真夜中にも関わらず、ぼしょぼしょ話しているユミコの声が聞こえる。
相手は決まっている。マサコだ。
またか・・・ヒサシは眠気を通り越して怒りすら覚えてきた。
結婚して以来、毎日のように電話をかけてくる。言う事はいつも同じ。
「こんな筈じゃなかった」
一体、娘は何を望んで皇室に入ったのか?結婚すれば皇太子妃。贅沢三昧の生活を
しているではないか。
日々、「妃殿下」と崇め奉られ、綺麗な服を着ておいしいものを食べている。
それなのに「こんな筈じゃなかった」という。
ではなんだときけば「外国に行けるはずじゃなかったの?」と。
確かに、皇太子妃になれば外務省職員でいるよりはるかに海外訪問のチャンスは多い。
多い・・筈だったのだ。
今上夫妻が皇太子時代はほぼ毎年、毎月じゃないか?という程外国へ行っていたし、
華麗なファッションで王室外交を繰り広げていた。
しかし、今や時期が悪かった。
湾岸戦争と共に、日本に震災が起こりバブルがはじけ、世界的に不況に陥ったのだ。
これからは海外要人とも、直接会わずとも外交が出来る時代に入る。
高い飛行機代を使って外国訪問する必要がないのだ。
その事がマサコにとっては予想外の事であり、約束が違う、こんな筈じゃなかったと被害者意識
丸出しにして泣きながら電話をかけてくる所以だ。
マサコは何から逃げようとしているのだろう?
小さい頃から娘は生きづらさを抱えている子だった。
一つのグループに長く属する事が出来ない。学校でも職場でも・・マサコだけではない。
セツコもレイコもだ。
ゆえに、3人がいつも固まって行動するようになる。
3人ともうまく回りと接する事が出来ない原因を相手側に求め、そして逃げるように海外に飛ぶ。
外国なら民族の違い、風習の違いで全てが丸くおさまる。
まさに「旅の恥はかきすて」だ。
しかし、今、「皇室」という伝統としきたりの世界の中でがんじがらめにされているに違いない。
たかが天皇家なのに何を持ってそこまで偉そうに伝統だしきたりだというのか。
「そうよね。うんうん・・・本当にそうよね。ひどいわよね。そういう時はがつんと言えばいいのよ。
我慢しなくていいのよ。まあちゃん。あなたは頭がいいんだから、おバカな人達と本気で渡り合う事ないの。
きっとお父様が何とかしてくれるから」
何とかなだめてユミコは電話を切った。
「一体、今、何時だと思ってるんだ?日本は昼間かもしれないがこっちは」
「だって可哀想なのよ。電話口でしくしく泣くんですもの」
「今度は何だ」
「天皇陛下に早く子供を産めって言われたんですって。ひどいと思わない?女に出産を強要する
なんて」
「夫婦になって2年以上経つんだから、子供くらいいてもおかしくない。お前だって早く孫の顔が
みたいだろう」
「そうだけど、こればかりはどうにも。そういうのだってまあちゃんのせいにされているみたいなの。
天皇家なんて血が濃いんですもの。不妊の要素だってたくさんあると思うわ。げんに子供がいない
宮家は多いし」
「マサコに早く子供を産むように言え。話はそれからだろう」
ヒサシは苛立った。娘の父親として孫の顔を早く見たいというのは天皇も自分も一緒だと思う。
それ以上にマサコが男子を産めば「世継ぎの祖父」になるわけで。
「マイドーターイズプリンセス」だけではなく、「エンペラーズグランパ」と言える日を考えると自然に
笑みがこぼれてくる。その為にも一日も早くマサコが妊娠しなくてはいけなかった。
「だから妊娠は一人でするものじゃないでしょう?皇太子にだって原因があるのよ。なのにいつも女ばかり
悪者になって。可哀想で涙が出ちゃうわ。それにアキシノノミヤ。あそこなんか女の子が2人いるって
いうだけで偉そうなんですってよ。まあちゃんが毎日どんなにみじめな思いで暮らしているか。
それを考えるともう・・・私、日本に帰ろうかしら?」
「馬鹿な事をいうな。国連大使の職は夫婦で一対なんだ。お前が日本に一人で帰ったら何を疑われるか」
ヒサシはため息をついた。
「もう少しうまくいくと思ったのに」
世間は、皇太子妃の父親が政治的にかかわるような仕事をするのをよく思ってはいない。
外務省を辞めない事も散々悪口で言われた。
正田家と違って、やる事が一々派手で生臭いと。
だからなんだというのだ?権力を持つものが、バックを利用して何が悪いのだろう?
