何度も書きますが、みなさん、ちゃんと記事を読んでいただいているのでしょうか?
「王様・・・」の衣装については今時の若者好みという事はわかった上で私はあえて「バブル世代がみると」とつけているんですね。
一々否定するようなコメントは煩わしいのでやめて頂きたいです。
また、ボードワン国王の葬儀についてですが、エリザベス女王は最前列を歩くつもりだったのです。
ところが、「個人的な親しさ」を優先したファビオラ妃のやり方に不愉快になったという事です。
おかしいと言われても実際そうで、女王は亡くなるまでベルギーに行かなかったわけで。
考えてみると「エリザベス女王即位60周年」に行きたいからと言って、手術を早めてイギリスにいった上皇上皇后陛下もメンタルは今上と同じなんじゃないか?と思います。
それと・・・ミルクアレルギーの粉ミルクは、神木隆之介と我が家のジュニアの世代には、ボンラクト(大豆乳)とMA-1しかなかったんです。
うちのジュニアはボンラクトが合わず、MA-1を飲ませたら吐血して、結局半月くらいエレンタールという芋から出来た栄養乳を飲ませていました。
(非常にまずくて嫌がる子も多いけど、ジュニアは仕方なく飲みました)
MAー1は今でも4000円くらいするんですね。当時は売ってる薬局も1つしかなくて、切らしたら大変と何缶かまとめて買ったのですが、2週間で1缶を飲みきるのでどうしようと思って。幸い病院に勤め始めたら安くしかも定期的に購入出来たのでよかったです。
今は安くていい物が沢山あってよかったですね。
ちなみにアレルギーはミルクだけでじゃなくて、穀物アレルギーというのもあります。米がダメで粟やひえを食べさせるんだそうですね。
さて、本題。なぜ秋篠宮殿下は「皇嗣」で「皇太子」ではないのか。本人の意思?
順番を追って行きましょう。
平成の天皇が退位しようと思った理由は?
一番は健康問題だと思います。
昭和天皇は亡くなるまで「天皇」でしたが、がんを発症されてから、その病気は秘密にされ、倒れてから3ヶ月あまり、毎日体温・血圧・食事等が速報で流れ(それこそコロナの感染症患者発表みたいに)
特に「下血あり」とか「重湯を飲まれた」とかそんなプライベートな事まで発表されて国中が段々暗くなりました。
特に「結婚式の自粛」「宴会の自粛」「お笑いの自粛」等、誰がそれを求めたわけではないけどそういう風な流れになったんですね。
国民はそんな毎日に次第に慣れて行ったけど、当時皇太子だった明仁親王は「何で天皇の健康状態がここまで発表されるのか」と疑問に思った筈。
皇太子と天皇の仲は、正田美智子を妃とした時点から非常に悪化し、テレビの画面からも皇太子がそっぽむいている事に気づくほどでした。
昭和天皇はそんな皇太子に戸惑って、どう接したらいいかわからない印象。
また、不仲になった原因の一つに、大正時代、皇太子だった昭和天皇が「摂政宮」となった事により、貞明皇后が非常に傷つき、政府の陰謀とすら思った事があったと思います。
ゆえに
天皇は務めを果たす事が出来なくなったら退位すべき
摂政は国を乱す元になるから設置するべきではない
と考えたのだと思います。
平成後期、天皇は前立腺がんに心臓弁膜症と様々な病気を乗り越えていましたが、終わり頃は明らかに「認知症」の症状が出た為、そうなったら公にあれこれ言われるのが嫌だったんだろうと思います。
また、天皇であるのに皇太子に役割を譲るのはプライドが許せないとか、様々な感情が渦巻いたのではないかと推察します。
が、皇室典範に「退位」条項はありません。
なぜなら「一世一元」といって、一人の天皇が生きている限り元号を変えないというのが明治以降の最も重要な部分だったからです。
政府はスルーしようとしましたが、反日NHKがスクープを流し「退位」は日本中を駆け巡り、とうとう政府も何等かの答えをだす必要性に迫られ。
結果的に「強いお気持ち」とか国民が賛成しているというデマが大手を振るって「退位」したのです。
安倍総理や麻生さんなどは左傾化する皇室を憂えていたでしょうが、マスコミ操作に長けている皇室には勝てなかったんですね。
理を解いても無理だったわけです。
秋篠宮が「皇嗣」になったわけ
政府は恐らく、「退位」を超法規的措置のような形で認めたものの、その後は皇室典範に沿った形で行おうと思ったに違いありません。
・天皇の長子を皇太子
・天皇に皇太子がいない場合、皇太弟を置く
となっているからです。
令和の天皇には皇太子がいませんから、当然秋篠宮が皇太弟になる筈でした。
ところが、「秋篠宮殿下は宮号を残したい」とおっしゃったので、では皇位継承1位を表す「皇嗣」をくっつけ「秋篠宮皇嗣殿下」と呼ぼうという事になりました。
