宝塚脚本集 昭和11年11月号(春秋付き)
今回はちょっと物議をかもしだした文章を紹介しましょう。
宝塚論いろいろ・・・・引田一郎
最近我が宝塚少女歌劇において、悲観論、楽観論色々な意見がある。
その第一は悲観論であって、少女歌劇の時代はもう過ぎた、いまや古川緑波や
エノケンや日劇アトラクションの隆々たる人気と喝采を見て、少女歌劇のレビュウは
下火になってこれらのショウが天下を風靡する、やがてもっと本格的な男女混成の
オペレットやレビュウが出現して次の時代を形成するというのである。
エノケンや古川緑波は浅草オペラで一斉を風靡した芸人さんです。
日劇は、丁度このころダンシングチームが出来ていましたね。両者とも
いわゆる「一般大衆向け」の娯楽でした。
明治になり歌舞伎や狂言が衰退する中、外国からオペラが入ってきて
帝劇などで上演されるも、難しすぎてあまり客が入らず・・・・
新劇の松井須磨子が人気だったけど「復活」の上演は失敗・・・か?と
思ったら「カチューシャの唄」の大ヒットで客が増えた・・みたいな?
まだまだ真の外国芸術を理解できる国民は少なかった。
そこに小林一三が目をつけて「国民劇を作ろう」としたのが宝塚少女歌劇です。
家族みんなが見て楽しめる舞台作品を作り、ついでにファミリーランドで
遊んで阪急の食堂で外食して帰る・・そんな庶民のライフスタイルを決定した
芸術の急先鋒だったんですね
第二は、宝塚少女歌劇は、宝塚を離れてはその雰囲気、その醍醐味は
わからない、宝塚少女歌劇は宝塚という山水に囲まれた天地、民衆娯楽の
理想郷においてのみ真価がある。ゆえに毎月東京へいくのは無理である。
大作品やいい芸術品の生まれた時のみ東京へ行って真価を問うべきだ。
今より関東と関西の「笑いや泣きのツボ」は違っていたでしょう。
「宝塚は関西のもの」という意識が強かったんでしょうね。
第三は少女歌劇還元論である。
近頃の少女歌劇は大人の物になりすぎた。少女がいかにも人生を知って
うかのごとく深刻ぶったり、愛だの恋だのと悲愴がるのは変態だ。
無理だ、子供に返れ、童心に返れ、おとぎの国へ返れ、女性の家に返れ
清く正しく美しい純な学校として、劇団としておとぎレビュウ中心にせよ。
もっと教育的なもの、愛国的なものにせよ、子供の友、国民教育の機関たれ
という意見。
脚本集を読んでいると、このような「少女に返れ」的な意見を多く見ます。
男役の台頭でアイドル並に女学生がきゃあきゃあ言うのを「はしたない」と
考える大人が多かったんですね
いわゆる「どんぶらこ」に戻れ・・・ってそりゃあ無理ですわ
こういう考え方をする人というのは、本当は舞台を見る事に多少の
「罪悪感」を持っていたのではないかと。
それを誤魔化す為に「教育的だから」「害がないから」と言い訳していたのかも
しれませんね あるいは、相当な男女差別主義者で、女性に知識を得る・・
いわゆる「大人」になる事を許さない考えとでもいいましょうか。
第四は少女歌劇は独自の芸術であるから、いくらでも新しい分野はある。
しかし今のように保守的で伝統に囚われていてはダメだ。
演劇競争の激しい東京にもっと目覚めよ、東京向きのものを作れ、東京で
第一人者であるに非ずして、どうして関西の宝塚の名声も支持していけるか
勉強せよ、何でもよいではないか。大人のものでも子供のものでも
要は熱だ、力だ、意気だ、東京本位にすべきだ、もっと一般劇団的になれ、
学校なぞという修道院式はやめよ、都会的たれ、自由にやれ、生徒を解放せよ
という意見。
第3の意見と真逆ですよね。これまた進歩的というか進歩的過ぎるというか。
東京には一体どれだけの劇団があったのかしら?
でも本拠地に比べたらよっぽど国際的な文化が花開いていたと思います。
でも、これは「個性」を潰す結果になりかねない考えですね。
宝塚少女歌劇の内容と構成について、今マンネリズムとか古臭いとか
言われる、沈滞期だとも不振時代とも言われる。がしかし、常に進歩して
やまざる宝塚は、色々な道、色々な経路を経つつ、やはり時代のリーダー
として、新しいものを常に生んでいく自信がある、希望がある。
私達は校長のよき正しき指導の下に、常により力強き宝塚少女歌劇を
作りたく念願してやまない。我々には宝塚は故郷であり、少女歌劇は生命で
あるから。ファン諸賢の絶大なる支持と鞭撻を懇願してやまないのである。
賛否両論あっても宝塚を見捨てることが出来ない引田氏の意見は
今も共通の話。
たとえ「仮面の男」が不評を買っても、「次はきっとましよ」と思い劇場に
通うファンの有難さ。そんなファンを「音楽学校裁判」で劇団は潰して
しまい、もはや同情の余地すらない状況
ネットでは毎日ファン同士のたたき合いが激化しています。
何かを書けば「悪口を言われた」「嫌なら見るな」とすさまじい勢い
昭和11年当時のファンはきついことをいいつつも「宝塚への愛情」が
全身からあふれ出ていますよね。
春秋評論ー「ゴンドリア」雑感・・・鹿谷雄
東郷静男氏の第2作「ゴンドリア」を見る。
「宝塚100年にむけて」で紹介した東郷静男氏の「ゴンドリア」です。
ほとんどの意見は「わけがわかんない作品」という事で、今で言うなら
正塚先生のような?
