1993年1月8日 雅子さん帝国ホテルでお見合い写真をとる
1993年1月13日 東宮御所でデート
1993年1月17日 東宮御所へ
みなに注目され、雑誌などでとびきり美しい自分の写真を掲載してくれることに、雅子さんは有頂天になっていました。
皇太子殿下からは何度も東宮御所に呼ばれ、その度に西洋料理のフルコースや中華料理などを食べることが出来るので嬉しくてたまりません。
(実は皇太子殿下は雅子さんの為に滅多に食べられない食材ばかりを集めて食事を提供していたのでしたが、それは東宮職にとっては痛い出費でした)
「まずは、服を揃えなくちゃ。着物も」
張り切ったのは雅子さんのお母様。
銀座にある君島一郎氏の店を訪れ、次から次へと服を注文。
お店側は未来の皇太子妃の為に服を作るのですから大変光栄な事です。
しかし、お支払いは・・・・外務省事務次官のお家ですからすぐにお支払い頂けると思っていたのですが、これがなかなか。
「皇室に入ってしまえはどうとでもなります」
お母さまはそう胸をはっておっしゃったのでした。
また、靴は河村龍介という靴デザイナーにご注文。しかし、雅子様はそもそも「測られる」事がお嫌い。寸法とか体重とか。
なので、履いている靴をお渡しになり作ったのですが、やっぱりお気に召さず「靴がフィッティングしないんですの」とおっしゃって結局は測り直しをしたのでした。
1993年1月19日 皇室会議
皇室会議というのは親王が結婚する時に「妃」となる人物について賛成か反対かを示す会議で、一応形式上と言われています。
秋篠宮家に嫁いだ川嶋紀子さんの時は全員一致でございました。
しかし、小和田雅子さんの時、皇族方でただ一人反対された方がいました。
三笠宮崇仁親王殿下です。
三笠宮様は皇族を代表して「反対」をお示しになりました。
理由は、小和田雅子さん入内に関して、皇族方に一切の根回しがなかった事です。
そして「チッソの孫娘」であると言う事も反対の理由でした。
天皇皇后両陛下は小和田雅子さんの入内に関して、一言も他の皇族方に報告をされていなかったのです。何という事でしょう。
お蔭で、3月17日に予定されていた「納采の儀」が延期されてしまいました。
1993年1月19日 婚約記者会見
その日の朝、雅子さんは大変緊張していました。
選んだ服はなんと金色に近い黄色のスーツ。それに手袋と帽子。
そのような格好をした事のなかった雅子さんはひたすら緊張し、前日に覚えたセリフを口の中で唱えていました。
車に乗る時にはお父様に「いつものようにやれ」とはっぱをかけられ。
まずは写真撮影。
ご両親は得意満面でした。
何と言っても、「お勉強できる」事しか得意な事がない家から皇太子妃が出たのです。
しかも、娘はハーバード大卒!これからは一家で繁栄していくのだとの決意すら見えます。
しかし、その陰で皇室会議で反対意見があった事はご存じなかったようで。
最も皇族一人が反対したからといって、今更婚約が破棄されるわけでもないので、ご両親は平気でした。
ちょっと上品に座ろうとしたけど失敗してしまう雅子さん。
この時から目がなかなか上にいかない自分を感じていました。
「会見を終えていかがですか」
皇太子 たいへんうれしく思っております。この間、温かく見守って下さった方々に対して心からお礼を申し上げたい。また私からの申し出を受けてくれた雅子さんに対しても心から感謝したい。これからは力を合わせて様々な務めを果たしていきたいと思っております。
雅子 大きな責任をお引き受けすることになるわけですから、身の引き締まる思いがいたします。
その一方で、多くの方々に祝福いただいていることを大変幸せに思いますとともに、私をお導き下さった皇太子殿下をはじめ、これまでお力をお貸し下さった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
