みました。簡単にレポします。
少なくともプライムニュースやBSフジなどに比べたらまともであったと言えるでしょう。
天皇退位によってとわれているもの
御厨貴 「上皇・天皇・皇嗣殿下と3世代が並ぶカラフルな皇室になる」
高森明勅 「日本の歴史の転換点
・国民に寄り添う天皇であるべきか
・ロボットのように御名御璽をするだけの存在なのか」
八木秀次 「退位には反対。退位を認めてしまうと天皇による即位拒否や非常に短い在位期間になるなどの問題が発生。きゅうくつであっても天皇の安定性を図る為には終生在位。
しかも現在は皇族男子が少ないのに生前退位を認めてしまっていいのか。
片山杜秀 「8月の言葉は第二の人間宣言であった。天皇というものは国民とふれあい、国民の親愛・敬愛を受ける存在で、それが出来なくなったら摂政という形をとらないでいつも国民とふれあっていないと天皇でないから辞めるという思想的な意見。
(今上の考え方 → いつも国民と触れ合っていないと尊敬されない存在だから、それが出来なくなったらやめるしかない。天皇とは能動的に活動しないと存在意義はないのだという思想にあふれた意見であった)
8月の天皇の言葉
「これまでのよう全身全霊をもって象徴の務めを果たしていく事が難しくなるのではないかと案じています」
務め・・・・国事行為 →憲法に規定された13のもの
公的行為 → 象徴の地位に反しない、国政に関与しない、内閣が責任をとれる・・の3条件をクリアすればなんでもできる。
平成になって公的行為が非常に増えた背景には国同士の付き合いが増えた事。
また天皇独自の慰霊の旅などが増えた事。
公的行為をする人こそ象徴天皇であるのか?
宮中祭祀
年間1700件あまり。
象徴天皇とは何か
・ 可能な限り積極的に公的行為をする事
OR
・ 国民の為に祈る存在
公的行為について
片山杜秀 → 国民の為に祈るだけでは人間天皇としての役割がたりない。
目に見える形で公務をするというのが人間天皇としての大事な仕事であるという事に
なると、それがあふれてきたので他の人にやってもらうか?いや、天皇自らが敬愛と親愛を受けなくてはならないのでだから天皇自らが出ていかないといけない事になる。だから「退位」という選択になるのか。
川西秀哉 → 国民と苦楽を共にする
精神、国民に目をむける存在でなければ象徴天皇としての存在意義がない。支持されないと天皇は思っている。公的行為が主な活動になているのはそういう理由でなしくずし的に増えていている天皇発の仕事としてやっているものを考え直さなくては。
八木秀次 → 公的行為にこそ象徴天皇の存在意義であると思っているのが天皇。一つ一つは有難いが国民は天皇の公的行為を当たり前と思ってはいけない。
公的行為をする事が天皇の本質なのかどうか検討するべき。天皇は存在する事が意義であり、祈る存在。
高森 → 公的行為に関して国民がハードルを上げるのはよくない。国民が苦しんでいる時に祭祀だけやっていればいいのか?つじつまがあわない。祭祀優先でやっているので、公的行為優先ではない。
御厨 → 公的行為を全部皇太子に譲るのは無理がある、何を公的行為とするかは、新天皇が自分で考えるべきこと。
河西 → 公的行為を評価。マスメディアの発達と共にきた今上天皇。取り上げられるからやる・・みたいな?
高森 → 公的行為は天皇発ではない。国民からの依頼で行っている。
八木 → 公的行為は天皇の裁量による。
公的行為こを天皇の意義であるととらえるか、その前に天皇は存在する事に意義があるのだ。
次世代により公的行為が見直されるべきだし、国民の依頼というなら国民が配慮するべき
片山 → 古代においても天皇は「徳」を大事にして、国見をするとか、歌を詠むとか、民の暮らしを見るとか、災害があれな清和天皇のように「天皇に徳がないから災害が起こった」という事詔として出すというような・・・古代から「ただいるだけ」ではだめなのではないか。
民の為を思っての祈りを見える形にするのも大事ではないか。
八木 → そこにいればいいというのではなく。機能的な事ばかり重視して、それが出来なくなったら代わりの人は誰がやってもいいというのじゃ。そうではない存在意義を確認すべき。
高森 → 天皇の徳に関しては帝王学として受け継がれている。
【ふぶきの疑問】
ただ祈る存在ではだめ、行動として見せる天皇として考えるなら現皇太子は全く不適格ではありませんか?
水の総裁とか国連とか・・・これが果たして「公的行為」になりうるのか?
天皇が動けなければ天皇たる資格がないというのなら、次世代の天皇はもっと危ないのではないか。
この時点で最も的確に言葉を選んだのは片山氏で全文同意です。
高森氏は女系支持派でものすごく歪曲して皇室を捕らえているような気がして要注意です。
八木氏はもっと言葉選びを的確にすべき。
河西氏と御厨氏は論外です。
「国事行為」よりも「公的行為」を重視してきたのが今上です。
皇太子時代から毎日のように障害者施設、老人施設、慰霊の旅を続けて、それを天皇になってもやろうとした事に無理がありました。
今にしてみると昭和天皇が「何もやってない」と印象操作する事が目的だったのではないかと思う程です。
ある時期から昭和天皇と今上の間には隙間風が吹き始め、今上は昭和天皇を全否定するようになりました。私達はリアルに「溝」がある昭和天皇と皇太子夫妻を見て来ています。
「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と昭和天皇はおっしゃったそうですが、それははるか昔の事です。
危ない時にすら摂政を置かなかった理由はイメージが云々というより、今上が考える天皇像に危機を感じたからではないかと私は思います。
高森氏は「天皇発の公的行為ではない」と言いましたが、私達国民からみると、今上の子的行為で国民発なのは「豊かな海つくり大会」くらいではないかと思います。
特に近年の慰霊の旅に関しては国民は一言も「行って下さい」とは言ってません。
また。被災地訪問にしても東日本大震災の時は「高齢の両陛下が来てもこっちが心配になるだけ」との意見も多かったはずです。
なのに「少しも早く被災地に行きたい」と言ったのは今上です。
その裏には雲仙普賢岳の噴火の時に静養中で批判された事によるショックが今もひきずっているのではないかと思います。
要するに何でもかんでも「国民から支持されないと存在意義がない」と思っているのが今上で、上皇になる事で余計に存在感を高めようとしているのではないかと。