櫻緋紗子よ、君は近頃一体どうしたんだ?もっぱらに甲高い、
早口の台詞を喋ることによって寂しい性格が表せるとでも思っているのだろうか。
なる程、その姿態はいい。顔も綺麗だ、だが台詞を言った途端にうら悲しい
幻滅を感じる。「憂愁夫人」のサラーはどこへ行ったのだ。
誰が彼女をかくもゆがめてしまったのだ。
櫻緋紗子さんは娘役で「憂愁夫人」(中西武夫作)という名作において
ヒロインを演じた方です。しかし、「憂愁夫人」以降、ふられる役がヒステリックな
性格を持つものばかりという現実がありました。彼女にふさわしい役を
与えてくださいということなんです。
「憂愁夫人」のサラーを演じた櫻緋紗子さんです。
(美空暁子とのラブシーンにおいて)
二人は一体何をぼしゃぼしゃ喋っているのでしょう?最もうんよく「い」の席
あるいはその付近が買えたならばいざ知らず、不幸にして真ん中あたりから
後ろへ座ったならば大凡この「ゴンドリア」はわけのわかからない面白くない
ものになってしまうだろう。
この責任は櫻とその恋人美空の間にやりとりする重要な台詞を判然と聞かさないという
ことに全部かかっているのだ。一貫したストーリーを持つレビュウで
その台詞が何を言っているのかわからないなんてことはおおよそ憂鬱で
辛抱しきれないことである。
「い」の席とは最前列。その昔、宝塚の劇場は「いろは」順でした。
音響が悪い当時にあって、台詞が聞き取れないなんて言語道断ですよね。
観客に不親切なのは今も昔も同じ?
『ゴンドリア」について・・・二宮隆一
「ゴンドリア」は、あの素晴らしい衣装や装置におけるモダンな色彩感覚
演出における比較的新しい手法にも関わらず、なんと筋の古臭く、くだらない
事であろう。作者、東郷氏に言わせると何とか氏の哲学とかに関係があり
「生徒を教育する」為に難しい理屈から物した、教訓的なものだそうで
あるが、確かW/Bギルバートとアーサー・サリバンのものにも同名の
作があり、偶然同じようなものが二つで来た為に哲学的な必然さが
あるだろうと僕は思っている。
脚本家はその脚本の内容の古さを、観客の水準に迎合する為だといい
わけするのが常であるが、そんな風に我々の水準を低く見て頂くのは
実をいうと大変アリ型迷惑で、我々は作者の方々がご親切にご推測
下さるほど古臭いものが好きではないのである。
かつて太田先生がバウ作品で「生徒を教育する」目的で作品を作って
いた事がありました。「ホップスコッチ」とか「それでも船はいく」とか
歌劇というよりはストレート芝居のような雰囲気を持つ、台詞で納得させよう
とする毛色の違ったもの
私などは試みとして面白いと思いましたが、一般的に見ると
「私達は生徒の発表会にお金を出しているわけじゃないわ」という意見が
多かったですね (ぜひ「ホップスコッチ」を見て下さい)
本当は気高い思想で描いていてもそれを理解できない観客が悪い・・・
多分、児玉明子はそう思っているだろうと思います。
実際の東郷作品を見た事がないので、今後「ゴンドリア」の脚本を手に入れられたら
じっくり読んでみたいけど。
でも、実際今でも観客が「ついていけない私が悪いの?」と思う作品って
結構ありますよね。
(私の中で荻田浩一の「螺旋のオルフェ」がその一号。木村信司の
「不滅の棘」なんて原作読んでもまだわからない)
中劇場公演を見て・・・江戸門せい
「ハッピープリンス」を見て・・・・「ハッピープリンス」という紙芝居を見せられた
ような気持ちが致しました。何かうすっぺらな紙の人形が動いているとか見えません
でした。
「ハッピープリンス」は私も脚本を読みましたが、訳がわからない作品でした。
脚本そのものの筋が通っていない印象を受けました。そういう時でも生徒は
笑顔で神剣に演じないといけないわけで。可哀想な話です。
どうぞ、先生方、中劇場には最も腕によりをかけたものを出し、私達に
本当の芝居を、歌を、ダンスを楽しませてください。、
以前あれだけ楽しかった歌劇、楽しかったレビュウを今だから見せて頂けない
筈はないと私は信じております。
それなのに何故、このごろの歌劇は私達を失望させるのでしょうか。
童話劇でも喜歌劇でも悲歌劇でも、オペレットでも大レビュウでも何でもいいのですい。
私達がいつでもお友達や周囲の人に
「宝塚は面白いわよ、見にいらっしゃいな」と鼻高々といえるような宝塚に
してくださいませ。広告文でいくら面白い宝塚と書いても、見て来た私達が
それを照明しなければ何にもなりません。
宝塚を宣伝する事をファンの間では「布教」と読んだりしますが、最初に
何を見せるかで悩んだ経験はどなたにもあることでしょう。
ましていつも通っているファンが「またか・・・」と思うようなへんてこな作品を
上演されてしまうと
この頃の宝塚はワンパターンになりつつあった時代です。面白くないと感じる
最大の理由は「スペクタクルがない」って事かしら?
「ベルばら」のような「エリザベート」のような、周囲をあっといわせる作品が
出て来ないし、かつて一世を風靡した先生方は歳をとり・・・って今と
似ています。
「ハッピープリンス」のプリンス、宇地川朝子さん。
ハッピープリンスの1場面。何だか夢ゆめしい。