ふぶきの部屋

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録   38

2023-07-31 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

紀宮様のご結婚での、一連の「無礼」は皇室全体、はたまた旧皇族、旧華族の面々にも知れ渡り、東宮家はすっかり孤立してしまいました。

今や、東宮御所にはどなたも訪れず、ご一家がいる間はどなたも部屋からら出て来ない、家族のだんらんもない、異様な風景がそこに広がっていました。

旧皇族で皇太子様のご学友である賀陽氏は、そんな殿下を見かねて

雅子様が大事にすべき事はまずは祭祀、それから公務ではないのですか。いつまでも祭祀をなさらない。勤労奉仕団に会釈をされないというのはいかがなものでしょうか」と申し上げました。

すると、皇太子様は、今までにないほど激昂されて

私達に必要なのは時代に即した新しい公務なんだ!」と吐き捨てるようにおっしゃいました。

いつまでも時代遅れの事をやっているからダメなんだ。だから雅子だって適応障害になるんだ。自由がないし、外出もままならないし、知らない人と会わないといけないなんて、理不尽だ」

では殿下、将来の天皇陛下はずっと雅子様を放置されるのですか」

好きにさせるんです。雅子がやりたい時に何かをし、食べたい時に食べ、寝たい時にねる。そういう生活をさせたい。それの何がいけないの?

内親王にもそういう教育を施されるというのですか?」

愛子は・・・そうです。私達は叱らないで言い聞かせる教育をしている」

愛子さまの事をずっと隠しているおつもりですか」

賀陽氏の言葉に東宮様は顔を真っ赤にして「何も隠してない!」と怒鳴りつけました。

賀陽氏はため息をついて、それから二度と東宮御所に姿を現す事はなくなりました。

まるで・・・雅子様の適応障害が皇太子様に移ってしまったようです。

でも今の皇太子様にはそういう手段しか、うまくやる方法が見つかりませんでした。

 

 2005年12月16日 正月写真の撮影の為に参内

毎年、この頃になると、皇居では新年に公開される天皇ご一家の写真撮影が行われます。

この年もいつものように、東宮一家は参内し、写真撮影に臨みました。

そしていつものように愛子様には福迫出仕がついてきていたのです。

内親王はとにかく、人が沢山いる所が苦手ですし、笑いません。ご機嫌をとるのが本当に難しいのです。

いざ、写真を撮影しようと思っても、絶対に並ばないと言ったら並ばないし、挨拶もしなければ、笑いかける事もしないので、撮影の間中、福迫出仕がカメラの横で一生懸命に内親王の視線をこちらに向けようとしました。

しかし、内親王はもう4歳です。

幼稚園に入園する歳になったのです。

天皇陛下は、またも福迫出仕が来ている事に不快感をお示しになりました。

内親王はもう大きいのだし、両親がついてきているのだから写真撮影も出来る筈」とおっしゃり、出仕の入室を拒んだのです。

本来、こういう場に、女官ではない「出仕」は入る事が出来ません。

皇室にはこういった序列が今も残っているのです。

でも、内親王のご様子で何年かは我慢して来た陛下も、もうそろそろと思われたのでしょう。

さあ、敬宮さま、こちらにいらっしゃいな」と秋篠宮妃が優しく声をかけます。

一緒に坐りましょう」と二人の内親王も手を取ろうとしました。

ところが、内親王は福迫出仕の服を持ったまま動きません。

「敬宮」と皇后陛下もお呼びになるのですが、内親王は動かず、無理に引き離そうとした雅子様をぐいっと手で押しやりました。

そして「や~!」とぐずり始めたのです。

呆然とする回りを後目に雅子様は「福迫!早く!」と呼びました。

出仕は飛んできて内親王を抱き上げます。

宮様、これからお写真をとりますよ。私があっちにいますから」とそっと内親王を下ろすと自分はカメラの隣りに立ちました。

陛下は下品だなと思いつつ「もう・・・仕方ないね」とおっしゃいました。

皇嗣て無事に天皇一家の写真撮影は終わったのですが、この事から陛下の御心は晴れませんでした。

 2006年12月23日 天皇誕生日

ですから、この年の天皇陛下の記者会見は、いつになく緊張が走りました。

「今年5月皇太子の発言がありました。

私としても初めて聞く内容で大変驚き,「動き」という重い言葉を伴った発言であったため,国民への説明を求めましたが,その説明により,皇太子妃が公務と育児の両立だけではない,様々な問題を抱えていたことが明らかにされました。

私も皇后も,相談を受ければいつでも力になりたいと思いつつ,東宮職という独立した一つの職を持っている皇太子夫妻の独立性を重んじてきたことが,これらの様々な問題に,気が付くことのできない要因を作っていたのだとすれば大変残念なことでした。

質問にある私の意思表示のもう1回は,皇太子の発言が,私ども2人に向けられたものとして取り上げられた時でした。

事実に基づかない様々な言論に接するのは苦しいことでしたが,家族内のことがほとんどであり,私ども2人への批判に関しては,一切の弁明をすることは,皇室として避けるべきと判断し,その旨宮内庁に伝えました。

皇太子の発言の内容については,その後,何回か皇太子からも話を聞いたのですが,まだ私に十分に理解しきれぬところがあり,こうした段階での細かい言及は控えたいと思います。

2人の公務についても,5月の発言以来,様々に論じられてきました。

秋篠宮の「公務は受け身のもの」という発言と皇太子の「時代に即した新しい公務」とは,必ずしも対極的なものとは思いません。新たな公務も,そこに個人の希望や関心がなくては本当の意義を持ち得ないし,また,同時に,与えられた公務を真に果たしていく中から,新たに生まれてくる公務もあることを,私どもは結婚後の長い年月の間に,経験してきたからです。

皇太子が希望する新しい公務がどのようなものであるか,まだわかりませんが,それを始めるに当たっては,皇太子妃の体調も十分に考慮した上で,その継続性や従来の公務との関係もよく勘案していくよう願っています。

従来の公務を縮小する場合には,時期的な問題や要請した側への配慮を検討し,無責任でない形で行わなければなりません

「時代に即した公務」が具体的にどのようなものを指すかを示し,少なくともその方向性を指示して,周囲の協力を得ていくことが大切だと思います。2人が今持つ希望を率直に伝えてくれることによって,それが実現に向かい,2人の生活に安定と明るさがもたらされることを願っています」

とおっしゃいました。

 

そうは言っても、一般参賀では何事もないように控室でお話が弾みましたし、あの記者会見で全部おっしゃりたい事はおっしゃったと言う事で、陛下は水に流そうとされたのでした。

 

事件が起こったのは夜の事です。

夜には、秋篠宮家の2内親王と愛子内親王が両陛下に祝賀を述べに参内しました。

皇室には伝統があり、未成年の内親王は「御地赤」と呼ばれる着物を着る風習があります。この時、秋篠宮家の2内親王はこれを着用されていたのですが、愛子様は洋服でした。

両陛下がいる部屋に入った内親王方は一列に並んでそれぞれお祝いを述べます。

眞子内親王・佳子内親王はしっかりと「天皇陛下、お誕生日おめでとうございます」とおっしゃって、陛下は目を細めて「ありがとう」とおっしゃいました。

お二人の御地赤はまるで部屋に華が咲いたかのようでした。

愛子内親王はまだうまく話せないので、とりあえず雅子様と一緒にお辞儀だけして去ろうとした時です。

愛子様が目にとめたのが眞子様や佳子様の御地赤でした。

愛子様はいきなり、佳子様の着物の袖をひっぱり、自分の方によせようとしたのです。

やめて。愛子ちゃん」思わず佳子様はそういい、眞子様も「やめましょうね」とおっしゃったのですが、愛子様はさらに強くひっぱり「あーー!」と叫び出したのです。

雅子様は驚き、「福迫!」と呼びました。

福迫出仕は別室に控えていましたので、ちょっと時間がかかりました。

その間、愛子様はずっと逃げる姫宮方を追いかけ、「あー!」と叫び続けます。

秋篠宮家の内親王達は早々に退出しました。

雅子様も何とか愛子様と部屋を出ようとしたのですが、今度は座り込んで「あー」と泣き出してついにひっくり返りました。

一体何が起こったのでしょうか。

福迫出仕が入って来た時、そこには、怯えたような目をする両陛下となだめようとする秋篠宮両殿下と雅子さま、そして顔色もかえず「どうしたの」と聞いている皇太子様の姿でした。

福迫、さっさとしなさい

怒鳴られ、福迫出仕は両陛下の前という事も忘れて、愛子内親王を抱き上げようとしましたが、なかなか動いてくれず、手足をバタバタして暴れまわります。

事の経緯を聞いた福迫は「愛子様は、御地赤を気に入られたのです。ご自分も着てみたいと思われたのです」

するとすかさず雅子様は「何でそんな物着せるのと紀子様に食って掛かりました。

紀子様は「御地赤は未成年内親王の着物です。敬宮様もお持ちでは」と返しました。

そんなものないわよ

皇后陛下は「赤に惹かれたのね。赤い着物は必須と教えた筈よ」とおっしゃいました。

雅子様は皇后様も陛下も見ません。食ってかかっているのは紀子様にだけです。

何でこんな時に見せびらかすように赤い着物なんか着てくるの。来るんだったらそう言ってくれればこっちだって何とかするじゃない。何で宮家のくせにそんな勝手な事をするのよ

