紀宮様のご結婚での、一連の「無礼」は皇室全体、はたまた旧皇族、旧華族の面々にも知れ渡り、東宮家はすっかり孤立してしまいました。
今や、東宮御所にはどなたも訪れず、ご一家がいる間はどなたも部屋からら出て来ない、家族のだんらんもない、異様な風景がそこに広がっていました。
旧皇族で皇太子様のご学友である賀陽氏は、そんな殿下を見かねて
「雅子様が大事にすべき事はまずは祭祀、それから公務ではないのですか。いつまでも祭祀をなさらない。勤労奉仕団に会釈をされないというのはいかがなものでしょうか」と申し上げました。
すると、皇太子様は、今までにないほど激昂されて
「私達に必要なのは時代に即した新しい公務なんだ!」と吐き捨てるようにおっしゃいました。
「いつまでも時代遅れの事をやっているからダメなんだ。だから雅子だって適応障害になるんだ。自由がないし、外出もままならないし、知らない人と会わないといけないなんて、理不尽だ」
「では殿下、将来の天皇陛下はずっと雅子様を放置されるのですか」
「好きにさせるんです。雅子がやりたい時に何かをし、食べたい時に食べ、寝たい時にねる。そういう生活をさせたい。それの何がいけないの?」
「内親王にもそういう教育を施されるというのですか?」
「愛子は・・・そうです。私達は叱らないで言い聞かせる教育をしている」
「愛子さまの事をずっと隠しているおつもりですか」
賀陽氏の言葉に東宮様は顔を真っ赤にして「何も隠してない!」と怒鳴りつけました。
賀陽氏はため息をついて、それから二度と東宮御所に姿を現す事はなくなりました。
まるで・・・雅子様の適応障害が皇太子様に移ってしまったようです。
でも今の皇太子様にはそういう手段しか、うまくやる方法が見つかりませんでした。
2005年12月16日 正月写真の撮影の為に参内
毎年、この頃になると、皇居では新年に公開される天皇ご一家の写真撮影が行われます。
この年もいつものように、東宮一家は参内し、写真撮影に臨みました。
そしていつものように愛子様には福迫出仕がついてきていたのです。
内親王はとにかく、人が沢山いる所が苦手ですし、笑いません。ご機嫌をとるのが本当に難しいのです。
いざ、写真を撮影しようと思っても、絶対に並ばないと言ったら並ばないし、挨拶もしなければ、笑いかける事もしないので、撮影の間中、福迫出仕がカメラの横で一生懸命に内親王の視線をこちらに向けようとしました。
しかし、内親王はもう4歳です。
幼稚園に入園する歳になったのです。
天皇陛下は、またも福迫出仕が来ている事に不快感をお示しになりました。
「内親王はもう大きいのだし、両親がついてきているのだから写真撮影も出来る筈」とおっしゃり、出仕の入室を拒んだのです。
本来、こういう場に、女官ではない「出仕」は入る事が出来ません。
皇室にはこういった序列が今も残っているのです。
でも、内親王のご様子で何年かは我慢して来た陛下も、もうそろそろと思われたのでしょう。
「さあ、敬宮さま、こちらにいらっしゃいな」と秋篠宮妃が優しく声をかけます。
「一緒に坐りましょう」と二人の内親王も手を取ろうとしました。
ところが、内親王は福迫出仕の服を持ったまま動きません。
「敬宮」と皇后陛下もお呼びになるのですが、内親王は動かず、無理に引き離そうとした雅子様をぐいっと手で押しやりました。
そして「や~!」とぐずり始めたのです。
呆然とする回りを後目に雅子様は「福迫!早く!」と呼びました。
出仕は飛んできて内親王を抱き上げます。
「宮様、これからお写真をとりますよ。私があっちにいますから」とそっと内親王を下ろすと自分はカメラの隣りに立ちました。
陛下は下品だなと思いつつ「もう・・・仕方ないね」とおっしゃいました。
皇嗣て無事に天皇一家の写真撮影は終わったのですが、この事から陛下の御心は晴れませんでした。
