タナボタ天皇 孝徳天皇の悲劇
皇 極:私の目の前で蘇我入鹿を討つなんて信じられない!頭、どうかしてるわ
中大兄:でも母上、入鹿は上宮王家を滅ぼした大罪人ですよ。皇族にとってこんな驚異はないでしょう。
皇 極:こんな権力争いはまっぴら。私は何も見てないわ。勝手にしたらいい。天皇なんてやめる。
中大兄:え・・・
皇 極:あなたが天皇になればいいじゃないの。
中大兄:じゃあ、叔父上。天皇になって下さい。
孝 徳:いや、私なんかより古人大兄皇子の方がいいと思います。
中大兄:古人は入鹿の婿ですよ。とんでもない。ここは叔父上に。
孝 徳:でもやっぱり古人大兄皇子が皇位につくのが筋だと思うので。
中大兄:蘇我氏じゃダメなんですって。叔父上。
孝 徳:でも私も歳だし・・・(下手に天皇になんかなったら殺されるかも)
中大兄:うちの大事な妹、間人を皇后に立てて下されば何の文句もいいませんから。
孝 徳:あんなに若くて綺麗な子をいいの?じゃあ、天皇になる。(まさか妹の夫を殺したりはすまい)
と言ったかどうかわかりませんけど、母の皇極天皇が退位したので、弟の孝徳天皇が即位しました。史上初めての「譲位」が行われたわけですが、理由は結構感情的。
ここで中大兄皇子は皇太子になりました。
中大兄皇子がこの時、即位しなかった理由は色々説があります。もっともポピュラーな理由は「皇太子という身分でいた方が自由に政治が出来るから」というものです。
でも最近では彼と間人皇女の同母なのに愛し合っちゃった件や、どうみても滅びそうな百済に肩入れしすぎる件、そして乙巳の変などで人望がなかったんじゃないの?という見方もあります。
孝徳天皇って結構影が薄いですよね。女帝の弟なのに皇位継承権はほとんど期待できない地位にいました。その理由は
父の出自がイマイチ
蘇我氏の血を引いてない
ですけど、お姉さんは舒明天皇の皇后になってしかも女帝にスライドしちゃったわけですから「天皇の大后」という地位は何にも代えがたい大きな地位ですね。
舒明天皇・皇極天皇の流れで直系相続は頭の中に入っていたと思います。皇極天皇だって出来れば中大兄皇子に継がせたいと思っていた筈。でも、彼女からすれば次々にライバルを先手を打って殺していく中大兄皇子は「不肖の息子」だったかもしれません。
以後、彼女の生きがいは中大兄皇子と越智娘との間に出来た可愛い孫息子の建皇子になっていきます。
譲位した皇極天皇は弟から「皇祖母尊」(すめおみやのみこと)という称号が贈られました。
影が薄い孝徳天皇の時代ですがかなり大きなことが多々怒っています。
645年 元号を「大化」とする
中大兄皇子を皇太子にする
阿倍内麻呂を左大臣に蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任命
大化の改新
戸籍の作成・新羅・百済・高句麗から使者
僧旻などを呼び寄せ、仏教の発展に貢献する
古人大兄皇子が中大兄皇子に殺される
649年 蘇我倉山田石川麻呂が謀反の罪で自殺させられる
650年 白雉と改元
653年 難波宮から中大兄皇子らが引き揚げ、天皇は一人ぼっちに
654年 中臣鎌足に紫冠を与える
崩御
孝徳天皇は仏教を深く信仰し、性格的にも優しかったようで、政治や外交にも意欲的に取り組んでいきますが、それがまた中大兄皇子からすると面白くないわけです。
そもそも「天皇になって」と言ったのは中大兄皇子なのに、なって頑張ったらそれが気に食わないなんてあまりにも意地悪じゃないですか?
