最近、本当に荒らしが多くて。
それだけ、筑附と記者会見のバッティングが悪影響だったのだろうと思います。宮内庁長官の「私のミス」ですら許せない事なんでしょうね。
ところで陛下から悠仁殿下への言葉って・・・どこでそんな報道が?
聞いた事ありませんって。
人は誰でもコンプレックスを持っています。
持っていない人などいません。
要は、生きる道に置いてそれをどう克服し、昇華していくかが問題なのです。
コンプレックスとプライドのせめぎ合いとでもいうんでしょうか。
また、理想の自分になれない、本当はすごい自分を理解してくれないという思いはしばしば他者への罰として表現される事があります。
ひきこもり、家庭内暴力、他罰的な言葉や行動・・全部、他人から見ると、己をわかってないとか、自分の欠点に向き合ってないとか、あるいは前向きに生きられないとか言われますが、当の本人は最高に頑張っているつもりなわけで、なのにまわりがちやほやしてくれないと沸点に達してしまうみたいな感じでしょうかね。
今上夫妻には、生まれながらに内面に傷を負っているというか、その傷を隠したままちやほやした結果、「自己課題評価症候群」に陥ってしまい、少しでも自分以上のものが現れると叩きのめしたくなる衝動があると思います。
一種の病気というか、これも発達障害なのかなと・・・・
今上の場合
徳仁親王は、皇太子夫妻結婚1年目に生まれると言う非常に幸運な人生から始まりました。
生まれながらに「未来の天皇」になる事が確約された子です。
また美智子妃にとっては地位をゆるぎないものにする絶対的な存在。
しかし、この徳仁親王は生まれた時にちょっと酸素不足に陥ってしまったのです。
それが影響したのかどうか・・・スポック博士の育児書片手に奮闘する美智子妃が思い浮かびます。
外遊が多かった頃、「ナルちゃん憲法」なるものを作り、見る人によって育て方が違わない様に細かく指示を出しました。
今考えると「そこまで指示する?」という程細々していて、守るのが結構大変だったろうと思うのですが、長男でちょっとマイペースな徳仁親王を護る為に必要だったのでしょう。
浩宮は蝶よ花よと育てられた親王です。
皇位継承者の誕生に悪戦苦闘した近代皇室にあって、早々にその悩みを解消してくれた存在だったからです。
弟が出来てもその存在意義は変わりませんでした。
でも、恐らく皇太子夫妻は徳仁親王に一抹の不安を抱えていたのではないかと思います。
知能的な事や感情的なことで期待通りに育ってない事に非常に不満を抱えていたのではないかと思います。
弟の礼宮が「美智子妃から生まれてない」という噂が散々流布された背景には、利発で研究好きな礼宮へのマイナス印象を受け付けるという目的があったのかもしれません。
小さい頃ならともかく、礼宮が成長するにつけ感情の豊かさや物覚えのよさはすぐにわかったろうと思いますし、紀宮もまたそうであったのなら、「皇位継承権のトップ」にいる浩宮が一番「愚」になってしまう。
歴史的に見ると、こういう時の母親は「賢い弟」を溺愛するか、愚鈍な兄の為に邪魔な弟達を排除するかのどちらかです。
皇太子夫妻は後者を選んだようで、当時の週刊誌には
「浩宮は将来天皇という重い立場になるから甘くし、礼宮は将来は自由な宮家になるから厳しくそだてる」というおかしな理論を展開し、何度も皇室番組でそれは取り上げられました。
普通は「将来重い立場になるからこそ厳しく」だと本当は国民も思っていた筈なんですけど、国民的人気ナンバーワンの美智子妃の考えですから、誰も何もいいませんでした。
皇太子はどうかというと、この人も「やっと生まれた皇太子さま」としてまさしく蝶よ花よと育てられた口ですし、厳しくされた分、子供には甘くしたいとでも思ったんじゃないでしょうかね。
浩宮の空気の読めなさというのは大きくなるにつれて明らかになっていき、その度に「礼宮の実の母は・・・」という都市伝説が息を吹き返す。そして雑誌には「ご優秀な浩宮さま、やんちゃな礼宮さま」という言葉が躍ったわけです。
浩宮自体、うすうす感じていたでしょう。