2006年12月23日 天皇誕生日
ですから、この年の天皇陛下の記者会見は、いつになく緊張が走りました。
「今年5月皇太子の発言がありました。
私としても初めて聞く内容で大変驚き,「動き」という重い言葉を伴った発言であったため,国民への説明を求めましたが,その説明により,皇太子妃が公務と育児の両立だけではない,様々な問題を抱えていたことが明らかにされました。
私も皇后も,相談を受ければいつでも力になりたいと思いつつ,東宮職という独立した一つの職を持っている皇太子夫妻の独立性を重んじてきたことが,これらの様々な問題に,気が付くことのできない要因を作っていたのだとすれば大変残念なことでした。
質問にある私の意思表示のもう1回は,皇太子の発言が,私ども2人に向けられたものとして取り上げられた時でした。
事実に基づかない様々な言論に接するのは苦しいことでしたが,家族内のことがほとんどであり,私ども2人への批判に関しては,一切の弁明をすることは,皇室として避けるべきと判断し,その旨宮内庁に伝えました。
皇太子の発言の内容については,その後,何回か皇太子からも話を聞いたのですが,まだ私に十分に理解しきれぬところがあり,こうした段階での細かい言及は控えたいと思います。
2人の公務についても,5月の発言以来,様々に論じられてきました。
秋篠宮の「公務は受け身のもの」という発言と皇太子の「時代に即した新しい公務」とは,必ずしも対極的なものとは思いません。新たな公務も,そこに個人の希望や関心がなくては本当の意義を持ち得ないし,また,同時に,与えられた公務を真摯に果たしていく中から,新たに生まれてくる公務もあることを,私どもは結婚後の長い年月の間に,経験してきたからです。
皇太子が希望する新しい公務がどのようなものであるか,まだわかりませんが,それを始めるに当たっては,皇太子妃の体調も十分に考慮した上で,その継続性や従来の公務との関係もよく勘案していくよう願っています。
従来の公務を縮小する場合には,時期的な問題や要請した側への配慮を検討し,無責任でない形で行わなければなりません。
「時代に即した公務」が具体的にどのようなものを指すかを示し,少なくともその方向性を指示して,周囲の協力を得ていくことが大切だと思います。2人が今持つ希望を率直に伝えてくれることによって,それが実現に向かい,2人の生活に安定と明るさがもたらされることを願っています」
とおっしゃいました。
そうは言っても、一般参賀では何事もないように控室でお話が弾みましたし、あの記者会見で全部おっしゃりたい事はおっしゃったと言う事で、陛下は水に流そうとされたのでした。
事件が起こったのは夜の事です。
夜には、秋篠宮家の2内親王と愛子内親王が両陛下に祝賀を述べに参内しました。
皇室には伝統があり、未成年の内親王は「御地赤」と呼ばれる着物を着る風習があります。この時、秋篠宮家の2内親王はこれを着用されていたのですが、愛子様は洋服でした。
両陛下がいる部屋に入った内親王方は一列に並んでそれぞれお祝いを述べます。
眞子内親王・佳子内親王はしっかりと「天皇陛下、お誕生日おめでとうございます」とおっしゃって、陛下は目を細めて「ありがとう」とおっしゃいました。
お二人の御地赤はまるで部屋に華が咲いたかのようでした。
愛子内親王はまだうまく話せないので、とりあえず雅子様と一緒にお辞儀だけして去ろうとした時です。
愛子様が目にとめたのが眞子様や佳子様の御地赤でした。
愛子様はいきなり、佳子様の着物の袖をひっぱり、自分の方によせようとしたのです。
「やめて。愛子ちゃん」思わず佳子様はそういい、眞子様も「やめましょうね」とおっしゃったのですが、愛子様はさらに強くひっぱり「あーー!」と叫び出したのです。
雅子様は驚き、「福迫!」と呼びました。
福迫出仕は別室に控えていましたので、ちょっと時間がかかりました。