妃殿下、それは違うのでは?」と秋篠宮さまは言い返そうとしましたが、紀子様が止めました。

相談しなかったのね」と皇后様はおっしゃり、責められた紀子様は「そんなつもりでは」としか言えなかったのです。

皇太子様は「早く愛子を何とかしないと」と話題をそらしてくれたものの、雅子様の怒りは収まるどころかますます怒っていくようで

うちの子を馬鹿にしているんでしょう?いっとくけどうちの愛子はあんた達の娘よりも格上なんだから、うちに合わせるのが筋じゃない?違う?どうしてくれるのよ。責任とってよ!」

申し訳ございません」紀子様は頭を垂れ、秋篠宮殿下は憮然として「そちらの躾が悪いのでは」とぼそっと呟いたのです。

すると今度は皇太子様が「愛子はまだ小さいんだ。しつけも何もないだろう」と反発する。皇居の一室が修羅場のようになってしまいました。

それでも福迫出仕が何とか内親王をなだめて、抱き上げ「東宮御所に帰ります」と言いました。

この後、夕方7時からは「お祝御膳」という身内だけの食事会があるのです。

ですから東宮夫妻は残らないといけません。福迫出仕はそれを踏まえて自分達は帰ると言ったのでした。

私も東宮御所に帰ります」雅子様はきっぱりとおっしゃいました。

でも、これから夕食会だよ

皇太子様はそう言った時はすでに、部屋を出ようとしていた雅子さま。

誰が愛子を寝かしつけるの。私しかいないじゃない」

じゃあ、すぐに戻ってくるね。福迫だって女官だっているからね

ドアがばたんとしまりました。

それからまもなく、夕食会の為にやってきた黒田清子さん夫妻は何事があったのかとひどく驚き、食堂は沈黙に包まれたのでした。

 

東宮御所に帰って来た雅子様は、機嫌が直った愛子様を着替えさせ、自らお風呂に入れました。普段は女官に任せっきりの仕事を率先して行ったのです。

女官達は「妃殿下、どうぞ皇居にお戻りください。後は私達が」と申し上げるのですが妃殿下は無視していました。

とにかく紀子妃の顔なんかみたくもない。

わざと娘たちに綺麗な着物を着せて自分達の方が上だと自慢したのだ。

なんてひどい女、いつもいつもいい子ぶっているくせに、こういう時に復讐するのだ。

時計の針はとっくに7時を回っていました。

雅子様は愛子様に食事をさせつつ、自分も食べました。この時点では皇居へ行くなんて考えてもいませんでした。

しかし、皇居からは再三再四、東宮御所に電話がかかってきます。

「妃殿下はいつおみえになるのだ。皆さま、食事をせずに待っていらっしゃる」

それを聞いた女官長は慌てて雅子様の所に走りましたが、雅子様は部屋に閉じこもって出てきません。しかし、今回ばかりはそうはいきません。

女官長は思い切って内線電話を使って雅子様に電話をかけました。

妃殿下、お願いです。参内して下さい。両陛下他、みなさんお待ちになっているのです」

うるさいわね。私はもう着替えちゃったし食べちゃったし、あとは殿下に」と言って切ってしまったのです。

まさか、そのまま伝えるわけには行きません。女官の首が飛ぶかも。

時計は8時を越えています。女官長は伝言として皇太子殿下にお願いをしました。

妃殿下を気にせずに食事をしてほしいと。

ところが、伝言ゲームのようですが、皇太子殿下からは「皇后陛下が、東宮妃だけをのけ者には出来ないとお待ちになっている。大至急参内させよ」という言葉が返ってきます。

どうやら、皇后陛下は、ここで食事を始めてしまったら、後に小和田家を通じて「雅子様をのけものにした」と責められるのが嫌だったようで、ここは意地でも待つおつもりでした。

そんな事は知る由もない雅子様は、部屋でくつろいでテレビをみていました。

しかし、またも女官が内線電話を使って来たので頭にきた雅子様は受話器を外したままにしました。

すると今度はドアを叩く音がします。

妃殿下、妃殿下お願いです。お部屋から出て来て着替えて下さい。あちら様はまだお待ちなのです」

私は行かないって伝えなかったの?

お伝えしましたが、お許しになりません。両陛下、皇太子様、秋篠宮ご夫妻、黒田ご夫妻ともまだ、お食事を始めておられないのです

それを聞いて雅子様はぞっとしました。

今更行けないわよ。みっともないじゃない。断ってよ

雅子様のトーンは少し小さくなります。

女官長の伝言ゲームはまたも始まります。

すると、今度は「皇后陛下、黒田さん、紀子妃殿下が、東宮妃が気まずい思いをされないように廊下に出てお待ちです」と返ってきたのです。

真冬の皇居の廊下がどんなに寒いかは想像に難くありません。

すでに時計の針は9時を回っていました。

雅子様はもう逃げられないと観念するしかありませんでした。

着替え、化粧をし直して参内した時はすでに10時近い時。

玄関から入ると確かに女性皇族が待っていました。

大丈夫だった?愛子の方は」と皇后陛下はにこやかに尋ねました。

どうも。大丈夫です」と雅子様は答え、皇后陛下に手をとられるようにして食堂に入りました。

お詫びの言葉もありませんでした。

お姉さま」いきなり泣き崩れた紀子妃を清子さんが慰めます。

みな、身体は冷え切っていました。

でも、何事もなかったようにそこから食事会はスタートしたのです。

雅子様は叱られる事もなく、嫌味を言われる事もなく、お腹いっぱいだったけれど、お祝い御膳は別腹で入りました。

皇太子は呑気ににこにこしていましたが、秋篠宮夫妻と黒田夫妻は言葉少なに、もくもくと食べるのみです。

 

のちにこの事件は週刊誌にも載り、友納尚子によって「赤坂御用地は緑が多い為に電波が繋がらない」という言い訳が登場するのですが、要するに皇后陛下の思惑のみんな犠牲になったとも言えるでしょう。

一度も雅子様を叱る事無く、でもやっぱり雅子様は多少は気まずかったでしょうか?

いえ、それよりも紀子様の悲しみと絶望ははかりしれないものがありました。

 

 

 2006年1月1日 天皇一家

 2006年1月2日 一般参賀

年があけて、2006年。皇室は重要な節目に来ていました。

小泉内閣は正式に「愛子女帝」を容認させるべく皇室典範の改正に臨んでおり、このままいけば「天皇の長子(男女関わらず)が皇位を受く」となる筈です。

もう少しで小和田の父君の夢である「天皇の祖父」になる事が出来るのです。

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皇室ウイークリー

2023-07-30 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

ご日程

両陛下

7月21日・・・天皇陛下 → 離任大使に会う

             通常業務

7月24日・・・両陛下 → 外務省から進講を受ける

7月27日・・・皇后陛下 → フローレンス・ナイチンゲール紀章授与式

7月28日・・・天皇陛下 → 通常業務

 

皇嗣家

7月21日~22日・・・両殿下 → 北海道訪問

21日・・・「令和5年度全国高等学校総合体育大会」少林寺拳法演武を見る

      北海道道政聴取

22日・・・「令和5年度全国高等学校総合体育大会」総合開会式ご臨席および式典演技を見る

      昼食会

      高校生との交流

      厚真町土砂災害地区復旧・復興状況視察

      胆振東部地震震災状況報告・パネル視察

      復興森林再生記念植樹

7月24日・・・両殿下・佳子内親王・悠仁親王 → ブラジル日本語センター主催「第8回ふれあい日本の旅」参加生徒に会う

7月25日・・・佳子内親王 → 第57回全日本高等学校馬術競技大会」開会式臨席および競技を見る

            静岡県医療健康産業研究開発センター視察

       殿下 → 2025年日本国際博覧会名誉総裁ご就任にあたり関係者より挨拶を受ける

7月26日・・・殿下 → 山階鳥類研究所会議(オンライン)

 紀子様は25日からコロナ感染で療養されていましたが、無事に熱も下がり宮邸でご静養中。本当は8月第一週全部お休みになっていらっしゃればいいのに、治ったらすぐにお仕事っていう・・・回りが全然配慮ないなと思いました。

 雅子さん、首が急に老けましたね。

何でも、看護師に向かって「シリアはどうなってますか」と英語で聞いたそうです。

訪ねられた看護師は長年青年協力隊で看護師として働いていた方だそうですが、日本人です。それこそ「ご苦労様」とか「大変でしたね」でいいのに、わざわざ他国の状況を英語で聞くという考えられない行動に出られたようです。

 紀子様に関しては、本当に公務を休むことなく、出産後にいち早く公務復帰されて。一度だけ悠仁親王を出産された後、腱鞘炎みたいになられた時があった程度。

ゆえに無理をされたのではないかと思います。

紀子様がいないナイチンゲール紀章式は華やかさに欠けるし、華子様と信子様が後ろにいると雅子さんもかなり緊張したのではないかと思います。

それでも「やっちゃう」のが彼女で。還暦になるというのに落ち着きがないなと感じました。

 