出だしは上々ね・・・と心の中で思いました。そう皇太子妃になるって「責任」なの。愛じゃないのよね。
「プロポーズの時期と場所、言葉は。また、雅子さんの返事の時期と言葉は。」
皇太子 十月三日に千葉県の鴨場で、「私と結婚していただけますか」というようなことを申しました。その時の答えははっきりとしたものではなかったけれども、十二月十二日にこの仮御所に来ていただいて、そこで「私からのお申し出、受けていただけますか」というふうに申しまして、それを受けていただいたというわけです。
雅子 十二月十二日、殿下に「本当に私でよろしいでしょうか」とうかがいました。「はい」とお答え下さいましたので、私の方から次のように申しました。
「私がもし殿下のお力になれるのであれば、謹んでお受けしたいと存じます。
これまで殿下には、いろいろ大変幸せに思えること、うれしいと思えるようなことも言っていただきましたので、その殿下のお言葉を信じて、これから二人でやっていけたらと思います。殿下にお幸せになっていただけるように、そして私自身も自分でいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したいと思いますので、至らないところも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」と。
殿下のお力になるの。私は皇室で仕事をするの。そこに愛はないのよ。
雅子 私がご辞退申し上げたことがあるかどうかは、私から申し上げるのは差し控えたいと思いますが、外務省で大変やりがいのある仕事をさせていただいておりましたので、仕事を辞めるべきかどうかについて、だいぶ悩んだことはございました。この新しい決心をするまでに、十分に考える時間が必要だったということだと思います。
だって外務省で外交官になるつもりだったし。でもこっちの方が断然得だと思ったのは事実です。
「初対面の印象と五年ぶりに再会した時の印象は。またどこにひかれ合ったのかを」
皇太子 最初は昭和六十一年、スペインのエレナ王女が来られて、当時の東宮御所でレセプションが行われ、その席で会ったわけです。
その際、非常に強いというか、いい印象を受けました。
まず非常に控えめでいらっしゃるんだけど、自分の思っていることをはっきりとおっしゃって、それでいて聡明で、話題にも共通性があってお互いに心が通じ合うという感じを強く持ちました。話をしていて楽しい人というのが最初の印象です。
五年ぶりにまた会うことができ、最初に会った時のいい印象と同じようなものでした。
外交官として非常に大切な仕事をしているせいか、また人間としてひと回りもふた回りも大きくなった感じがして非常にうれしく思ったわけです。
雅子 最初の時は、大変緊張してごあいさつ申し上げたんですが、その後は、意外なほど話が弾みました。
とても気さくで、かつ配慮のある方だと思いました。五年ぶりに去年の夏にお目にかかった時は、楽しくお話をすることができました。その時点では、殿下のお気持ちをうかがっておりましたので、内心、正直なところ複雑な心境でございました。私が殿下のどういうところにひかれたかと申しますと、殿下は、ご自身がお苦しい時でも、他の人の苦しみについてまず先に考えられるようなそういう大変思いやりの深い方で、大変忍耐強くいらっしゃる。こう言ってはちょっと失礼かもしれませんが、とても人間ができた方と敬服いたしました。ご趣味、ご交際もとても広く、心の豊かな方でいらっしゃると思います。
話すのは楽しかったけど「結婚」とか言われても嫌だなと思っていた。殿下への誉め言葉はお父様が考えた事で私の意志ではないわ。まあ、人間が出来た人って感じ。