その間、愛子様はずっと逃げる姫宮方を追いかけ、「あー!」と叫び続けます。
秋篠宮家の内親王達は早々に退出しました。
雅子様も何とか愛子様と部屋を出ようとしたのですが、今度は座り込んで「あー」と泣き出してついにひっくり返りました。
一体何が起こったのでしょうか。
福迫出仕が入って来た時、そこには、怯えたような目をする両陛下となだめようとする秋篠宮両殿下と雅子さま、そして顔色もかえず「どうしたの」と聞いている皇太子様の姿でした。
「福迫、さっさとしなさい」
怒鳴られ、福迫出仕は両陛下の前という事も忘れて、愛子内親王を抱き上げようとしましたが、なかなか動いてくれず、手足をバタバタして暴れまわります。
事の経緯を聞いた福迫は「愛子様は、御地赤を気に入られたのです。ご自分も着てみたいと思われたのです」
するとすかさず雅子様は「何でそんな物着せるの」と紀子様に食って掛かりました。
紀子様は「御地赤は未成年内親王の着物です。敬宮様もお持ちでは」と返しました。
「そんなものないわよ」
皇后陛下は「赤に惹かれたのね。赤い着物は必須と教えた筈よ」とおっしゃいました。
雅子様は皇后様も陛下も見ません。食ってかかっているのは紀子様にだけです。
「何でこんな時に見せびらかすように赤い着物なんか着てくるの。来るんだったらそう言ってくれればこっちだって何とかするじゃない。何で宮家のくせにそんな勝手な事をするのよ」
「妃殿下、それは違うのでは?」と秋篠宮さまは言い返そうとしましたが、紀子様が止めました。
「相談しなかったのね」と皇后様はおっしゃり、責められた紀子様は「そんなつもりでは」としか言えなかったのです。
皇太子様は「早く愛子を何とかしないと」と話題をそらしてくれたものの、雅子様の怒りは収まるどころかますます怒っていくようで
「うちの子を馬鹿にしているんでしょう?いっとくけどうちの愛子はあんた達の娘よりも格上なんだから、うちに合わせるのが筋じゃない?違う?どうしてくれるのよ。責任とってよ!」
「申し訳ございません」紀子様は頭を垂れ、秋篠宮殿下は憮然として「そちらの躾が悪いのでは」とぼそっと呟いたのです。
すると今度は皇太子様が「愛子はまだ小さいんだ。しつけも何もないだろう」と反発する。皇居の一室が修羅場のようになってしまいました。
それでも福迫出仕が何とか内親王をなだめて、抱き上げ「東宮御所に帰ります」と言いました。
この後、夕方7時からは「お祝御膳」という身内だけの食事会があるのです。
ですから東宮夫妻は残らないといけません。福迫出仕はそれを踏まえて自分達は帰ると言ったのでした。
「私も東宮御所に帰ります」雅子様はきっぱりとおっしゃいました。
「でも、これから夕食会だよ」
皇太子様はそう言った時はすでに、部屋を出ようとしていた雅子さま。
「誰が愛子を寝かしつけるの。私しかいないじゃない」
「じゃあ、すぐに戻ってくるね。福迫だって女官だっているからね」
ドアがばたんとしまりました。
それからまもなく、夕食会の為にやってきた黒田清子さん夫妻は何事があったのかとひどく驚き、食堂は沈黙に包まれたのでした。
東宮御所に帰って来た雅子様は、機嫌が直った愛子様を着替えさせ、自らお風呂に入れました。普段は女官に任せっきりの仕事を率先して行ったのです。
女官達は「妃殿下、どうぞ皇居にお戻りください。後は私達が」と申し上げるのですが妃殿下は無視していました。
とにかく紀子妃の顔なんかみたくもない。
わざと娘たちに綺麗な着物を着せて自分達の方が上だと自慢したのだ。
なんてひどい女、いつもいつもいい子ぶっているくせに、こういう時に復讐するのだ。
時計の針はとっくに7時を回っていました。
雅子様は愛子様に食事をさせつつ、自分も食べました。この時点では皇居へ行くなんて考えてもいませんでした。