さて、蘇我氏は入鹿と蝦夷の死で滅んだのかというとそうではありません。中大兄皇子の妻である越智娘の父である蘇我倉山田石川麻呂の一族が残っていましたし、以前として蘇我氏というのは朝廷でかなりの権力を持っていたし、相変わらず「后を出す家柄」として名門でもあったわけです。
だから孝徳天皇の右大臣にもなったわけで、これは決して中大兄皇子にとっても悪い話ではなかったんですよね。
中大兄皇子の正妃は倭姫で彼女は古人大兄皇子の娘。つまり蘇我系のお姫様。そして夫人は越智娘。こちらも蘇我系です。家柄としてはピカ一のお后達でもし建皇子が長生きしていたら当然「皇位継承権1位」になった筈です。
孝徳天皇としては今までの政治の流れをそのまま引き継いで、うまくやって行きたいなと思ってて、小足媛の父である阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にして中大兄皇子の顔を立てたつもりだったでしょう。
でも、真面目になるほど中大兄皇子からは嫌われるというか、この中大兄皇子という人は心が猜疑心で一杯なんじゃないか?どこかで自分が実力不足であることを思い知らされて、地位を奪われると怖がっていたんじゃないかと思うんですね。
まず、自分の正妻である倭姫の父親を殺し、次に皇位継承順位に最も近い男子を産んだ越智娘の父を殺す。これでほとんど妻達からは信頼の「し」の字もなくなりますよね。
越智はこの件で気が狂ったとも言われ、結果的に早死にするし。
そうまでしても蘇我氏を滅ぼさないと自分の身が危ういと思っていたんでしょう。
孝徳天皇が自分のただ一人の息子である有間皇子を皇太子にしたかったかどうか、わかりません。自分の即位もタナボタなら息子もタナボタいける?と、そこまでおバカだったとは思わないんですけど、中大兄皇子はそう思ってしまった。
だから自分の方がいかに天皇より権力があるかを見せつける為に、遷都を促し、断られると母親も妹も弟も引き連れてさっさと去る。
有間皇子と取り残された天皇は、寂しくて悲しくて、でも追い打ちをかけるがごとく
「中臣鎌足に紫冠を与えて下さい」と中大兄皇子に命令されてしまう。
正直、中臣鎌足?それって入鹿を討ったヤツじゃない?くらいしか思ってなかったかも。
蘇我氏というのはこの時代になっても名門なのに、いきなりどこの馬の骨ともしれない中臣氏に紫冠って・・・でも断れず。孝徳天皇はその直後に亡くなるのです。
斉明天皇重祚
斉 明:今度こそあなたが天皇になりなさいよ。私はあなたに代わって建皇子を育てる仕事があるから。
中大兄:・・母上、もう一度天皇になって下さい。
斉 明:はあ?自分が天皇になりたいから古人大兄皇子を殺したんじゃないの?越智の父親に謀反の罪を着せて殺したのもお前よ。ああ、恐ろしい。自分の妻達の父親を次から次へと殺すなんて。
中大兄:仕方ありません。そんな罪深い私が天皇になるより母上になって頂いた方が国の為でしょう。
斉 明:私はもう本当に歳なのよ。
中大兄:いえいえ母上はまだお若い。まさに国の母として君臨して下さい。
とまあ、ほぼ強引に再び天皇にされてしまった斉明天皇。
要するに中大兄皇子にはそれだけの抵抗勢力がいたということなんです。
658年 有間皇子 処刑
建皇子 死去
660年 百済が滅び、豊章が亡命してくる
まず、重祚して斉明天皇は何かタガが外れたというか・・・どういうわけか公共事業に没頭し始めます。それには税金が必要で、じゃぶじゃぶ使いだすし、労役もどんどん負担させるし、だんだん民の不満は溜まっていきます。
きっと天皇にしてみたら「いいこと」をしているつもりだったろうし、中大兄皇子にしてみれば「母上が好きなことをやってくれてたら自分は外交に費やせる」と思っていたんでしょう。
蘇我赤兄:有間皇子さま。大王は間違った政治をしています。いまこそあなたが大王になるべきかたです。
こそっと孝徳天皇の息子である有間皇子に耳打ちした蘇我赤兄。蘇我氏はここでもちゃんと生きていて、中大兄皇子に忖度して有間皇子に謀反を起こさせ、結果的に処刑してしまいます。
有間皇子:天知る、赤兄知る、吾知らず
と言い残した有間の辞世の句、「家にあれば笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 」(家にいれば茶碗に盛るご飯を旅先の今は椎の葉に盛る)
は哀しすぎますよね。政争から逃れたいが為に気が狂った振りもしたけど、ごまかしはきかなかったというわけです。
この出来事も斉明天皇にとってはショックな事でしたでしょうけど、一番はあれほど可愛がっていた建皇子を失ったことです。
建皇子が瀕死の時は氷室を開けさせ、貴重な氷を削って食べさせようとするほど愛していたし、「皇孫」の称号も与えたし。
口をきかない建皇子は斉明天皇にとって「安心」そのものだったんですよね。
なのに、僅か8歳でこの世を去ってしまう。
傷ついた斉明天皇。けれど息子の中大兄は「百済を救おう!」運動を始めるわけです。
救うったってもう滅んでいるのに、回りだって「今は百済の時代じゃないでしょう」って言ってるのに、何だか一人で空回りして船を出し・・・斉明天皇は旅の途中で亡くなってしまいます。
次から次へと自分のライバルになりそうな人を殺して、母親を失って、これで晴れて天皇に?と思ったらそうでもない。
中大兄皇子の孤独な戦いはまだ続くのです。