鹿児島そうぶん

悠仁殿下、かっこいいですよ。

なで肩で、後ろから見ると昭和天皇そっくりになられました。

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録37

2023-07-28 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2005年12月9日 東宮職医師団の見解

12月9日、雅子様は42歳の誕生日を迎えました。

雅子様はこういったお祝い事の儀式や集まりがお嫌いでした。

ご自分がおもてなしされる分にはいいのですが、ホステスになると、とたんに全てが面倒になってしまうのです。

何しろ、一般常識という「礼儀」に関して、何となく遅れているなという事はかんじていたし、それについてひそひそと語る人達の事もご存知ですから。

東宮御所ではお客様が来た時に「茶たく」を廃止しました。

表向きは「茶碗と茶たくがくっついてしまうのを防ぐ為」でしたが、本当は、茶碗と茶たくを選ぶのがとても苦手で面倒だったからです。

だったら女官に任せればよろしいのに、その点は「信用出来ない」と思ってしまうのですね。

信用出来ない女官に任せなくてはいけない仕事・・・これ以上苦痛な事があるでしょうか。雅子様はそれゆえに、任せきりにも出来ず、かといってセンスを感じさせるような事も出来ずというジレンマに陥っていました。

しかし、そんな東宮職不信の中で一人だけ、雅子様の心をひきつけた人物がいました。

それは福迫出仕です。

「出仕」というのは「女官」の下の身分ですが、内親王の面倒を一手に引き受け、まるで雅子様の心が読めるかのように振舞うので、雅子様は皇居などに内親王をお連れになる時には必ず同行させていました。

 

そして12月9日の朝。その日は、第三者から見たら「遅い」けれど、雅子様にしては早起きして、皇居に参内されました。

お誕生日の挨拶をする為です。

皇后陛下は「お誕生日おめでとう。具合の方はいかが?」とお尋ねになり、雅子様は「あ、はい」とお答えになりました。

別に感慨も何もありません。よく皇后陛下は毎年文章をひねり出すものだ・・・とむしろ奇妙に見えていた雅子様ですが、とりあえず参内はうまく行きました。

その後、午後3時からは、田園雙葉や外務省時代のお友達が東宮御所に訪れました。

かれらは部屋に入ると、お互いに挨拶してお茶を飲みながら暫くお話をされました。

妃殿下、お誕生日おめでとうございます」と外務省の元同僚の一人がいいました。

ありがとう」雅子様は少し顎を上げ気味に笑って答えます。

内親王殿下も大きくなられて、いよいよ来年は幼稚園ですね

そんな話から、結婚している人は子供の話や受験の事などが話題になります。

雅子様と同い年や元同僚らの子供はみな小学校高学年から中学生で、今が大切な時期なのです。

最初はにこにこ笑ってそんなやりとりを見ていた雅子様ですが、彼らが帰る時間には、すっかり無口になり、無表情になりました。

それに気づいた人達は、何と言ってよいかわからなくなり、「では失礼します」と言って部屋を出て行きました。

雅子様は残ったテーブルの上のものをいきなりバーンと床に叩きつけました。

じゅうたんが力を吸収して茶碗が割れたりはしなかったものの、下げに来た女官は驚いて、また怯え、女官長を呼びに走ってしまいました。

どうなさったのですか

うるさい!」と雅子様は怒鳴りました。彼らに自分の弱みを知られてなるものか。そんな思いで形相は恐ろしい程に怒り狂っています。

「誰か・・・皇太子様を」と女官が言うと、「出て行ってよ!」とまた雅子様は怒鳴りました。

雅子様は悔しくて悔しくてなりませんでした。

同級生や元同僚の子供達は、幼稚園から慶応などに通っていたり、受験も名門を受けるという話ばかり。そんな望みは今の雅子様にとっては永遠に叶えられないものだと思い知らされたのです。

何でご自分には愛子様しかいないのだろう。どうして娘は今も笑わず、歩くのもおぼつかず、終始気分が代わり、扱いにくい子供だ。

今の時点で受験などありえない。こんなはずではなかったのに。

雅子様はさっさとご自分の部屋に入ると中から鍵をかけ、閉じこもってしまいました。

困ったのは東宮職です。

これから5時に妃殿下の恩師と呼ばれる大学教授や教師などが挨拶に来るのに。

気が付くともう4時半を過ぎてるではないか。

女官長や侍従長は何とか雅子様に部屋を出て頂こうと必死に説得をしました。

しかし、雅子様は無言を貫き、鍵はかかったままです。

やがて時間になり、雅子様の誕生日祝いの為に恩師らが到着しました。

どうしよう・・;・どうしたら・・・・・

もう仕方ないではないか。侍従長は玄関の車寄せまで出て

本日、雅子様はお出になりません」と言いました。

ええっ!」みんなびっくりして言葉を失いました。

失礼のないようにと服装も選びに選び、時間を作って来たというのに・・・・

「しかし、お部屋はありますのでどうぞお茶をお召し上がりください」と小さい部屋に通され、約1時間程、とりとめのない話をして帰されました。

一体何が起こっているのか、彼らの常識の範囲を超えた行動でした。

もう、二度とあんな所にいくものか

いくら病気だからって、自宅までこさせといて遭わないって何」と怒りをあらわにする人すらいました。

皇太子様は、事の重大さに驚いて、雅子様の部屋に駆けつけドアをこんこんとノックしました。けれど、答えはありません。

何があったか知っている人いないの」とお尋ねになったのですが、誰もわけを知りません。でも雅子様がお怒りになって非常に悲しい思いをされている事は確かです。

雅子。ねえ、もうすぐ両陛下がおいでになるから部屋から出て来てくれないか」

皇太子様は祈るような気持ちでおっしゃいます。

人格否定発言から、ご自分への風当たりが強い事は知っていました。

だからこそ、人前でくらいきちんと笑って欲しいと思ったのです。

でも、雅子様は「うるさい!」と叫ぶだけでした。

何があったの?何か嫌な事でもあったの?」

あんたのせいよ!全部あんたのせい!」雅子様の泣き声が聞こえてきました。

いきなりそう言われても、皇太子様はさっぱりわかりません。

あの・・・お食事の用意は整っていますが。両陛下がそろそろ御所をお出になると」

侍従の言葉に皇太子様は「悪いけど、今日はお断りして

とおっしゃいました。

え?両陛下のお出ましをお断りするのですか?それはあまりにも

仕方ない。こちらにいらして雅子が部屋から出てこなかったら大事になる。だから体調がすぐれないからとお断りして」

皇太子様はそうおっしゃるしかありませんでした。

実に両陛下が御所を出ようとしていた所、緊急の連絡が入り、お誕生日の夕食会はキャンセルされたのでした。

千代田の職員は怒り心頭になるし、東宮職は言い訳に必死で、でも本当に何があって雅子様が期限を悪くされているのか、本当にわからなかったのです。

 

この日、雅子様のいわゆる「東宮職医師団」は初めて「見解」を出しました。

その内容は以下です。

 

すでに発表しております「適応障害」という診断は、国際的に広く使用されているアメリカ精神医学会の公式の診断分類『精神疾患の診断・統計マニュアル第4版改訂版DSM―IV―TR』に基づいて行ったものです。DSM―IV―TRによれば、適応障害は、「はっきりと同定される社会心理的ストレス因子に反応して、臨床的に著しい情緒的または行動的症状が出現することである」と定義され、うつ病や不安障害などの他の精神疾患の診断基準は満たさないが、著しい苦痛を伴うものであるとされています。適応障害はストレス因子(またはその結果)がなくなれば6ヶ月程度で解決するとされてはいますが、慢性のストレス因子などが原因になっている場合には長期間続くことがありうるとされており、妃殿下の場合は後者に相当すると考えております。
 治療に関しては、環境に働きかけてストレス因子を軽減することが最も重要であり、精神療法(カウンセリング)を行いつつ、補助的に薬物療法を行い、気分転換なども活用することが望ましいとされており、妃殿下の治療もその方針にそって行ってきております。

妃殿下ご自身は、治療に対して非常に前向きで医師団の指示を守ろうと努力していただいており、ご病状は着実に回復されてきております。また、こうした治療では、ご家族など周囲の方々のサポートが非常に重要ですが、皇太子殿下が常にあたたかく、そして力強く支えて下さっていることが最も大きい要素になっているものと拝見しております。内親王殿下との間にしっかりとした心の交流がおありのことや、天皇皇后両陛下に温かく見守り支えていただいていることも、治療の大きな助けになっております。
 ご回復の兆候としては、その時々の心身の具合に応じて上手に考えや気持ちを切り替えられ、柔軟に活動に取り組まれるようにもなっておられ、ご関心のある学問領域の書籍や雑誌をお読みになる機会も少しずつ増えてきていらっしゃいます。また、様々な行事にも徐々にご出席いただけるようになっていらっしゃいます。薬物療法に関しても、妃殿下のご努力もあって、服用量を減らせてきております。
 しかし、その一方で、現時点ではまだご体調には波がおありで、心身のストレスがご体調に影響を及ぼしやすい状態も続いております。そのために、頑張って行動しようとされてもその前やその時に強い緊張を感じられたり、後でお疲れを感じられたりすることがあります。したがって、妃殿下はご公務をまだ本格的に再開できないことを心苦しく感じていらしゃいますが、医師団としては、続けてご公務をしていただけるまでにはまだ回復されていらっしゃらないと判断しております。
 今後さらに回復していっていただくためには、発症に影響した環境面のストレス因子を積極的に取り除き、ご活動の範囲を広げていっていただくことが大切になります。以下に、今後の課題に関する医学的な立場からの見解について述べさせていただきます。

