その日、「紀宮」(きのみや)は久しぶりに衣装を整え、二宮と共に参内した。
「出産後の慎み」が終了したことを報告する為だ。
「せめて半年は休養を。高齢出産を甘く見てはなりませぬ」
と主治医からはきつく言われていたものの、このような行事に出席しないわけにはいかない。
「紀宮」(きのみや)は無邪気に遊んでいる中姫と若宮をいとおしそうに見つめながら支度に励む。
大姫は若宮とは歳が離れすぎていて、しかも勉強も忙しいことからなかなか弟に構っていられない。
その分、中姫がまるで「母」のように若宮の面倒をせっせと見ている。
そんな娘を見ていると、自分がちょっと歳をとったような・・微妙な気持ちになるのだが。
皇居にはすでに秋風が吹き始めていた。
もうすぐ后の宮の生誕の祝いもあり。それにも必ず出席しなくてはならない。
出産の慎みが終わったとはいえ、「紀宮」(きのみや)の体調は決して万全とは言えず、過去2度の出産と比べて、どうしても回復が遅いように思われた。
「ごきげんよう」
帝と后の宮は笑顔で二宮夫妻を迎えた。
「体調はどうか」との帝のお尋ねに、「紀宮」(きのみや)は
「おかげ様で順調でございます。これも帝の数々のご配慮のおかげと恐縮しております」と答えた。
「若宮は・・・若宮に会いたいね」
「それは申し訳ございません。本日は私達二人で我慢して下さい」
二宮は冗談めかしていい、場が少し和んだ。
「よいよい。近いうちに子供達を連れて参内せよ。大姫も異国へ行き成長しただろうし、中姫の姉宮ぶりも見たい。若宮がどんな顔をしているか忘れない様に何度も参内せよ」
帝は生まれた若宮に夢中のようだ。
「若宮は二宮のように理科系に進むだろうか。それとも「紀宮」(きのみや)にならって手話をやるかね。魚に興味を持たせるにはやはり何度もこちらへよこして貰わないとな」
「お上は槇宮を魚類学者になさるおつもりですか?」
「いやいや、私のハゼの研究に力強い助っ人になって欲しいものだと。なにせ二宮は自分の研究で忙しいしな」
生まれたばかりの赤子の話に未来を託す気持ちの現れに、「紀宮」(きのみや)はありがたいと思った。
「お上、あまり若宮ばかり贔屓するのは・・・・」
と口をはさんだのは后の宮だった。
「東宮家の事もありますし」
「何をいう。あっちが勝手に来ないのではないか。何が気に入らないのか。東宮は嫁のいいなりになりおって。先日も喪中だというのに、女一宮の運動会には嬉々として出て一番前の席で大笑いをしていたぞ。どうしてああもけじめがないのか・・・」
「お上、そこまでに。誰が聞いているやもしれません」
「誰か聞いていたら支障があるのか」
「私達が悪く言われます」
后の宮は微笑みを絶やす事無く、でもはっきりとそう言った。
「私達が東宮妃を遠ざけていると週刊誌などで騒がれては困ります。あなた達も若宮に恵まれたからと言って決して驕り高ぶることのないように」
二宮も「紀宮」(きのみや)も「はい」と言って頭を下げた。
「一体、何のおつもりなんですか」
「官犬大夫」(かんけん大夫)に食って掛かっているのは古参の侍従長だ。
「何って・・・何のことでしょうか」
「運動会の話です」
「運動会とは」
「女一宮様の幼稚園の運動会です。目下、東宮妃には御祖父様逝去における喪中の筈。その体で数々の公務もキャンセルしているのです。それなのに、女一宮様の運動会にお出ましとは本末転倒ではありませんか。女官長がいくら説得申し上げても妃殿下は耳をお貸しになりませんでした。それもこれも「官犬大夫」(かんけん大夫)、あなたの入れ知恵ではありますまいな」
「これは面妖な・・・奥のことは侍従長と女官長の領域の筈。表を仕切る私がどうして口出しなど」
「いえね。「官犬大夫」(かんけん大夫)は外の務ご出身故、皇室の古いしきたりや伝統には疎くていらっしゃるだろうと思って。同時に外の務出身の方ばかりが表に入られ、奥を軽視なさっているんではないかと」
「それは言いがかりでしょう。表も奥も東宮様が「そうしろ」とおっしゃればそう動くしかない。我々官僚というのはそういう仕事です。あなただってわかるでしょう」
「しかし、皇室には独特の伝統としきたりがあり、それをお守り頂くのは我々の仕事です」
「そんなら説得したらよろしい。私には関係のない事です。近々の女一宮さまのお芋堀りも東宮妃は一緒に参加されるそうですから」
「何と。では后の宮さまの生誕の儀もご出席ですか」
「さあ、それはお妃さまの体調次第。もっと詳しくお聞きになりたいのなら気鬱の典医がよろしゅうございましょう。私はただ、東宮大夫として東宮様をお支え申し上げているだけですから」
「官犬大夫」(かんけん大夫)大夫は踵を返して去って行った。
頭を抱える侍従長。
「侍従長さん」
声をかけたのは女官長だった。
「奥ではもう何がなにやら・・・東宮さん達は一体何をお考えなのやら。お妃さんがおかしいのはもうわかってます。でも東宮さんはなんでそれをお許しに?少しは諫めはったらよろしいのに」