弟に背丈を越され、彼女を越され、学歴まで越され・・・それでも独身の間は、マスコミが「お妃は誰に?」と騒いで持ち上げてくれたし、柏原芳恵が好きと言ってもブルック・シールズのファンだと言っても好意的に受け取られたし、イギリスに留学した時はほとんど遊んでいるエピソードしかないけど、わざわざそこに皇太子夫妻がかけつけて花を持たせ、留学の成果として「テムズとともに」を出して彼的には面白いエピソード満載のつもりだったでしょう。
しかし、もしこんな本を悠仁親王が書いたら「国民の税金でわざわざオックスフォードまで何をしに行ったのだ?」と言われるようなものです。
一方の礼宮は学習院の大学こそ政治学科でしたが、大学院に入る時に自分の研究を本格化させやがて開花させていきます。
「テムズ川の交通史」が研究対象なのか?と思われた浩宮が「交通史」から離れ、川からも離れ「水」そのものが研究対象だと言い出し、小学生並のスピーチをするのです。
昭和時代は、両親の助け、マスコミの助けもあり学友にも恵まれ「皇族」らしい生活を送っていた浩宮ですが、弟へのコンプレックスはたまる一方だったのでは?と思います。
礼宮は大学で早々に川嶋紀子嬢と出会い、恋愛してプロポーズして昭和天皇にも喜ばれ、おまけに紀子嬢は現代まれにみる可愛い、そして品のいいお嬢さんだったから。
紀子ちゃんフィーバーに恐れをなしたのは浩宮だけでなく、当時の天皇皇后、そして高円宮家でしょうか。
結婚するとすぐに眞子内親王に恵まれたし、紀子妃はライフワークとして手話があったし、秩父宮妃のお気に入りでこれまた早々に結核予防会の総裁職を務め、即位の大礼には筆頭宮家の妃として先頭を歩きました。
皇太子となった浩宮のプライドは黄丹の袍に袖を通した時くらいでは?
なぜ自分は背が低いのか?
なぜ自分は髪の毛が薄いのか?
なぜ自分は女性からあまり好かれないのか?
なぜ自分は勉強があまり得意じゃないのか?
こんなコンプレックスを持つ兄が考える事は一つ。「邪魔な弟を排除」です。
今年の誕生日会見で「壬申の乱」に言及した時は「本音かな」と思いましたよ。
天智天皇は正室との間に子供が出来ず、宮廷での信頼度も低かった。弟に意地悪して額田王をとってみせたけど、所詮、蘇我腹の正室から男子が生まれている弟にはかなわないって事です。
悠仁親王の姿にかつての礼宮を見てしまったのなら、そりゃあ憎しみも募るなあと。
秋篠宮や悠仁親王を見るにつけ、自分の凡庸さを実感する事になるわけですからね。
殊更に悠仁親王の文才にケチをつけるのは、同じ文系なのに自分は一度も賞を取った事ないし、称賛されたこともないから。
筑附入学にケチをつけるのも、自分は結果的に学習院の外には飛び出せなかったのに弟一家はあっさりと飛び越えてしまったという事です。
歴史が好きだけど論文書くほどの腕はなく、母君のように歌も詠めず、理系の事はちんぷんかんぷん。
そんな彼のコンプレックスを刺激しつつ助け船を出したのが小和田恒だったわけですね。
小和田氏のおかげで「水の総裁」を得て、「水の研究」と肩書に枕詞がつくという経験をして、もうそういう快感から逃れられないのかもしれません。
60をとうに超えた今上には今更己を振り返り「所詮、自分は結婚生活も天皇としての仕事も何もかも自分一人で解決できない愚鈍な人間だった」と認めるわけにはいかないし、そんな頭もないでしょうから。
自分なきあと娘の事ばかりを心配する秀吉状態なんでしょうね。
だったら本当は秋篠宮家を頼るべきなのに、それすら出来ない・・秀吉より愚かだなと。
皇后の場合
小和田雅子さんは3人姉妹の長女。
妹二人は双子でした。
もし、週刊誌のいうように、生まれた時から福田元総理に「将来、皇太子妃に」と言われていたのなら、それこそ「超優秀」でないといけない娘でした。
しかし、実際の雅子さんは妹達よりお勉強がちょっと出来ない子で、何かあるとすぐに逃げ出す、親に始末してもらうという人でした。
だけど外交官の娘としてのプライドだけは一人前でお手伝いさんに上から目線で怒鳴ったり、外務省時代も食堂のおばさんに「(時間外だけど)珈琲くらいだせるでしょ!」と怒鳴った経験があります。
趣味はスキーとか野球選手のおっかけくらいでいわゆるミーハーで、おおよそ芸術や教養とは無縁の生活を送っていました。