3 今後の課題

 妃殿下は、皇族としてのご自身の役割や皇室の将来を真剣に考えていらっしゃいます。したがって、医師団としては、今後そうしたお気持ちを大切にしていただきながら、より望ましい形でご公務に復帰していっていただくことが重要であると考えております。なお、ご公務の内容に関しては、皇太子殿下が先の御誕生日にお示しいただいた方向で、東宮職で具体的に検討していただくのが望ましいと考えております。
 とくに現在は、妃殿下はご回復の過程にあり、妃殿下のご体調をうかがいながらその時々で可能なものをお願いしながら、焦ることなく徐々に復帰していっていただきたいと考えております。
 ご公務と並行して、ご成婚前の知識や経験が生かされるような形でのライフワーク的なお仕事やご研究をされ、それをご公務に生かしていっていただくことが、今後大変重要になると考えております。また、妃殿下が、ご自身の体験や知識を生かしてお力を発揮できるご活動を今後積極的に行われることは、ご回復にとってはもちろんのこと、改善された後にも心の健康を維持されるために重要です。
 育児とご公務の両立も今後の重要な課題です。妃殿下におかれては、ご流産に続くご妊娠、ご出産と初めての育児に関連した心身のお疲れが残られているご出産後間もなくから地方のご公務が始まり、その後も地方行啓を含めた多くのご公務が続かれ、それがご病気の引き金になったものと考えられます。とくにご公務のためとはいえ、深い愛情を感じていらっしゃる内親王殿下とすごされる時間を思うようにとれないことに、妃殿下はとても心を痛められたものと考えております。
 妃殿下は、ご公務の前にはご予定の調整やお出かけのご準備など、ご自身でされなくてはならないことが多くおありです。その一方で、ご家庭内のお仕事のほかに、東宮職から相談を受けながら東宮内部の様々な懸案事項の処理などのご決定をされなくてはならず、対外的なご公務以外にも非常に多くのことをされなくてはなりません。
 したがって、今後のご公務に関しては、妃殿下が育児などご家庭で果たされる役割や、妃殿下のライフワークになるようなご活動、ご研究とバランスをとりながら選んでいただけるように、東宮職で慎重に検討していただきたいと考えております。
 こうしたご公務やご研究に加えて、日常生活の中で興味を持って楽しまれることを積極的に行っていただくことも大切です。これまで妃殿下は、ご公務などのお仕事を大切にしたいというお気持ちが強く、私的なお楽しみを控えられる傾向がおありであったために、意識されないうちに心理的な閉塞感を強く感じられるようになられたのではないかと考えられます。しかも、妃殿下はお立場上自由な外出がかなわないために、必然的に情報遮断や感覚遮断の状態になられ、それ自体がストレスになるだけでなく、ストレスに対する抵抗力を弱められることにもなりました。
 そうした状況を改善するために、医師団は、私的外出や運動を可能な範囲で行っていただくようにご提案してきました。妃殿下は最初、ご公務がおできになっていない状態で私的な楽しみをもたれることに躊躇される面がおありでしたが、こうしたご活動を通して心によい刺激を与えていただくことが治療的に重要であるとの医師団の説明をご理解いただき、ご協力いただいております。こうしたことはご病状の改善に役立つだけでなく、心身の健康を維持していただくためにも重要であると考えております。
 医師団は、この一年あまり治療に携わらせていただきましたが、妃殿下がこれまでに直面されてきたストレスは、医師団の想像以上に強いものであったということをあらためて実感しております。今後は、上に挙げた課題の改善に加えて、日常の生活でのプライバシーの確保やご負担の少ない取材設定の工夫など、ストレス要因の軽減についても改善を進めていただくことが、妃殿下が心の健康をさらに取り戻していかれる上で不可欠であると考えます。治療の成果が上がるまでにはなお時間が必要ですので、東宮職をはじめとして妃殿下の周囲の方々の協力がとても重要です。
 幸いなことに、多くの人たちが妃殿下のために、そして皇太子殿下や内親王殿下のために、力をあわせてお手伝いをしていこうという気持ちを強くお持ちです。医師団としては、そうした方々のお力を借りながらさらに治療を続けていく所存です。特に、妃殿下におかれては、ご公務に伴う心身のご負担は、私的なご活動の場合に比べて格段に強く、次第に私的なご活動がおできになってこられることがそのままご公務につながるものではありません。妃殿下は元来精神的健康度が非常に高くていらっしゃり、順調なご回復の過程におありでもあり、これまでのような前向きのご努力によって、たとえ時間がかかっても回復していかれるものと医師団は考えております。現在はまだご回復の過程でいらしゃることを十分にご理解いただき、静かに見守っていただければありがたいと考えております。

「妃」と呼ばれる方々が当たり前にされている事が、雅子様の「負担」と言われてしまっては仕方ないのですが、人々はこの文章のあまりにもご都合主義な所に疑問符を唱えました。

それもその筈です。この文書は、雅子様が逐一口述筆記をさせたものだったのです。

雅子様の感情や行動の全てに「了解」を求める文書。

雅子様の父君はこのようにして、国民をマインドコントロールに導いたのでした。

 

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録  36

2023-07-27 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2005年11月15日 紀宮ご結婚

 

紀宮の結婚は、久しぶりの皇室の行事でした。

それこそ皇后さまは力を入れて準備しようとされたのです。

が、紀宮様の希望で式も披露宴も非常に質素に行われました。

紀宮さまが着用されたドレスはシンプルだけど上質な絹で作られ、そのあまりにもシンプルないでたちに、「もう少し着飾ってもいいのに」という声も聞こえていた程です。

皇族方はみな、色が被らないようにドレスを選んで着用したのですが、雅子さまはなんと、アイボリーのドレスをお召しになったのです。

お蔭で純白の紀宮様のドレスよりも華やかに見えてしまいました。

女性週刊誌は必死に「シャンパンゴールド」と呼びましたが、どう見ても「白」は「白」でした。

この頃、雅子様は「白」を選ぶ事が多かったのは事実です。

精神的に追い詰められると服装や髪型などに気を遣うゆとりもなくなり、女官の助言も聞き入れませんでした。

雅子様はご自分に似合うドレスを選ばれただけなのですが、それが一部で批判を招きました。

さらに大変だったのは披露宴の時です。

事前に皇后陛下からは「成年皇族は全員着物」という事で指示が出ていました。

紀宮様は、お母様を思って、お母様が大事にされていた着物を選んでお召しになったからです。

秋篠宮家以下、全ての宮家の妃殿下が着物。勿論、親族方も着物をお召し。

ところが、そこに現れた雅子様を見て、みなぎょっとしてしまいました。

なんと、ワインレッドのドレスにバックストラップの靴を履いてお出になったのです。

勿論、女官達は「今回はお着物でないと」と散々申し上げたのですが、雅子様は窮屈な着物が大嫌いでした。

それに、いくら何でも出席者がみな着物という事はあるまいと考えたのですね。

所が、本当に全員がお着物だったのです。

そうでなかったのは秋篠宮家の内親王お二人だけでした。

急にばつが悪くなった雅子様は口をつぐんでおしまいになりました。

席は天皇陛下の隣りで、いくどか声をかけられましたが、心の中が恥ずかしさと屈辱感と怒りで一杯だったので、最後までいる事は出来ず、途中で中座してしまいました。

控室に入ると、雅子様は女官がお茶を持ってくるのも払いのけて

あなたたちのせいよ!」と怒鳴り始めました。

何で私に恥をかかせるの。みんな着物だったじゃない」

あの・・着物である事は事前にお伝えしましたが、妃殿下が」

私が悪いっていうの?私が勝手にドレスを選んだったって?」

それは・・・」

全部あなた達のせいよ。覚悟しなさい

雅子様は吐き捨てるように言いました。

周りが何と言っても「着物は嫌」とおっしゃったのは雅子様なのです。

しかし、それを否定されると途端に不機嫌になり、癇癪を起こす。

女官達は皇太子様が来てくれないかとドアの方を見ていましたが、その頃、皇太子様はほどよく酔っていらして、妻の様子を気にもかけていませんでした。

なによ。ひどいわ。私だけを仲間外れにして」

雅子様の瞳に大粒の涙が。

いつだってそうだ。何も教えてくれない。

意地悪されているんだ、自分が病気って言われるから。病気でもなんでもないのに。

馬鹿にされているに違いない。

産んだ子が娘だったから?