なぜ「秋篠宮家」を残したいと思われたか
問題はここですよね。
個人的に「秋篠宮」という宮号は大好きです。
上品でセンス抜群とご結婚当時から思っていましたから。
秋篠宮殿下としては、皇太子が普通に結婚して男子を得てくれたら、自分の所も息子を何人か儲けて「秋篠宮家」を存続させたいと思っていたでしょう。
しかし、番狂わせが。
皇太子家に男子が生まれなかったのです。
昭和天皇も明仁親王誕生までかなり時間がかかりましたが、秩父宮は皇太弟も皇嗣にもなりませんでした。
その理由は、当時の昭和天皇と香淳皇后には希望があったからです。
しかし、徳仁親王家の場合、愛子内親王が生まれてすぐ「第二子断念」と勝手に自分達で決めてしまった。
問題はそれだけではなく「愛子天皇」擁立の動きが始まりました。
皇室典範には「男系男子」が天皇になるとあるのに、「過去に女帝がいた」「男女平等ではない」といいだし、「女帝」でいいじゃないかと雑誌を使って喧伝し始めたのです。
秋篠宮は自分達がどうのこうのと言える立場ではない事を知っていましたから黙っていたのです。
しかし、皇太子妃の「適応障害」から始まっためちゃくちゃな行動は、皇室のあるべき姿を求める者にとっては非常に見ていられない状況。
本来なら天皇皇后が東宮家に対し、厳しく対処すべきだったのに「悪者」扱いされるのを嫌がり、やりたい放題にさせてしまった。
そして、小泉政権時代、あと一歩で「天皇の長子」が・・・となる寸前に悠仁親王誕生となり、皇室典範の改正を阻止したのです。
そしてこの時から小さかった秋篠宮家へのバッシングが、見るも無残な程ひどい状態になって、眞子様はPTSDになられたのです。
「自分達が耐えれば」と思っていた秋篠宮両殿下。しかし、小さい内親王の心を大きく傷つけた。
もし、今上の即位によって「皇太子」だの「皇太弟」などになったら、もっともっとバッシングされるか、暗殺されるかと思い、ぎりぎりの選択だったんじゃないかと思います。
ゆえに「私は別に天皇になろうとしているわけではない」と引いた形になりました。
安倍元総理の暗殺で、宮家はより「左翼」の怖さを感じたろうと思います。
皇太弟と皇嗣の違い。
一言で言えば「皇嗣」は男系男子であれば誰でもなれるものです。
しかし、皇太弟は「皇位を継ぐ天皇の弟」という特別な立場です。
皇太弟の立場・・・・ 内廷皇族
医療費・通信費・旅費無料
称号がつく(〇〇宮佳子殿下、〇〇宮悠仁殿下)
御用邸を使う権利がある(葉山・那須・須崎)
公務の時、警備の数が多くなる
東宮御所に住む
皇嗣の立場・・・筆頭宮家と予算は変わらず
医療費10割、通信費・旅費自腹
御用邸を使う権利なし
秋篠宮殿下の場合、即位の儀式では東宮しか着る事が出来ない黄丹の袍、皇嗣では異例の「立皇嗣の礼」を行うことで「東宮と皇嗣の中間」の立場となり、そうはいっても、東宮が持つべき権利はないわけです。
126代の天皇の中には宮家からいきなり天皇になった人もいます。
だから本来は立場に拘らなくても、天皇の後継ぎは秋篠宮と悠仁殿下だからいいんです。
海外では「CROWN PRINCE」って呼ばれるわけだし。
多分、人より脳の衰えが激しいだろう今上は「摂政」を置くしかないと思います。(モラハラやパワハラを受け続けると性格も変わるし、人となりまで変わってしまうそうです)
とはいえ・・・正直、称号がついた眞子様・佳子様・悠仁殿下を見たかったなと思います。
それに那須の御用邸を散策する宮家も。
東宮御所なんて上皇に取られるとは実は誰も思ってなかったろうにと。
ご結婚されてから、紀子様は散々上皇后に説教され、厳しくされて苦労が絶えず、おまけに週刊誌にはバッシング記事が載り、どれほど悔しかったかなと思うんです。
上皇后は紀子妃に辛くあたっても東宮妃には甘かった。
泣かされた事も多々あったと思うし。
幸せになって欲しいのに、どうしてこうもうまくいかないんだろうと自分の事のように悲しいです。
人間だもの。
ここまで意地悪されたら今上のように「馬鹿」っぽくなってもおかしくないです。無表情で何も考えず、へらへらするしかないというような。
心を病むってそういう状態になる事なんですよ。
あるいは眞子様みたいに自虐的になって、わざと自分が傷つき孤独になるように自分を仕向けるとかね。
でも紀子妃は耐えて耐えて、今は光輝く美しさをお持ちです。
それは大変素晴らしいけど、やっぱり「心からの笑顔」を見たいじゃないですか。
皇后と愛子内親王の二人が存在する限り、一生気を遣って苦労するしかないのかと思うと可哀想だし、悠仁親王のお妃になる人も可哀想です。
一日も早く平安が訪れ、世界に誇る天皇と皇后、そして若き皇太子を見たいです。