田園調布雙葉からアメリカの高校に留学して、そこからゲタをはかせてもらってラドクリフ・・のちのハーバードに入り(父が教授)そしてマスコミに大きく取り上げられた「外務試験に合格」
本当は父が外交官ならその娘は大抵合格するといわれていたけど、とにかく週刊誌を使って「超ご優秀」と持ち上げられた。
確かに学歴は立派なものかもしれないけど、社交下手でアメリカで友人を作れず、壁の花になっていたのは事実で、外務省に入って国費留学してオックスフォードに行ったのはいいけど、ただ一人修士論文を出せなかった人。
ハーバード → 東大 → オックスフォードと渡り歩いたけど彼女にとって特別な研究目的もなく、暇があれば海外旅行してスキーしてとバブル真っ盛りの普通の女性でした。
結婚する前から外務省北米二課ではお荷物状態で、その理由は完璧に社交下手。日本語がうまく操れないから相手を思いやったり、気遣ったり出来ないんですね。
婚約発表後、せっかく与えられた「通訳」の花道も、途中で投げ出して泣いて去るという事件を起こし。
でもプライドだけは超一流でセレブ生活に憧れるのも超一人前だったから、浩宮の誘いには断らずにしょっちゅう会って、「好きでもないのに何で会うの?」と聞かれれば「好奇心」と答える。
つまり雅子さんにとって一番居心地がよかったのは「皇太子のお気に入り」
「皇太子妃候補の筆頭」である自分で、本当に妃になる事ではなかったんですよね。
そういえば婚約会見の言葉も「棒読み」で、始終下を向いて原稿を丸暗記していました。それも全然何を言っているのかわからない文章。
原稿ですらそうなんですから、アドリブになると途端に頭がパニックになるんでしょう。
一語文で「好き」「嫌い」「うん」「そう」とかは言えるけど、それをうまく繋ぎ合わせて文章にしたり、敬語や謙譲語を使っていくというのが全然ダメなんです。
結婚早々、学習院の同窓会に行ってすでに壁の花状態。会話が出来ずにやがてそういうものから去っていく。
東京サミットの晩さん会でも紀子妃が海外要人に囲まれて会話を楽しむ中、一人どこかの国の夫婦に論戦しかけて撃沈し、あとは独りぼっちで歩く姿が残っていますし、トランプ大統領が来た時も天皇とトランプ夫妻の会話に入って行けずに、紀子妃に助けられるシーンがありました。
相手をたてるとか、空気を読んでわきまえることが出来ない雅子さんは次第に軋轢を生みます。
そして愛子内親王の誕生です。
本当は男子を産むはずだった・・・でもそうでなかった・・・小和田氏は幻滅している。
小さい頃から父親の助けなしには生きていけない雅子さん。
社交が苦手、優秀と言われること自体にコンプレックスを感じていたろうに、誰も本当の彼女を見ずに理想の姿ばかり追い求めている。
趣味もない、好きな研究もない、娘はごゆっくり。
なのに秋篠宮家は3人の子に恵まれ、それぞれ個性的で皇族として違和感なく生きている。
それに比べて、自分の方は「よきにはからえ」夫と、びくびくしている側近、全然理想通りに育たなかった娘。
そのうち彼女は「自分が主役の時はうまくやれる」事に気づきます。
自分がど真ん中にいて主役なら何をどう言ってもマスコミは持ち上げるし、自分がルールになるのだという事。
皇后になってからはまさに開き直ってこの手に出たでしょう。
ドレスがテーラードでおかしい?私がルールよ。馬は嫌だから車に乗る。
リモートすればどこにも行かずに済む。
元々意地悪な性格の雅子さんは、他人に嫌がらせすることですっきりするのもわかりきっている。
そういう時だけコンプレックスが和らぐ。
「順番が違う」「色被りした」「学習院以外に行きやがって。今に見てろ」状態ですよね。眞子様の事についてはまさしく「ざまあみろ」でしょう。
「うちの愛子の方が偉いのよ」とマウントとることで生きがいを感じる。
もうすぐ還暦のこの人に己を振り返り「自分は本当に他人を傷つけてきてしまった。申し訳ない」とか「本当は何も出来ない私」を認めろといっても無理ですよね。
秋篠宮家はなんだかんだ言っても天皇家からするとコンプレックスを刺激する存在ですし、眞子様を潰しただけでは飽き足らないのでしょう。
むしろ自由を手に入れた眞子様に嫉妬しているかもしれません。