雅子様の妄想はどんどん広がっていきます。

今回とは関係のない所まで遡っては悲しくなり、泣いては周りのものを投げたり、机を叩いたりします。

帝国ホテルの部屋の中ですから、女官達は備品に何かあったら大変と、壊れやすいものは全て片付けてしまいました。

 

結局、その日の夜、皇居で行われた紀宮様のご結婚をお祝いする内内の夕食会には欠席されました。

雅子様は心の底から両陛下を憎いと思いました。

なんて意地悪で、なんて心のない、どうして私は皇室に入ってしまったのだろう。

自分の両親だったら私に合わせて洋服を着るに違いない。

なぜ着物なのか、着物を着ないといけないってなんだ。

みんな、じろじろと見ていた。あの冷たい視線を思い出すとぞっとする。

夫はなぜああも、ぼんやりと笑っていられるのか。

妻がバカにされているのに怒りもしない。

雅子様はいつまでもいつまでもそれを考えては悔しくて鬱々とします。

 

20日はご夫妻でベルリンフィルのコンサートへ行く公務がありましたが、雅子様は出ないとも言わず、出るとも言わず、ずっと皇太子様を待たせた挙句、コンサート会場へのお出まし10分前にドタキャンしました。

これで少しはすっきりしました。

とはいえ、ベルリンフィルのコンサートは単なる鑑賞公務ではなく、「日本におけるドイツ年」の行事の一つだったのです。

勿論、ドイツ関係者は「どうなっているんだ!」と怒りましたが、東宮職としては雅子様の体調が思わしくないのだの一点張りで逃げました。

 

 2005年11月27日 紀宮結婚後の茶会

あまりにも雅子様のお怒りが強かったからでしょうか。

27日に皇居で開かれた黒田清子さんの結婚を祝う茶会では、両陛下の入場の時に、皇太子様も雅子様も頭を下げませんでした。

誰がなんと言おうと頭なんか下げてやるかという気持ちで一杯だったのです。

こんな風に、強い被害者意識、これこそが雅子様のご病気なのでありました。

 

しかし、見た目には雅子様はひどく元気そうで、むしろはつらつとして見えます。

東宮職にしても、皇太子様の側近にしても、「なぜ公務をお休みになるのか」全くわかりません。

また、旧皇族の御親戚などは「祭祀をやらないのはなぜか」と追及する方もいらっしゃいます。

そういう風に言われても皇太子様は「雅子が嫌がるので」と受け流してしまいます。

私は雅子がその気になるまで宮中祭祀はしなくていいと思います」と堂々と言ってしまう。

宮中三殿に奉仕する神職の方々は、自分達がないがしろにされているんだと思い、恨むより悲しくなるのでした。

天皇家と言えば祭祀の長です。

神道の鑑とならなくてはいけません。

それなのに、将来の皇后たる雅子様は「宮中祭祀に納得していない」というのですから本来は大問題なのです。

けれど、いわゆる両陛下の「開かれた皇室」路線は、祭祀よりも「お出まし」の方に向いており、雅子様の事も華麗に無視されていました。

 2005年12月1日 愛子内親王4歳

12月1日。愛子様は無事に4歳の誕生日を迎えました。

何とか歩くのは大丈夫になったけど、やっぱりまだ躓きます。

両手のこわばりが強く、何かを持たせてないとダメだと思われました。

「作曲も出来る」ご優秀な愛子内親王は、結局、学習院幼稚園に入る事になりました。もうそこしか受け入れてもらえなかったのです。

小泉内閣は年明けにも「愛子天皇」誕生に向けて本格的な議論を開始するとみられ、小和田家のご両親も期待をしておられます。

そういう期待を目にすれば雅子様もそうなのかもと思い、娘が天皇になれば自分も安泰なのだと思うようになりました。

 

けれど、皇太子様がおっしゃった「人格否定」発言の答えはまだ出ていません。

天皇陛下は皇太子様に不信感をあらわにしていらっしゃいます。

ここはどうでも「誰が人格否定したのか。誰に言われたのか」ときちんとしなくては。

そして、「新しい公務」とは何なのかを発表して頂かなくては・・・・

あまりにもしつこく、東宮職が聞いて来るので雅子様は電話で

そんな風に言うなら皇太子妃辞めます」と言ってがちゃりと受話器を置いてしまいました。

言ってやったわ。これで暫く静かになるわね」と雅子様はにっこり笑って皇太子様に言いました。

皇太子様は、その物言いに恐れをなして、「そう」と言うなりご自分の部屋にこもられてしまったのです。

「皇太子妃辞めます」の言葉は、受話器の先の東宮職には重く受け止められ、どういう意味なのか皇太子様や雅子様に聞くべきだという意見が多数でした。

けれど、東宮大夫は「何を聞いても無駄。あれはぬかに釘だよ」と自虐的に笑います。

もうこんな職場やってられない」と辞表を出す女官も多くなっていきました。

毎回、雅子様に怒鳴られびくびくする毎日に耐えられなくなった女官が多かったのです。

いくら病気だからと言って、暴言が過ぎるのではないか・・・

けれど、これが「地位の権威」なのだと、諦めるしかないのでした。

 

 

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祝!ご成婚30周年 雅子さま語録  35

2023-07-26 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2005年 8月10日 那須静養

雅子さまにとって一番好きな静養地は那須でした。

この年の夏、那須へつくといつも通りの日常がまっていました。

すなわち、夕方5時以降に那須ステンドグラス館へ行って・・・閉館時間などは気にしません。むしろ、閉館以降の方が自由に見る事が出来ます。

庶民には出来ないパイプオルガンを愛子様と奏で、音楽というよりいたずらですけど、それでも二人にとっては「音楽」には違いなかったのです。

さらに「初めてのお買い物」をさせるべく、愛子様に籠をもたせると、愛子様はところかまわず、あれもこれもとぽんぽん籠に入れていくので、その様子が面白くて、雅子様は大笑いされました。

3日後には高級なホテルへ行って、ディナーをコースで食べたり、翌日には、昼間、コート3面を押さえて、テニスに興じます。

一般人はコートの使用が制限されますが、そんな事はどうでもいい事。

そおn後は、りんどう湖ファミリー牧場へ行って、打ち上げ花火を見る。

翌日にも同じところへ行って、メリーゴーランド、スイス鉄道、ちびっこ乗馬、ペダルボートに乗った時は、皇太子様があせだくでこがれるという事もありました。

御用邸はまるで東宮一家しかいないように、人払いされ、到着しても挨拶一つなし。

そういう気軽さが大変雅子様にとって大事な事でした。

しかし、後に、ここでの「テニス」が大波紋を呼びました。

なんとテニスをしたのが8月15日だったのです。

両陛下は「日本人が忘れてはならない日」として、6月23日、8月6日、8月9日、8月15日と定めて、その日はお慎みになるのが慣例。

しかし、雅子様はその日に頓着する事無くテニスに興じられたのです。

勿論、側近はお止めしたりはしません。

どんな罵声や暴力が返ってくるかもわかりません。一応、職員もサラリーマンといえる立場なので、ご主人様の機嫌をそこねて首になるのはいやですから。

 2005年 8月22日 帰京

 2005年8月29日 奥志賀静養

こんなにも静養のハシゴばかりをしていれば、当然批判が来ます。「雅子様の一体なにがどう具合悪いのか」「テレビで見る限りお元気そう」などと言った声が聞こえてきます。

友納尚子は「元気な振りをしているだけ」「今の雅子様には好きな時に好きな事して自己達成感を得る事が最も重要」などと書き立てますが、一般社会にこんな人がいたら回りが迷惑というのはわかりますので、「雅子様は大好きでお可哀想」派と、「皇太子妃の役割をきちんとすべきではないかという意見に分かれていました。

 

その間にも、有識者会議では「天皇の長子が皇位を受ける」という事について議論され、賛成が多数を占めていました。

そこには、皇后陛下の「心の友」とも言われる緒方貞子も含まれていました。

つまり緒方貞子は「皇后陛下」の代弁者としてそこに入っていたのです。

ゆえに、「女帝賛成派」の中に彼女がいると言う事は、つまり皇后さまもそうであるという意思表示です。

 

かつて、皇后様は「皇位に関する事は継承者が考えること」とおっしゃっていたのですが、近頃はすっかり愛子様を女帝にしなければならないと思い込んでいらっしゃいました。

それが息子の平安な日々を取り戻る大きなきっかけになるなら是が非でも。

皇室は男系男子のみが継承するという皇室典範など、皇后陛下にかかってしまえば、法律の「ほ」の字にもならない。

国民の圧倒的な支持を受けている皇后さまの思いは絶対です。

雅子様にとって、そんな皇后陛下の考えは渡りに船です。

遊んでいる時は、愛子様も楽しそうに見えるし、娘を出しにして自分が楽しむ事が出来る。

忘れたい。娘の障碍も、将来も何もかも忘れてしまいたい。

雅子様は取りつかれたように静養出ては、あっちこっちと食べに行ったり、買い物をしたりを繰り返しました。

 

 2005年10月5日 桃華学堂で紀宮結婚記念宮内庁楽部の演奏会

 2005年10月9日 葉山静養

いよいよ、紀宮様の結婚式が迫って来ました。

紀宮様の降嫁、これこそが、有識者会議の狙いどころでまさしく「女帝」が誕生する大きなカギになっていたのです。

 

