
皇太子の後ろを女官に裾をひかれてしずしずと歩くミチコさんの姿の美しい事。
ああ、日本人でよかった・・・・・
やがて賢所の中に入って、再び出て来た時には
「皇太子妃ミチコ殿下」になっていた。質素だけれど、なんと厳かな式だったことか。
そして、その後の「朝見の儀」では白いドレスに身を包んだみちこ妃。
ローブ・デコルテなんて外国映画の中だけの世界。
でも、現実に目の前にこんなにローブ・デコルテが似合う女性がいるのだ。
しかも日本人女性が。頭のティアラの神々しいこと。
ああ・・・日本は大丈夫だ。こんな素晴らしい皇太子夫妻がいるのだもの。
パレードに馬車で現れたシンデレラ姫に日本中が狂喜乱舞した。
王朝絵巻そのもの。美しくて荘厳で華やかで。
そんなテレビの映像をみながら「日本はもうだめだと思った」と日記に記した
女性がいた。
ナシモトイツコだ。妹が天皇直々に説得されてしまい、もはや皇太子妃選定に
口を出すことが出来なくなった。
なぜお上はお認めになったのか。皇室の尊厳とは何なのか。それは「血筋」だ。
血筋こそ全てなのだ。
戦後、多くの王室が消えた。今後、誰もが感じるだろう。「王室とは何か」
絶対君主制の時代に戻る事はない20世紀。
権力を持たない王室は王族はどんな役割を求められていくのだろう。
今、日本の皇室は天皇の「カリスマ性」でもっている。
「現人神」であった天皇。戦争を終わらせた天皇。そして国民とともに歩んできた
天皇。
しかし、皇太子の時代は?戦後の民主主義からスタートするだろう次代の天皇は?
それゆえに何が何でも妃となる人の「血筋」は重要だったのだ。
「いずれ私達、旧皇族や華族達は忘れられてしまうだろう。けれど、欧州に王室が
消えても王族のネットワークが存在するように、私達のネットワークは消えない。
その中にあの娘は入らないわ」
イツコは日記をぱたんと閉じた。
「もういいわ。明治は遠くなり大正だって今に存在感がなくなる。時代は進んでいく」
脱力感だけが残る。空だけが青い。どこまでも。皮肉な青さだった。
その青い空を別な場所からみていたのがヒサシだった。
初めて見る皇室の結婚式だった。
アメリカやヨーロッパでもこの結婚はかなり興味深く報じられている。
貴賎結婚によるシンデレラストーリーだと、面白おかしく書く新聞もある。
シンデレラ・・・・まさにそうかもしれない。
世の中には運がいい人間もいる。そして悪い人間もいる。
華やかな皇室の結婚など庶民には関係ない。
一体何をお祭り騒ぎしているのだろうか。皇室は戦前まで日本の中では
搾取する者の象徴だった筈。だれもそれをおかしいと思わないのか?
もはや権力をなくした皇族など意味はない。
税金で暮らす無用の長物だ。
本当の「富」とは金と権力だ。そしてそれらを得るために必要なのは政治力。
政府の中枢に根を張らねばならない。
ヒサシは大騒ぎする日本の裏側で必死に自分の居場所を作ろうとしていた。
外務省のチャイナスクール、ロシアンスクール・・・そして宗教家。
ありとあらゆる「共産」の世界に身をおしこめているときだけが幸せだった。
人は平等?とんでもない。平等である筈がない。
支配者と支配される者の関係こそが「共産」なのだ。
そして自分は必ず支配する者になってみせる。
その為の第一歩。それが江頭家との繋がりだった。