「皇太子妃の父」である国連大使だからこそ、価値が上がり、みなひれふす。それが世の中というもの。
それなのに。
暗に「来年は定年ですね。そろそろ退いては・・・・」などというセリフが聞こえてくる。
国連大使の定年は63歳。しかし、ヒサシはすで64歳。本来なら退官してもおかしくない歳だ。
あちらこちらから囁きのように「いつまでいるんだろう?」という声を無視して、何が何でも今の地位を
手放さずにいようと思ったが、それも限界のようだ。
外務省としては「皇太子妃の父」に政治的な仕事を任せるわけにもいかじ、国連大学の学長やら
何やら色々考えているのだが、どうにも定まらないようだった。
だから「いっそ退かれて悠々自適の生活をなさっては?」と言われるのだ。
冗談じゃない。こんな地位で満足する程自分は気が小さい男ではない。
「皇太子妃の父」が本当に「皇后の父」「天皇の祖父」になるまでは、何が何でも高い地位を保ち
出来るだけの財産を作り上げなくては。
「セツコやレイコは誰かと付き合っているのか?」
唐突に双子の話題が出たのでユミコはちょっと驚いた。
「さあ・・あの子たちはよくわからないわ。せっちゃんは色々お付き合いしているという話だけど
れいちゃんはねえ」
セツコは帰国子女枠で東大入学。卒業後はホンダギケンに就職したものの、長続きせずに退職している。
何でこうも我が家の娘たちは打たれ弱いのか。
ちょっと叱責されただけですぐに「こんな職場は私に合わない」といって辞める。
マサコも自分が後ろ盾にならなかったら1年も持たなかったに違いないのだ。
セツコは結果的にまた東大に入り直し、さらにハーバードに学士入学しているが、東大の方が続かなかった。
翻訳家になりたいだの、何だのと夢のような事をいいながらも学生生活を続けている。
レイコも似たような経緯で国連高等弁務官事務所で働いているだけましか。
皇太子妃の妹達ならさぞや降るように縁談が来るかと思いきや、ほとんどない。
アメリカの財閥系からの話を進めてみようと思っても、うまくいかない。
いくら「皇太子妃の家族」とっても王室を持たない国には通用しないのかもしれない。
マサコが妊娠しない事に加え、レイコやセツコが手駒にならない歯がゆさ。進退の危うさが
ヒサシを焦らせていた。
外務省につてをたどってみるか。東宮職に外務省の手下を数人入れて、マサコの要求が通るように
なればこんな電話で起こされる事もないかもしれない。
そしてもっとも牽制しなければならないのはアキシノノミヤ家だ。
すでに女子2人をもうけて、3人目だって夢ではない。しかし、これ以上あの家に子供を産ませてはならない。
アキシノノミヤはただのやんちゃな親王だと思っていたが、なかなかの策士らしい。
成年と同時にあれやこれやの名誉総裁を引き受けて国民からの人気も高いらしい。
妃は学者の家だが、学習院という後ろ盾がある。
ほおっておけば脅威になるかもしれない。
そんな夫婦が子供を次々作ったら・・・・・
「わかった」
ヒサシはゆっくり言った。
「マサコの援護射撃は任せておけ。それよりセツコとレイコに早くいい相手をみつけろ」
手はすでに考えた。
宮内庁を崩すには東宮職から。まず東宮職に子飼いを入れる。それから本家の宮内庁に
誰を入れるか・・・・
「オオトリ会に相談するか」
アキシノノミヤ家に出産の制限をかける。それだけではだめだ。必要なら宮家を抹殺することも
視野に入れなくては。その為にはマスコミを使う。
「フクダさんに連絡しないとな。マスコミを買収するのには金がもっといる。機密費だけでは賄えないかも」