この「とても人間が出来たかた」という言葉が、その後、「皇太子殿下に対して失礼な物言いである」とクレームがつきました。お妃となる人は常に一歩下がらなくてはならないのに、自分が主役のようにふるまっていると、特に皇太子殿下の附育官だった浜尾さんには不評でした。
雅子 これまで六年近く勤めておりました外務省を去ることにさびしさを感じないと申したらうそになると思います。
やりがいのある仕事をさせてもらい、学ぶべきところも多く、尊敬すべき先輩や同僚に恵まれて充実した勤務でした。昨年の秋、いろいろ考えた結果、私の果たす役割は殿下の申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることではないか、と考え決心したので、今は悔いはありません。
皇室外交官になるの。
雅子さんは勘違いをしていました。
皇太子妃はあくまでも皇太子殿下のお妃であって、皇太子自身ではありません。それが「皇室という新しい道で自分を役立てる」などと言ってしまうと、いかにも就職したかのように聞こえてしまうではありませんか。
殿下からは私の心を打つような言葉をいくつかいただきました。
ひとつは去年の十一月の後半、「皇室に入るのはいろいろ不安や心配がおありでしょうが、雅子さんのことは僕が一生、全力でお守りしますから」と話しかけてくださいました。
さらに、十二月初め、「十分にお考えになって下さい」とおっしゃられ、ご自身も「大変悩んだ時期があった」とおっしゃられたので、「何をお悩みになられたのですか」とお尋ねしました。
「僕としては雅子さんに皇室に来てもらいたいとずっと思っているけれど、本当に幸せにしてさし上げられるのか、悩みました」と言われました。
そのような殿下の真摯なたいへん誠実なお言葉をいただき、幸せに思うことができましたので、「私でできることでしたら、殿下のことを幸せにしてさし上げたい」とお受けした次第です。
その間、殿下からは、私がお受けすることになれば両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている、ということで、私にとって大変大きな励みになりました。
一部で言われているように、直接、皇后さまから私にお気持ちをお伝えになられたようなことはありません。
ここからが大事ってお父様に言われたわ。しっかりと言質を取る事で事を有利に運ぶこと。それが大事だって。
「雅子さんの事は全力でお守りする」という言葉は30年たっても有功です。
「殿下をお幸せにして差し上げたい」という言葉を聞いた時、国民の多くは「随分自信がおありなのね」と思ったでしょう。まさか30年後に真逆になっているとは思いもせず。
皇太子 「両陛下、特に陛下には折にふれ、いろいろご相談して参りましたが、皇后陛下の方はこの結婚問題が始まったころから、当事者である私と、関係者に任せておられて、皇太子妃という立場を了承してこちらへ来て下さる方に対するお心を砕いておられたのです。
私が結論に達する前に、皇后陛下が特定の人に対して、それを否定したり、支持されたりするようなことは一切ありませんでした。
それは雅子さんの場合も同じです。皇后陛下としては、私が選んだ人を心から受け入れるという気持ちを終始貫いて下さいました。
今回の結婚に至ることを振り返ってみましても、両陛下がこの件をすべて私に任せて、そして信頼して下さって、そしてご自身は温かく私たちを見守って、そして長い年月をともに耐えて下さったということで、私はそのことに対して心から感謝したいと思っております。
とはいえ、やっぱり小和田雅子さん入内の陰には美智子皇后の動きがあった事は確かです。そうでなければ根回しもせず皇室会議に持ち込むなどと言う事がありましょうか?
- どのような家庭を築きたいか。お子さまは何人ぐらい?