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秋篠宮家 ブラジルの日本語学校生と交流

2023-07-25 07:00:00 | 皇室報道

 すみません。ハンドルネームなしの方ダメですよ。

忘れているのか、わざとなのかわかりませんが、堂々と名乗って欲しいです。

うちのブログは怪しくないですから。

それとですね。あと一つだけ。

昭和天皇の崩御にいたる3ヶ月間というのは、確かに「自粛」の波があって、結婚式の規模を小さくしたり、お笑いを減らしたりというような事がありましたよね。

さらに、毎日朝のテロップで体温やら下血量やらが発表されていて、国民としては面白くない人達もいたと思います。

しかし、これは皇室が要求したわけじゃなくて、マスコミ主導とはいえ、国民の自然な気持ちだったのだと思います。

昭和天皇がいかに日本という国の中で精神的な支柱であったかわかります。

偉大なる天皇陛下・・ということがわかったのは、私はやっぱり大葬の儀でした。

初めてテレビで見る「斂葬の儀」に・・本当に寒かった、雪が舞い散る中での葬儀は日本的で神がかったものがありました。

天皇は、前天皇が崩御と同時に践祚する。これが皇室典範に書かれていることで、どこの国の王室も皇室も同じです。

イギリスのチャールズ国王もエリザベス女王の死を受けた瞬間に国王になりました。

それこそが「王」たるものの務めであり、「大変」とか「疲れる」とか言ってはいけないし、まして「夏バテのようなもの」で皇太子妃が葬儀をドタキャンするっていうのもあり得ないことでした。

皇室典範は皇室における憲法です。違反してはならないのです。

ゆえに理由をつけて自分の我を通し、譲位したのにぞろぞろ連れて「私的鑑賞」に赴くなど許されないと思うんです。

上皇后は今年、軽井沢と草津のハシゴをする可能性が出て来ました。

何で?それこそ「贅沢」じゃないんでしょうかね~~~

佳子様の別居で秋篠宮家を叩くなら、そっちを叩けと私は思います。

さて、24日。

秋篠宮ご一家はブラジルの日本語学校に通う学生達と交流されました。

悠仁殿下は5歳の頃からここのご公務に携わっておられます。

夏休みになって早くもご公務が2つ。

まだ高校生なのにお偉いですよね。

ブラジルと日本は繋がりが深く、皇族方は何度もブラジルに足を運んでいます。

日系ブラジル人を励ます為ですね。

佳子様のイヤリング、おしゃれ~~~若さが際立ちますよね。

黒なのに涼し気なスカート。

 

映像では歌や踊りを見ているシーンもありますが、何気に一番リズム取れているのが悠仁殿下です。

そうそう、16歳の男子ってこんな感じでした~~~わかるかな~~愛想笑いが出来なくて、真面目な顔しているだけなのに「怒ってるの?」って家族に言われちゃう。

うちのジュニアも二若君もそうです。

それが、大学生になるといきなり喋り出したりするから面白いですよね。

(私事ですがうちの18歳二若君は郡山宮妃から電話で「夏休み、こっちに遊びに来たら?」って言ったら「はい。ぜひ行きたいですね~~」と答えて喜ばせていました。え?どうした?息子よ。2年前は何を言われても「はい」しか言わなかったじゃないか)

それにしても悠仁殿下~~~髪が多いのはいいけど重すぎるんだよ~~

もうちょっとすっきりしましょう。

笑顔は眞子さまみたいで、おばさま、ちょっと泣けちゃうよ。

 

今週は、鹿児島が待ってますよ。

部活と公務で忙しいようで、ちょい疲れ気味というか顔が日焼けしているのかな。

赤くなってる。畑も田んぼも毎日見回って水をやらないといけないし。

いくら赤坂御用地でも暑いよね。

皆さま、お身体に気をつけて下さいませ。

 

紀子様が新型コロナに感染されたそうです。

今週はとにかく忙しい予定が詰まっている紀子様。

少しお休みください。お疲れになったのです。

早いご回復をお祈りいたします。

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鎮魂の夏  三浦春馬が残したもの

2023-07-24 07:00:00 | つれづれ日記

日本にとって「夏」は鎮魂の季節です。

そんな事をいってもわからない人にはわからないと思いますが。

どんなに忘れないでいようと思っても、今、ウクライナとロシアが戦争している時代、

そしてコロナ禍を生きた人達にとって、太平洋戦争は遠い昔の歴史物語になっているのも事実です。

私の頭の中では、「それでいいんじゃないか」と思う事もあります。

なぜって、原爆一つとっても、戦争の形態や形式があの頃とは全く変わっているからです。今やドローン攻撃が当たり前、サイバー攻撃が当たり前、普通の人が町中で銃をぶっ放す時代です。

むしろ、あの頃の方が「戦争の大義」がまだ日本に生きていて、それをことごとく破られた結果の敗戦であった事を思えば、日本人とはなんてお人よしで自己犠牲が過ぎて、恨み節の一つも言わない、まさにいい人達の集団だったんだと思うばかりです。

ゆえに、その「思い」を政治利用される事は望みません。

かといって、日本が、真面目に戦争に取り組んだ、そして亡くなった人達の思いを象徴する靖国神社を忘れる事も望まないのです。

安倍元首相の国葬の日、靖国神社には沢山の人が列をなして参拝されていました。

彼らの思いは、誠に「日本よ蘇れ」の気持ちだったと思うんですね。

真摯に国を想い、国を守りたい一心の参拝であったと信じます。

 

そして、実は先日、偶然WOWOWを付けたら「永遠の0」をやっていました。

この映画、何回見たら気が済むんだ?何回泣いたら気が済むんだ?って思います。

いい加減、偶然目に入ったからって見るのはやめよう。

そう思ったのに、結果的に最後まで見てしまって・・・・

三浦春馬が祖父の事を想い、表情がどんどん変わっていく瞬間を見ると、もうダメでまたも号泣してしまったのです。

そして、本当にあの戦争で散った方々に申し訳ないと思いました。

2023年、日本はコロナ禍を経て、新しい日常を送っていますが、ことごとく倫理は破られ、常識が通じなくなり、外国人に占拠され、国民は領土を守る意識もなく、増税を重ねられても反抗せず、外国人優遇の国の形に反論するでもなく、ただ怠惰な日々を送っているのです。

こんな日本を作る為に彼らは散って行ったのだろうか。

日本人とは思えない総理大臣と、保守には見えない与党と、あからさまな反日、共産主義の野党に囲まれ、平穏に日々を送りたい日本人を絶望の淵に貶めているのです。

 

映画では、三浦春馬が祖父の生きた道を辿って行きます。

最初は今時の若者だった彼が、どんどん歴史の中に踏み込んで行き、自分を見つめ直すというストーリーです。

三浦春馬の代表作とも言えます。

でも、映画の中でこんなにも真剣に戦争を考え、祖父の軌跡を追った人が、自殺などするだろうかという疑問が3年前から拭えません。

あの役は彼そのものだったと思えるからです。

 

芸能界にもやっぱり保守派と反日がいます。

反日を唱え、自虐史観に流れる方が楽だし、共感を得られます。

けれど、太平洋戦争や戦前の日本のあり方を冷静に見て、分析すればするほど、あの頃の日本ってそんなに悪い国だったのか?と疑問に思うし、靖国神社にお祀りされている人々の国を愛する心は軽い物ではなかったと思うんです。

靖国神社でお祓いを受けた時、にぎやかな筈の境内が一瞬にして静かになり、一陣の心地よい風が吹き渡って行った・・・そんな記憶を持つ私には、中国や韓国が言うから靖国神社への参拝を躊躇する日本の閣僚の気持ちはわかりません。

政治家になったらきっとわかるかもしれない。

でも、今、必要なのは例え戦争になっても自国を守ってくれた英霊に堂々と参拝する気持ちではないのでしょうか?