ヒサシの呟きをユミコは本気で聞いていなかった。
「まあちゃん、結婚前はこんなに私にべたべたしなかったのよ。泣きわめく事もなかったし。
なのに結婚してからどんどん子供に返っていくみたい。まるで後追いしているみたいに電話をしてくるし
泣くし。小さい頃あれもしてくれなかったとかこれもしてくれなかったとか、大昔の事をぐずぐず言うし。
皇太子殿下とうまくいってないのかしら。子供が出来たら変わるかしらね」
ユミコは不安そうにつぶやく。
「この結婚、よかったのかしら?今まであなたが決めた事に逆らった事はなかったけど、今度ばかりは
不安だわ」
「・・・・・」
「あの子、太ったんですって。何でも大膳の食事がまずくてお菓子ばかり食べているらしいの。
昔からストレス太りする子でしょう?大膳って味付けが薄いからおいしくないのね。皇太子妃なのに
自分の家で食べるものの味も決められないなんてかわいそう。
ホテルのレストランでも中華料理でも好きなだけ外食してストレス発散出来ればいいんでしょうけど
警備の問題とか色々あってなかなかままならないわ。本当に不自由で可哀想」
食べ物なんかどうでもいいじゃないか・・・といいかけてヒサシはやめた。
あまりに低次元の話に聞こえたのだ。
とにかく早急に何とかしなくては、安眠できない。何で30過ぎても手がかかるんだ?あの娘は・・・とヒサシは
大きくため息をついて布団をかぶった。
一方、アキシノノミヤ家では予想もつかない波風が立とうとしていた。
結婚して以来、宮もキコも公務と子育てと学業の3本柱の両立に心を砕いてきた。
特にキコは宮家の台所を預かる身として、決して多くない皇族費をやりくりしながら子供達を育て
宮の健康に気を配り、使用人の差配も怠る事はなかった。
それでもマコやカコがいて宮との生活は幸せだったといえるだろう。
けれど・・・宮家には男子がいない。このままではアキシノノミヤ家は断絶してしまう。
キコとしては皇位継承は皇太子夫妻が担うと思っている。
大変な重責ではあるが、それは妃として仕方がないと思っている。
子供を産む事は苦痛ではない。むしろ喜びだ。
自分はまだ20代だし、産める限りは産みたい。その結果内親王だけだったら・・・・
その時は相応の責めを受けなくてはならないと思っていた。
しかし、皇太子妃が「私の回りにそんな事をいう人は一人もいません」と叫んだ時、その時に
皇后が皇太子妃を庇った時、キコの中の不信感が芽を出してしまった。
キコだって結婚した時から「子供はまだ?」と言われ続けた。
それだけではない。カコを妊娠した時は「なぜ皇太子妃より先に?」と責められた。
産んでも産まなくても責められる立場に何度心の中で涙を流したろうか。
なのに、今度は東宮職から「しばらくお控え下さい」と言われるとは。
「もし3番目のお子様が親王だった場合、東宮家に生まれるお子様より年上の皇位継承権保持者では
困るのです。マサコ様が非常に傷つかれるのです。何、あと1年か2年の事ですよ。
そしたら何人でも御産み下さい」
「両陛下もご存じなのですか」
「両陛下から直接伺った事はありませんが。心配しておられます」
その心配というのはどういう意味なのだろうか。アキシノノミヤ家にこれ以上子供が生まれて
マサコ妃が傷つくのを心配しているのか、それともねたまれたりする事を心配しているのか。
「話は聞いておく」
宮は言った。
「宮家の出産事情にまで首を突っ込むとは、意外に暇なのか?東宮職は」
冗談めかして言った宮の目は笑っていなかった。
