いつかそうなるかも・・と思ってはいたのですが、実際にそうなって
みるとやっぱり寂しいですし、何よりもこれで「宝塚を評価する」雑誌が
皆無になってしまうということが残念です。
知る人ぞ知る「宝塚アカデミア」は1996年の発刊です。あの時の衝撃は
今も忘れられません。
当時はまだ宝塚初心者だったので、少しでも演出家や作品やジェンヌの事を
知りたいと、ありとあらゆる本を読みまくっていた時期で、
その時に、真正面から宝塚を論評する「宝塚アカデミア」が出たのですから
もう嬉しくて嬉しくて、第1巻「植田伸爾の世界」を夢中になって読み、
ところどころアンダーラインをひいていました。
宝塚を単なる大衆文化としてではなく、「演劇の一分野」として評論しよう
という機運が出てきたのは、小池修一郎、正塚晴彦らが台頭してきた
80年代後半からだと思います
ファン層も広がり、男性のファンも結構増えて、「豆評論家」が劇場の
あちこちにいました。
それは私が宝塚に触れ始めた1995年あたりがピークだったと思うのですが
この頃は、色々な人が宝塚本を出版していた時期で、満を持しての
「宝塚アカデミア」発刊だったわけです
(第1巻の編集人を見ると、荒川夏子・石井徹也・北見薫・高橋真理と
なっていて
これらの同人の文章のわかりやすく的をえていて公平だったこと。
最後には一人も残っていませんでした・・・)
この本の素晴らしい所は、まさに「初心者にもわかる評論」であった事。
植田伸爾の持つ世界観から舞台の造り方まで、また2巻では
「エリザベートと小池修一郎の世界」として比較検討してくれました。
この本から得た知識は今も私の財産だと思っています
この本がそこまで素晴らしかった理由は、1にも2にも編集に
石井徹也氏が関わっていたからでしょう
彼は非常に辛口で知られる評論家ではありましたが、その意見は鋭く
的を得ていて、彼の評を読んでいると、その時は「まさか」と思っても
後々「ああそうだった」と思うことが多いのに驚かされます
また、ジェンヌ評に関しても歯に衣着せぬずけずけした物言いながら
これまた非常に的を得ていて素晴らしかった。
彼の評論が素晴らしかったのは、彼自身の日本文化に対する造詣の深さ
でしょう
歌舞伎や落語をベースとした「型芝居」としての舞台芸術と、西洋の
ミュージカル等の違いや文化を事細かに教えてくれました。
(座談会も面白かったですねーー)
私が書く舞台評やジェンヌ評の大部分は石井イズムが強いというか、
かなり影響を受けていることは確かです。
ですから初期の「宝塚アカデミア」は非常に面白かったし、沢山の発見が
ありました。
石井氏の厳しくも愛情ある評論があったからこそ、他の論者も公平に
見ようと努力していたし、中には小難しい事ばかり書く人がいたり、完璧に
個人の趣味のおしつけがあっても目立たなかったのです。
ところが、出る杭は打たれる・・じゃないけど、石井氏の論評にあれこれ
言う人が出てきて、とうとうアカデミアの編集から降りてしまいました。
後には川崎賢子氏、溝口祥夫氏、小竹哲氏らが頑張って編集を
続けてこられましたが、いかんせん中身がどんどん薄くなっていく傾向は
止められませんでした。
確かに時代・・・というのもあると思います。
2001年の新専科制度以降のファンというのは、それまでの
「宝塚を演劇の1分野として冷静に見る」というスタイルから、
「特定のご贔屓さんを応援する」スタイルに大きく変わりました
劇団の「スターを出世させたかったらファンの増員が必須条件」みたいな
動きが強くなると共に、「好きなスターの為だけに通う」ファンが多くなり、
舞台を見ても芝居もショーも見ず、ひたすらスターの顔だけを見ている
ファンが多くなったんですね。
それに比例するように、宝塚オリジナル作品の質の低下も顕著になりました。
さらに、ファン同士の話の中でも、自分のご贔屓以外の話はタブーというか
批判も評論も許さない空気が強くなってきた事は確かです。
ネットの氾濫によって、せっかく真面目に評論を書いても「悪口」と
とられたり、手紙やメールなどでのバッシングも絶えない・・そんな状況に
なりつつある今、公演感想を書くサイト等は非常にぴりぴりしていると思います。
その影響なのか、アカデミアも個人的な好みに偏る評論がやたら多く
なり・・(例えば小池・正塚は認めるけど植田・谷は絶対に認めないとか
何を書いても荻田は素晴らしいと絶賛し、藤井には言及せず・・みたいな
偏りね)
こちらは公正な舞台評やジェンヌ評をみたいのに、あまりに一般の感想と
かけ離れた評論とか?