「それが出来る方なら今の状況はない」
侍従長はため息をついた。
そんな側近たちの悩みをよそに東宮妃は娘の運動会で一番前の席を占拠して、大玉転がしでこちらにやって来る女一宮に大笑いをしていた。
運動会というものがこんなに楽しいものだったとは自分でも意外だった。しかも一番前の席で自分の子供をカメラにしっかり収められる特権というのは、盛って見ないとわからない喜びだ。
恨めしそうな回りの視線を横に、自分達は特別なのだと知らしめることが出来る。こんな楽しいことがあろうか。
ただ、芋堀りは予想外だった。
こういう時は子供と一緒に親同士も会話を弾ませるものだが、東宮妃と女一宮は少し離れた場所で自分達だけでせっせと集中していた。
こういう事も東宮妃はやったことがなかったので、女一宮をほったらかしにして自分が楽しんでいる始末だった。
自分が小さかった時は勉強一筋で、家族らしい楽しいことは何もなかった。回りについていく事が精一杯だった。だけど今は余裕をもって行事を楽しめる。
その日、「官犬大夫」(かんけん大夫)はマスコミ向けに
「后の宮さまのお誕生日には東宮様と女一宮さまがお祝いを申し上げに参内されます」と発表。
「東宮妃は喪中の為、出席されません」
マスコミは色々質問したがったが、それを無視して大夫は引っ込んだ。
当日の朝、おふくはぐずる女一宮をなだめるのに必死だった。
「宮様、早く準備をしないと間に合いませんよ」
おふくはなるべく優しい声で言いながら、何とか女一宮を着替えさせようとしている。
しかし、宮は素直に従うどころか「嫌」と言いながら部屋を駆け回り、止められると「いやーー!」と言ってひっくり返る。
何が気に入らないのか、女一宮は朝から機嫌が悪く朝食のミルクを床にたたきつけ、「やめろー」と言いながら皿を放り投げる。
一緒に食事をしていた東宮は驚いて「どうしたの?何が気に入らないの?」と言いながら娘を止めることが出来ず「おふく!」と呼び付けたのだった。
妃はまだベッドの中で、喧騒をよそに眠っている有様。
早く準備をして出かけないと遅刻してしまう。
東宮の遅れは他の宮家にも影響を及ぼすからだ。
女官達は大わらわでテーブルを片付けたり、汚れた東宮のズボンを拭いたり、さらに女一宮をおいかける始末。
やっとおふくが女一宮を抱いて部屋に戻り、とりあえず着替えさせようとしたらまたひっくり返って地団駄を踏むのである。
「昨日は何時にお休みになりましたか」
おふくはお付きの女官に聞く。
「お部屋に入られたんは午後9時くらいやけど、お休みになったんは午前様やないやろか」
「そんなに遅く?何でもっと早く寝せなかったんですか?」
「そやけど宮さんの宵っ張りはすごいのや。絵本読んでも聞かんし、ビデオ見せてもあかんのや。ベッドのスプリングがいたくお気にいられと見えて、ぽんぽん跳ねられて。終いには気鬱の典医に連絡してお薬を貰ったんや」
「子供に睡眠薬ですか?」
「そやけどお妃さんがそうしろいうて・・・」
眠いから機嫌が悪いのか?
ふと静かになったと思うと、女一宮は床の上で眠ってしまっていた。
ああ・・もう駄目だ。こうなってしまっては。
おふくは眠った女一宮を抱き上げてベッドに運ぶと、そのまま部屋を出て女官長のところへ行った。
「本日、宮様は体調不良の為、お出ましになれません」
「なんやって?」
女官長は思わず立ち上がった。もう時間が迫っているのに。
「おふくさん、あんた、女一宮さんのお目付けやないの。何でこういう事にならはるの?」
「前夜、宮様がお休みになれなかったようで気鬱の典医が薬をお飲ませしたようです」
「・・・呆れたわ。誰がそんなことを」
「お妃さまだそうです」
女官長は言葉を失った。そのお妃様はいまだ夢の中。
「侍従長さんと連絡をとるわ」
おふくは黙って頭を下げた。
結果的に女一宮は后の宮のお祝いには参内しなかった。
東宮は別段怒るでもなく、「仕方ない」といった風情で淡々と参内した。
しかし、奥では惨劇のあとのような部屋の片づけと、眠りこけている女一宮を何とか起こしてお風呂に入れ、昼夜逆転にならないように女官達は走り回っていた。
昼過ぎに起きて来た東宮妃は、女一宮の話を聞くなり
「今日は私、出かけるのやめるわ」と言って部屋に引っ込んでしまった。
夜には東宮夫妻、二宮夫妻、降嫁した女一宮夫妻を招いての「お祝御膳」がある筈。
出産後、まだ回復が完全でない「紀宮」(きのみや)も出席することになっていた。
しかし、「体調の波」が起きた東宮妃は終日部屋にこもりきりだった。
何とか出席を促そうと気鬱の典医にも相談したのだが、
「今はお好きにさせることが一番の治療薬です」の一言で話にならなかった。
東宮妃と女一宮は寝たいだけ眠り、夕方からは俄然活発になって食事をしたり、遊んだり、テレビをみたりと好き放題やっていた。
その日の「お祝い御膳」が微妙な空気に包まれていたことにただ一人、気づかなかったのは東宮だけだった。