皇太子 私自身、幸せな家庭に育った経験をもつ者として、安らぎのある明るい家庭を、と思っています。それは私たちがこれから様々な公務を尽くしていく上でも、また次代の子供たちにとっても非常に大切なものではないかと思っております。これから先、二人でお互い学び合って、ともに高め合っていくということもやってみたいと思っています。
雅子 基本的には殿下のおっしゃる通りですが、[[一言つけ加えさせていただければ]]、愛情に満ちた温かい家庭ということ。特に、苦しい時やつらいことがあった時にお互いをいたわり合って助け合っていくことができるような家庭にできればと思っています。
皇太子 子供についてはコウノトリのご機嫌に任せて、と申し上げておきましょう。
雅子 その質問に関しては多分出るでしょうと、一昨日お目にかかった時に、だいぶ相談しましたが、答えは出ませんで、殿下にお任せすると申し上げました。ただひとつだけ、これだけはおっしゃらないで下さい、ということがありました。それは殿下は大変音楽がお好きでいらっしゃるんですが、家族でオーケストラが作れるような子供の数、ということはおっしゃらないで下さいと申しました。
「コウノトリのご機嫌に任せて」という言葉がウケたと皇太子殿下は大変ご満悦でした。マスコミもちょっと笑いましたし。
でもその後の雅子さんの「家族でオーケストラが作れるような子供の数ということは・・
云々はマスコミもあっけにとられてただ乾いた笑いをするしかなかったようです。雅子さんはこの言葉も笑いを誘ったので完全に「成功」と思ったものです。
しかし、実際の所「懐妊するかどうか」は天任せ。世の中には不妊で悩む人もいる中、あのような大きな発言をされて喜んだ人はいないと思います。
また「一言付け加えさせて頂く」という官僚言葉ですが、これはお父様からもご注意がなかったようで雅子さんは当たり前のように使ってしまいましたが、これまた「皇太子殿下の言葉に付け加えるなんて」と随分失礼だと言われました。
- 雅子さんがお妃候補と騒がれた後、ご交際が中断し、宮内庁は一度、雅子さんを断念したようだが、その時の皇太子さまのお気持ちは。
皇太子 この件に関してはチッソの問題もあり、宮内庁の方でも慎重論が出て、一時は中断もやむを得ない状況になってしまいました。
その間、雅子さんも外交官としての研修中でもあり、外交官の仕事を続けたい、という意向でしたし、マスコミの取材攻勢もあり、お互い静かな環境のもとで、ゆっくり話し合うという機会がとれませんでした。
その間、私は常に雅子さんのことが念頭にあり、「本当に雅子さんでは?」ということを何回となく宮内庁にも申し入れをしました。
私は私自身の気持ちも大切にしたいと思いますけれど周囲の意見、周囲の考えも、これもまた大切にしたいと思っておりましたので、昨年、周囲の意見が雅子さんでいい、ということで固まった時は、大変うれしいものがございました。
チッソの孫娘だから何だっていうのかしら。おじいちゃまが悪く言われて不愉快なのはこの私よ。
当時、自民党の後藤田氏は「皇室に筵旗が立つ」としてこの結婚には反対でした。
お妃というのは、出自も育ちも純潔でいなければならない存在。
他の皇太子候補者が「朝鮮総督府に〇〇がいた」とかいうつまらない理由で辞退に追い込まれたのに「水俣病」の名で有名なチッソの会長、江頭豊氏を祖父に持つ雅子さんが堂々とお妃になれたこと自体がものすごい事だったんですね。
- 皇后さまは嫁がれた当初、慣れない皇室生活に苦労されたようだが、仮に雅子さんにそういうことがあった場合皇太子さまはどのように雅子さんを支えていくお考えか。
皇太子 皇后陛下の方から一切そのようなことに関する話はうかがってはおりません。私から拝見しましても皇后さまは大変明るく楽しい方で、そのようなことがあったと言われても、ちょっとピンと来ません。
ただ以前に皇后さまに、この件に関して、うかがった際に「私はいつも自分の足りない点を周りの人々に許していただいてここまで来たのよ」ということを言われたことがございます。その言葉が今でも非常に印象深く残っております。両陛下の歩まれた三十数年の歴史がありますので、雅子さんが大きな苦労をされることはないと思いますが、何分にも皇太子妃という責任のある重大な立場になるわけですから、苦労があった場合には、私がそばにいて全力をもって守って、そして助けてあげたいと思っています。
そんなこんなで緊張しまくりの小和田雅子さんの記者会見が終わりました。
一部「日本語としてよくわからない」部分がありますが、雅子さんは外国での暮らしが長かったので、日本語を話す時翻訳したような言葉遣いになると説明されていました。
実際は、非常にコミュニケーション障害だったわけですね。
雅子さんは皇后陛下からルビーの指輪を贈られました。
これは香淳皇后から頂いたものです。
本来ですと、皇嗣妃殿下に譲られてしかるべきものですが。
1993年2月9日 雅子さん退職