 

さて、毎年、靖国神社では「みたままつり」が行われます。

私はまだ行った事がないのですが、灯篭が吊り下げられて綺麗だそうですね。

そのみたままつりに、三浦春馬のファンが250もの献灯をしたそうです。

日本製普及会」というのが、その団体の名称で、献灯は何も今年に限った事ではないようです。

なぜ靖国神社にこれだけの献灯をするのかと言えば、彼が出演した「永遠の0」に他ならないのです。

今時の若い人たちが、どんな理由であってもあの映画を見た、三浦春馬が心に残った。彼の死をきっかけに靖国神社に関心を持つようになったと言う事は、大変素晴らしい事ではないでしょうか。

生前、彼もまたこっそり毎年靖国神社を訪れていたようですし、そういうご縁もあるのでしょう。

誰かが大声で「靖国へ」というより、彼の「死」がファンを通して人々を靖国に導いたのだとすれば、それこそが彼が残した功績ではないかと考えます。

今、日本は非常に左傾化しています。

その事に気づかず逆に右傾化していると思い込んでいる人も多いようです。

ウクライナとロシア、そして台湾有事を考え、日本が自力で自分達を護る為に防衛費を投じる事はやらなければならない事なのです。

これ一つをとって「右傾化」と騒ぐのが左翼のやり口なのですが、なかなか日本人は本当に自分達が危機に瀕している事に気づかないようです。

 

勿論、8月6日、9日、15日に黙とうする事も大事です。

でも、今考えなければならないのは目の前にある有事です。

私達は私達の国を守るという当たり前の事をしなくてはなりません。

言論の自由とか、思想の自由とかいいつつ、共産主義に染まっていく事は日本にとってマイナスにしかならないのだと、早く気づいて欲しいです。

 

「日本製普及会」が献灯をするようになったのは水間正憲氏の助けがあったからだそうです。水間氏の著書は私も何冊か読んで勉強しています。

「戦前」を見直す結果になりました。

 

「日本製普及会」の「日本製」は三浦春馬の著書からとったそうです。

平成から令和にかけて、若い人が「日本製」という言葉に拘った事は本当に素晴らしい事でした。

ゆえに尚更自殺なんて信じられないんですよね。

今年は3回忌だそうです。

未だ、彼を失った傷から立ち直れない人達も多い。

人の「死」というものは、このように沢山の人達に影響を与えるのです。

だからこそ、無駄死にをしてはいけないし、軽々しく口にしてもいけないのです。

本当は裏で何が起こっているのか・・・・

真実を知りたいだけなんですけどね。

 

 

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皇室ウイークリー

2023-07-23 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

皇嗣家

7月14日~15日・・・両殿下 福岡県訪問 

・世界水泳開会式

・アーティスティックスイミングを見る

7月17日・・・佳子内親王 → 「第22回東京都障害者ダンス大会ドレミファダンスコンサート」出席

7月18日・・・妃殿下 → 結核予防会「令和5年度資金寄附者等感謝状贈呈式」およびお茶会出席

7月19日・・・両殿下・佳子内親王・悠仁親王 → 日本パラグアイ学院日本研修旅行参加生徒他に会う

7月20日・・・両殿下・佳子内親王 → 宮内庁幹部職員人事異動者に会う

天皇家の日程更新はまだです。

  この所、遅れるのは宮内庁の怠慢なのか、天皇家の事情なのか。

 秋篠宮家のパラグアイ学生との交流に「養蚕納め」をぶつけて来た天皇と皇后。しかし、4種類の繭が最後は3種類になっていたそうで・・・(記憶が)なぜ?

養蚕クラブの活動ですとばかり、3人であれこれやって「できました」みたいな。

皇后の仕事が天皇家の行事になってしまいました。

 7月19日上皇ご夫妻、東京都美術館を訪れる。

雅子さんは嫌いだけど、美智子様は大好きという人達が沢山います。

引退して静養して、ごゆっくりして下さいという意見も多く、聞きます。

でも個人的には、こんなに動けるなら退位する必要はなかったのは?と思わざるを得ません。摂政に皇太子を据えていればそれでよかった筈です。

毎回、着た切りすずめを装う上皇后、しっかり上皇陛下と手を繋いでいるのは、仲のよさというより雅子さんと愛子さんのように、手を離したら勝手にどこか行ったり、お手ふりしちゃったりという事があるからなんだろうなと。

少しでも認知症の進行をおくらせたいんだろうとは思いますが、それなら元の立場に戻してあげるのが一番だろうと思います。

なぜ老人2人に東宮御所が必要?60人の使用人が必要?

佳子様を責める前にそこを明らかにすべきです。

最近、宮内庁が注意喚起をしていますは、宮内庁職員、関係者を装って農家に電話で「献上」するように迫っているという詐欺が流行っているようです。

農家の一人が不審に思って宮内庁に問い合わせたところ、献上しろと言った覚えはないと答えたとか。

もも、ぶどう、梨、いちご・・・全部果物。

ネットでは「小和田家が献上させているのではないか」とか「天皇家が献上させているのではないか」と言われていますが証拠がありませんので。

どうしてこういう事が起きるのかなと。

なぜ疑われるか、雅子さんとその周辺はよく考えるべきですね。

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録  34

2023-07-22 06:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2005年5月21日 御料牧場

時間が経つにつれて、雅子様の中では「内親王の療育(自分で)と「静養」は仕事のようになっていきました。

ご自分の中でもそれが自然で一番楽しい事だとわかってしまったのです。

全て「治療の一環」でどこへでも行けるし、朝、起きるのも自由、食べる時間も自由、レストランも青山にいい場所を見つけたので通う。勿論皇太子様も一緒です。

もはや雅子様にとって皇太子様は「名刺」「免罪符」と同じで、一緒に行動すれば誰にも何もいわれないと思いました。

世間では、あまりにも雅子様に振り回され、いいなりにっている皇太子様について「廃太子」論も出てきているというのに、雅子様はどこ吹く風です。

廃太子なんぞ出来るわけがない事をしっていたので、全ては庶民が勝手にあれこれいう事でしかない。

5月4日には、ニュージーランドのヘイリーのコンサートを私的に訪れ、コンサート終了後、楽屋で話し込み、サインをねだり、6日は東京プリンスホテルタワーで行われた「ペネロプ展2005日本展」を鑑賞、6月29日には、国立博物館で「恐竜展」を私的に鑑賞し7月15日には、近代日本画を見に行く・・・とにかくプライベートでは元気な姿を見せていました。

そして、段々、雅子さまにとって愛子内親王は「切り札」のようになっていきました。

皇太子様に何かお願いをする時も、切り札である「愛子もそう思ってる」と言えば、大抵の事は叶うようになっていたからです。

御陵牧場、那須御用邸をハシゴして静養するのは当たり前、御用邸などにつけば、近くのレストランで昼食、舟遊びや動物園に行く、お風呂は御用邸内の温泉につかる。

でもこれらは全て雅子様が小さい頃、叶えられなかった事です。

お父様は仕事で忙しく、お母様は社交で忙しい。いつもお手伝いさんと取り残されていた雅子様にはいい思い出があまりありません。

成績も振るわなかったし、妹達の面倒でお母さまが精一杯なのはわかっていましたので。だから、今、こんな子供らしい遊びを体験できるというのは新鮮で楽しかったわけです。

ただ、内親王は長い距離をまだ歩けず、しかもすぐに転ぶので、どんなに重くても抱っこしていかなくてはなりません。

職員に任せればいいのですが、パニックを起こされても困るので、仕方なく毎回抱っこしていました。

 2005年5月31日 帰京

 2005年7月20日 愛知万博日帰り

愛知万博は、国の大事な行事で、スペシャルデーにには沢山の海外王族が来日しました。

つまり、世界に日本の技術を紹介し、または世界の今はどんなものなのかを見る事が出来る貴重な行事で、皇族方もみな、一度は万博を見にいかれましたし、そこで働く人達を激励しました。

しかし、雅子様にとって万博はまるっきり興味のない事でした。

だから、海外のお客様に会う事もしないでいたのです。

でも、名誉総裁はあくまで皇太子様なので、開会宣言は勿論、一度は見に行かなくてはなりません。

東宮職にそう説得され、「じゃあ、一日だけなら」という事で愛知に行く事にしましたが、宮内庁の要求を呑んでしまった自分に腹が立ち、終始ご機嫌は悪く、不愛想になってしまいました。

予備知識もないまま万博に行き、せっかく迎えてくれた公式キャラクターのモリゾーとキッコロを無視して歩いてしまいました。

雅子様が興味をしめしたのは、イギリス館のみで、せっかく名古屋パビリオンで藤井フミヤが、「ご夫婦で手を繋いで」と促したのに、無視したという事もありました。

この件で「やはり雅子さまは回復していない」という事になったのですが、本意ではない事は全て拒否という態度で臨むので、仕方のない事でした。

 2005年5月6日 聖路加国際病院の夏祭りで子供が作った割りばしピストルを持ち帰る。

「気の毒な子供に心を寄せる」雅子様は時たま、聖路加病院を訪れて、様々な話を聞いたりしていたのですが、実際は何とか愛子様を治す方法はないかと考えていたのです。

しかし、その年の夏祭りでは、雅子様が体験した事のない子供達の「夏祭り」が開かれており、その様子があまりにも楽しそうに見えたので、ついつい遊びに興じ、尚且つ子供達が作った割りばしピストルを「持ち帰ってよろしい?」といい、一つ貰って来てしまいました。

愛子様の為・・・という事になっていましたけど、本当は自分がこれで遊んでみたかったのです。

雅子様はご自分が子供返りしていってると言う事に全然気が付いていませんでした。

ただただ、自分の子供時代を取り戻したい、あの頃に返ってやり直したい・・そんなお気持ちだったのです。

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祝!ご成婚30周年 雅子様語録  33

2023-07-21 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2005年 長野スペシャルオリンピックドタキャン

雅子様の行動は次第に気まぐれ度を増していきました。

周囲としては、早く公務に復帰して通常の活動を行って欲しいと願っていました。

もはや皇太子ご夫妻に第二子の希望は持てないと判断し、それならせめて、決められた公務や祭祀などをきちんと行って欲しいと願っていたのです。

しかし、雅子様にとって公務は今や大事なものではありませんでした。

出なくてはならないものでもなくなりました。

「この儀には出る」と言っておいて「やっぱり気が乗らない」という事が多々出て来たのです。

皇太子様も側近も驚いて「どうなさったのですか」「時間がございます」と申すのですが、雅子様からみたら「体調が悪いんだから」と怒鳴って終わりです。あとは自室にひきこもり、ずっと眠っているような感じです。