(「イーハトーブ夢」がかなり酷評されていたのにはびっくりしたし、
最近で言うと「オクラホマ」そんなに面白かったか?みたいな・・・)
さらに、バッシングを恐れてのことか、褒め殺しではないかと思われる
ジェンヌ評が沢山載ったりすると、読む方は読んで納得したいのに
反感ばかり感じてしまう始末・・・(「何でそうなの?」「うっそー?」ばっかりね)
かといって、いわゆる最近の「スターしか見ない」ファンというのは
こういった評論本を読みませんし、読み解く国語力もないですから・・・
(ネットなどで「青い鳥を捜して」に感動したーとか、「愛しき人よ」
素敵だったーーなんて感想を読むと、ぐったりと体中から力が抜けます。
観客が宝塚の演出家にコケにされているのがわからないなんて・・って)
ゆえに年に4回発行されていたものが、半年に1冊になり、
そうするとリアルタイムで動いている宝塚の流れと合わなくなり、とっくに
退団しちゃった人へのオマージュだの、公演が終わって暫くたってからの
評論だのと時期に合わないテーマばかりが出てくるわけですよ。
途中からはどの巻も「さよなら特集」ばかりになってましたよね。
こうなると坂道を転がり落ちるのと同様・・
ついに28巻「サヨナラ湖月わたる・朝海ひかる」で
終わりを告げる結果となりました。
もし、「宝塚アカデミア」に今後があるとしたら、編集同人を大幅に変えて
「わかる人にしかわからない」本として発行していく道しかないのでは?
(小難しい文章しか書かない溝口祥夫氏と一般ピープルと感覚を異に
している川崎賢子氏、劇団側のスピーカー藪下哲司&草葉たつや氏には
ご遠慮頂き、ここは古典芸能に造詣が深い田中マリコ氏中心にやって
頂きたい)
評論を書く前提もある筈です。
「宝塚は大衆芸能の一つであること」
「男役も娘役も型芝居である」
「歌唱力・ダンス力も大事だけれど、一番大事なのは演技力」
という事をきちんと押さえた人が書かないと、
どんな芝居もレビューもジェンヌも「いいと思う人もいれば
そうでない人もいるもんね」で終わってしまいますから。
たとえ誰に何をいわれようと、バッシングを受けようと、「書くべき事を書く」
スタンスというものが必要だと思います。
「宝塚アカデミア」の失敗は、大衆に迎合した評論を書こうとした事に
あると思います
今現在、昔のような宝塚本はほとんど出版されていません。
なぜなら、評論本を片手に舞台を見る知的財産を大事にするファンが
激減してしまったから・・本当に嘆かわしいこと。
それもこれも優れた作品を世に送り出せない歌劇団のていたらく。
自己満足の為に作品を書いていたり、実は宝塚を愛していない作家が
堂々と「座付き作家」として座っていることの弊害です
誰にも評されることなく、ただアイドルのようなスターばかりの歌劇団に
果たして存在意義があるのか・・・
「舞台芸術」とは一体何なのか・・・
先人達が「女子供の見る宝塚」から脱却しようと、一生懸命芸術としての
宝塚を花開かせようとした時代はすでに去ってしまったんですね
ただの「華やかなキワモノ」に成り下がって・・それでいいんですか
いつかまた「宝塚アカデミア」が復刊する時こそ、宝塚が「芸術」を
取り戻したときであると・・・信じています。