しかし、皇居からは再三再四、東宮御所に電話がかかってきます。
「妃殿下はいつおみえになるのだ。皆さま、食事をせずに待っていらっしゃる」
それを聞いた女官長は慌てて雅子様の所に走りましたが、雅子様は部屋に閉じこもって出てきません。しかし、今回ばかりはそうはいきません。
女官長は思い切って内線電話を使って雅子様に電話をかけました。
「妃殿下、お願いです。参内して下さい。両陛下他、みなさんお待ちになっているのです」
「うるさいわね。私はもう着替えちゃったし食べちゃったし、あとは殿下に」と言って切ってしまったのです。
まさか、そのまま伝えるわけには行きません。女官の首が飛ぶかも。
時計は8時を越えています。女官長は伝言として皇太子殿下にお願いをしました。
妃殿下を気にせずに食事をしてほしいと。
ところが、伝言ゲームのようですが、皇太子殿下からは「皇后陛下が、東宮妃だけをのけ者には出来ないとお待ちになっている。大至急参内させよ」という言葉が返ってきます。
どうやら、皇后陛下は、ここで食事を始めてしまったら、後に小和田家を通じて「雅子様をのけものにした」と責められるのが嫌だったようで、ここは意地でも待つおつもりでした。
そんな事は知る由もない雅子様は、部屋でくつろいでテレビをみていました。
しかし、またも女官が内線電話を使って来たので頭にきた雅子様は受話器を外したままにしました。
すると今度はドアを叩く音がします。
「妃殿下、妃殿下お願いです。お部屋から出て来て着替えて下さい。あちら様はまだお待ちなのです」
「私は行かないって伝えなかったの?」
「お伝えしましたが、お許しになりません。両陛下、皇太子様、秋篠宮ご夫妻、黒田ご夫妻ともまだ、お食事を始めておられないのです」
それを聞いて雅子様はぞっとしました。
「今更行けないわよ。みっともないじゃない。断ってよ」
雅子様のトーンは少し小さくなります。
女官長の伝言ゲームはまたも始まります。
すると、今度は「皇后陛下、黒田さん、紀子妃殿下が、東宮妃が気まずい思いをされないように廊下に出てお待ちです」と返ってきたのです。
真冬の皇居の廊下がどんなに寒いかは想像に難くありません。
すでに時計の針は9時を回っていました。
雅子様はもう逃げられないと観念するしかありませんでした。
着替え、化粧をし直して参内した時はすでに10時近い時。
玄関から入ると確かに女性皇族が待っていました。
「大丈夫だった?愛子の方は」と皇后陛下はにこやかに尋ねました。
「どうも。大丈夫です」と雅子様は答え、皇后陛下に手をとられるようにして食堂に入りました。
お詫びの言葉もありませんでした。
「お姉さま」いきなり泣き崩れた紀子妃を清子さんが慰めます。
みな、身体は冷え切っていました。
でも、何事もなかったようにそこから食事会はスタートしたのです。
雅子様は叱られる事もなく、嫌味を言われる事もなく、お腹いっぱいだったけれど、お祝い御膳は別腹で入りました。
皇太子は呑気ににこにこしていましたが、秋篠宮夫妻と黒田夫妻は言葉少なに、もくもくと食べるのみです。
のちにこの事件は週刊誌にも載り、友納尚子によって「赤坂御用地は緑が多い為に電波が繋がらない」という言い訳が登場するのですが、要するに皇后陛下の思惑のみんな犠牲になったとも言えるでしょう。
一度も雅子様を叱る事無く、でもやっぱり雅子様は多少は気まずかったでしょうか?
いえ、それよりも紀子様の悲しみと絶望ははかりしれないものがありました。
2006年1月1日 天皇一家
2006年1月2日 一般参賀
年があけて、2006年。皇室は重要な節目に来ていました。
小泉内閣は正式に「愛子女帝」を容認させるべく皇室典範の改正に臨んでおり、このままいけば「天皇の長子(男女関わらず)が皇位を受く」となる筈です。
もう少しで小和田の父君の夢である「天皇の祖父」になる事が出来るのです。