「私、納得がいきません。なぜ東宮職はそんな事を言わなくてはならないの?そしてなぜ
私達はそれを受けなくちゃいけないのですか?」
「うちも子供が二人いるし、しばらくはいらないだろう?余計な話ではあるが、殊更に波風を立てても
しょうがないじゃないか」
「波風って・・・ひとごとみたいじゃありませんか?」
「そういうわけじゃない。ただ、カコを身ごもった時にあれこれ言われたろう。しばらくそういう煩わしい事は
なければそれにこしたことはない。皇太子夫妻に子供が出来るまで」
「産むとか産まないとか、人に決められるのですか?私達の意思はどうなるのですか?」
「だって、あんなヒステリーを起こされたんじゃ」
「泣いてすむなら私だって泣きますよ」
キコは叫んだ。回りはびっくりして仕事の手を止める。
「私は結婚してからずっと宮様の妃として皇族としてふさわしい生き方をしようと努力してまいりました。
皇后陛下をお手本に、つたないながらも頑張って来たつもりです。筆頭宮家として年上の宮妃方の
上に連なるのは大変でした。でも・・・私は宮様と結婚したのだから。宮様を大事に思うから
努力もしてきたのです。結婚して5年です。そろそろおお認め頂いてもいいのでは」
「認めてる。キコはよくやっていると思うよ」
「いいえ。そうではないのです」
「何が?」
「皇后陛下は・・・・」
「え?」
キコはそこで言葉を切った。口にするのも恐ろしい考え。これを言ってしまったらお互い終わりだと思った。
皇后が皇太子妃を庇う理由。それは・・・・少なくとも皇后は皇太子妃にシンパシーを感じている。
自分が入内した時にはなかった妃への「遠慮」が物語っている。
「皇后陛下は・・・」
突然、カコが泣き出した。母のいつになく強い口調にびっくりしたのかもしれない。
一緒に遊んでいたマコも泣き出す。
侍女が慌てて二人をなだめる。
「ああ!もう!うるさい!少し黙らせてくれ!」
ついに宮は怒って怒鳴った。その怒鳴り声に余計に子供たちの声が大きくなる。
「黙らせてって・・・あなたが怒鳴るから」
「先に怒鳴ったのはそっちだろう?もうわけがわからない。暫くこっちに連れてくるな!」
子供達は遠ざけられた・・・といっても、小さな宮邸の事。声は丸聞こえだが。
そもそもこんな職員用宿舎を宮邸として与えられた事からして、キコは歓迎されていないような気になる。
いくら先帝の喪中だったとはいえ、まるで罰みたいに小さな宮邸だ。
地味な生活をしてきたキコだから、その点を不満に思った事はなかった。
宮の、研究に没頭すると新婚でも部屋に引きこもり、妻を一人ぼっちにする事も、嫁姑関係になると
途端に鈍感になる事も、全て自分の中で処理してきた事だ。
でも、自分だって宮妃として5年のキャリアがあると思っている。
それを何で今になって、東宮職から産児制限をされなくてはならないのか?
みるみるうちにキコの目に涙があふれた。さすがに宮はどきっとしたが、今さら謝るのが嫌なのか
来客用のタバコケースの中から1本取り出そうとした。それをキコはパチンと手でさえぎって
「タバコはダメですと申し上げています。どうしてそれくらい聞いて下さらないの?」
「本当にいちいちうるさいな。もういい」
宮はさっさと部屋を出て行ってしまった。
残されたキコは大粒の涙を流し、しゃくりあげてしまった。
「オールウェイズスマイル」
父の言葉が耳に囁く。でもそんな事、無理だった。
東宮職を怒鳴り飛ばしてくれたらよかったのに。そしたらすっきりしたのに・・・・
キコは自分の存在意義が何だかわからなくなっていた。
そしてそれは宮も同じだったのだ。