女官達の間に動揺が広がりました。

雅子様は昼夜逆転状態になって、昼はいつまでも起きてこないで、夜中にごそごそ動き出すようになって来たのです。

部屋の掃除をすれば「勝手に部屋に入った」と言って𠮟りつけ、掃除をしなければ「怠慢だ」と叱られ。しかし、女官達は通いでシフトも決められているので、雅子様に都合のいいようには動けません。

雅子様の「私室を護る」という意識の強さに本当に困り果てました。

そんな中で皇太子様は誕生日を迎えたのですが、

 2005年 皇太子誕生日

雅子の病気については,国民の皆さんにもご心配を頂き,また,お励ましを頂いていることに心から感謝をしております。

また,天皇皇后両陛下にも,お心を寄せていただいていることを有り難く思っております。

雅子の様子については,病状は回復傾向にあって,前向きの気持ちが出てきているように見受けられます。

また,私的な外出を少しずつ重ねることなど,心身のエネルギーを高めていこうと積極的に努力しています。乗馬やスキーでの静養なども良い影響を及ぼしていると思えます。

しかし,体調には依然として波がありますし,1年以上ほとんど外出していなかったこともあって,体調が回復するまでにはまだ時間が必要であるとお医者様は認識しているようです。

昨年は雅子の祖母の江頭寿々子も他界し,幼少のころからの思い出もいろいろあり,力を落とした時期もありました。

公務の復帰に関しては,体調を見ながらお医者様とも十分に相談して,徐々に活動の範囲を広げていきたいと考えております。

公務の内容に関しては,今は特に決まった方向性を決められる状況にはなく,これも体調を勘案しながら決定していくことになると思います

なお,お医者様は,雅子はどうしても無理をして頑張ろうとし過ぎるところがありますので,「できるだけゆっくりと公務に復帰していただきたい」と考えているようです。

周囲の環境に関しては,東宮職内のコミュニケーションを今まで以上に密にしたり,日常の生活の中でできるだけ公私の区別をつけるようにしたりするなど,様々な工夫をし,改善しつつあると認識しています。

また,宮内記者会を始め,関係の方々のご協力もあって,私的な外出がこれまで以上に自由にできるようになっていることも,良い方向に働いていると思います。お医者様方の努力にも感謝したいと思います

多くの方々のこうしたご協力に関しては,雅子も有り難く思っています。

ただ,こうした環境は,短期間で大きく変えられるものではないので,これからも関係の方々の協力を得ながらゆっくりと時間をかけてさらに良い形に変えていければ良いと思っております。

昨年の私の発言は,雅子の状況を国民の皆さんに知っていただきたいと思ってしたことです。しかしながら発言をめぐっては,天皇皇后両陛下にご迷惑をおかけしましたことを申し訳なく思っております。

また,国民の皆さんにもご心配をおかけしました。

今後は天皇陛下の私たちへのお励ましといたわりのお心を十分に体し,また,宮内庁の協力を得ながら,自分で考えながら,皇太子としての務めに邁(まい)進していきたいと思います。

人それぞれに考え方は異なりますし,また,どこの家庭でも同じように,世代間に考え方の相違はあると思います。

しかし,そういったことは話し合いを続けることによって,おのずと理解が深まるものと考えます。

公務については後でもお話することになるかと思いますが,国民の幸せを願って,国民のために何ができるかを考え,それを実践していこうとすることにおいては,陛下のお考えも,秋篠宮の考えも,私の考えも同じだと思います。

なお,今回の記者会見に当たって,陛下からは,率直に私自身の考えを述べるようにとのお言葉があったことも一言付け加えさせていただきます。

また,私と愛子の養育方針ですが,愛子にはどのような立場に将来なるにせよ,一人の人間として立派に育ってほしいと願っております。

3歳という年齢は今後の成長過程でも大切な時期に差し掛かってきていると思います。

愛子の名前のとおり,人を愛し,そして人からも愛される人間に育ってほしいと思います。それには,私たちが愛情を込めて育ててあげることが大切です。つい最近,ある詩に出会いました。

それは,ドロシー・ロー・ノルトというアメリカの家庭教育学者の作った「子ども」という詩で,スウェーデンの中学校の社会科の教科書に収録されております。

『批判ばかりされた 子どもは
非難することを おぼえる

殴られて大きくなった 子どもは
力にたよることを おぼえる

笑いものにされた 子どもは
ものを言わずにいることを おぼえる

皮肉にさらされた 子どもは
鈍い良心の もちぬしとなる

しかし,激励をうけた 子どもは
自信を おぼえる

寛容にであった 子どもは
忍耐を おぼえる

賞賛をうけた 子どもは
評価することを おぼえる

フェアプレーを経験した 子どもは
公正を おぼえる

友情を知る 子どもは
親切を おぼえる

安心を経験した 子どもは
信頼を おぼえる

可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
世界中の愛情を 感じとることを おぼえる』(注釈1

子どもを持ってつくづく感じますが,この詩は,人と人の結び付きの大切さ,人を愛することの大切さ,人への思いやりなど今の社会でともすれば忘れられがちな,しかし,子どもの成長過程でとても大切な要素を見事に表現していると思います。

非常にこの詩には,私は感銘を受けました。

家族というコミュニティーの最小の単位の中にあって,このようなことを自然に学んでいけると良いと思っております。

また,愛子にはいろいろな経験をさせたいと思います。

私自身,幼少のころから両親である今の両陛下にいろいろな場所に連れて行っていただき,そのなさりようを見ていたことが,今日でもとても良かったと思っております。

その意味でも,愛子が公務を始めるというのではなく,私たちがやっている姿を見せることも大切と考えます。

3歳になりましたので,いろいろな意味で社会性を身に付けていくことも大切と思っています。

言葉もかなり自由に出ますので,日常生活でのあいさつや,これはもう前からしておりますが,食事のときの「いただきます」,「ごちそうさま」など,また,何かしてもらったときの「ありがとう」という言葉などは大切と思っています。

幸い,年齢の異なるお友達にも恵まれて,リトミックの先生方のご指導を得て,生活における簡単なルール,例えば列を作って順番を守ることなど少しずつ身に付いてきていると思います。

昨年の暮れから今年の正月にかけては,お餅(もち)つきや凧(たこ)揚げ,独楽(こま)回し,羽根突き,カルタ,そして雅子がしている書き初めのわきで,遊びで習字なども一緒にいたしましたが,これは,私たちが愛子に日本の古くからの習慣や文化にも触れてほしいと思ったからです。

私自身,幼少のころから両陛下の下で百人一首に親しんでいましたし,雅子も外国生活が長い中で,両親が日本文化を忘れないようにと正月にはよく百人一首をしたといいます。愛子には七五調の使われている童謡などを通して自然にこのリズムが身に付き,簡単な七五調の言葉遊びが楽しめるようにと思っています。あわせて,このような日本の良い習慣が現在少しずつ失われつつあることを残念に思い,是非,今後も永く子どもたちの間で親しまれることを心から願っております。

 

皇太子様の雅子様への愛情はあふれる程に深いものがありましたが、一方で、女官や侍従からみると「何でそこまで」と思う事も多々ありました。

また愛子様の「どんな立場に将来なるにせよ」は女帝容認の言葉として受け入れられました。

しかし、自画自賛のような詩の朗読は、今後東宮家に返ってくるようなものでした。

 2005年3月15日 紀宮納采の儀

 

 2005年愛知万博ナショナルデー欠席

愛知万博は国をあげてちからを入れた行事でしたが、雅子様は全く興味を示しませんでした。ですから、東宮御所に各国の王族が来ても雅子様は出迎えをしませんでした。

なぜなら、人と会うのがそもそも嫌いなご性格だったからです。

気の利いた事を言えないので、すぐに会話につまり、結果的に飲み物を飲んだりして誤魔化すしか出来ない雅子様にとって玄関までのお出迎えは負担。

それ以来「負担」という言葉でありとあらゆる事から免罪符を貰いました。

 2005年4月18日 デンマークのフレデリック皇太子夫妻・オランダの王太子夫妻を出迎え

 2005年5月1日 日本ユニセフ協会設立50周年記念行事「ユニセフこどもおの祭典」出席

けれど、例えば日本ユニセフなどの行事には出ざるを得ません。

「日本ユニセフ」には大鳳会も関わっており、小和田の父君からも、それだけはちゃんと出席するように言われていたからです。

 

一つの行事に出たり出なかったり、身体は元気で乗馬をやったりするのに、その間の公務は出ない・・・こういう精神障害があるのだろうか。

雅子様に共感する一部の人達は別にして、「何だかおかしい」と感じる人も多かったですし、それを取り上げる雑誌などもありました。

けれど、雅子様にとって今一番大事なのは「自分の気持ち」でした。

出たいか出たくないか、どうしても出ないといけない時は、何とかご褒美を貰う。そういう子供のような心境になっていたのです。

 

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