よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

旅行記ー奈良と京都

2006年11月27日 | 旅行
奈良と京都。ともに日本を代表する観光地だが、極めて対照的だ。イメージはヤングの京都に対し、落ち着きの奈良か。

それにしても、あの京都駅の戦艦を思わせる駅の異様は何か。そして駅前の混雑。何せ人が多すぎる。ドイツかオランダから来た青年が、京都に着いて、ココがホントに京都なのか一瞬疑ったと言っていた。こんなはずじゃない!と。本人もサムライ時代へのタイムスリップを期待して来たわけではないのだが、それにしても、もっと田園風情を期待していたらしい。
何処へ行っても人混みの連続で、ゆっくり感が無いのだ。以前、娘と二人で久しぶりに京都を散策でもするか、と出かけたが、バスは満員、降りても人の尻を見ながらの歩きは、兎に角疲れた。散策どころではない。もう懲り懲りである。娘は今でもたまに出かけるようだが。

その点、奈良は人が少ないのが良い。観光収入としては問題なのだろうが、観光客としては、ゆっくり味わえるところである。地味なところがヤングには受けないのかもしれないが、どこへ行っても落ち着いて見られる。その意味では40歳以上の世代向けかもしれない。

アメリカ人と話すと、ビジネスの東京、観光は京都とくる。京都は知名度抜群である。そんな時、よし坊は隠れたお薦め観光地として奈良を紹介することにしている。しかし、その奈良も駅を改造すると言う。近代化の流れは古きを押し流す。


アンとアンディの旅

2006年11月15日 | 旅行
ワイフはアンとアンディのコレクターである。従って街道筋にアンティークショップが有ると降りる羽目になる。場所によっては拾い物があり、今までにも2,3いい買い物をしているようだ。

そんな訳で、今年もアンとアンディのふるさとへ行ってきた。片道12時間くらいの旅だから、途中で泊まりだ。

ふるさとは、シカゴの近く、と言っても240キロ位南の、Arcolaという、誠にど田舎にあり、それ以外には隣接してアーミッシュの村があるだけの、日本人的に言えば、ひどく寂れた町である。
しかし、日本人がケッタイなのか、それともファンというのはそういうものなのか、毎年5月にフェスティバルがあり、日本からも大挙してファンが集まるという。ここにその小さなみやげ物屋兼ミュージアムが有るのだが、入ってみるとビックリ。

何がビックリかというと、みやげ物を売っているスペースの3分の1くらいが日本コーナーとしょうして、関係する日本グッズで埋まっているのだ。おまけにアンとアンディとは関係ない雛人形まで置いてあり、目一杯日本をアピールしている。聞けば、お祭りは日本人が大変なフィーバーぶりで、満足げに帰っていくそうだ。
アンとアンディを介してとは言え、アメリカで「日本」という塊がこんな片田舎に存在していること自体、なんとも、珍しいことである。

日本でも大都市で定期的にフェアを開催しているらしいので、ひょっとすると、全売り上げの相当数は日本での売り上げなのかもしれない。
それにしても、アンとアンディの凄さ、ファンのみぞ知る。

旅行記ーポルトガルの闘牛

2006年10月27日 | 旅行
ワイフはスペインで闘牛を見たかったのだが、時間が無く、次の訪問地ポルトガルのリスボンに入った。ホテルのパンフレットで何かイベントが無いか見ていたら、ここにも闘牛があるらしい。早速案内で聞いたら、有るという。

スペインの闘牛は映画や本に出ているので馴染みがあるが、ポルトガルのはどうせ亜流だろうとタカをくくっていた。そんなことだからワイフも全く期待せず、の様子。

ところが大違いである。これまた面白いのである。我々が良く知っているスペインのスタイルは、闘牛士が赤い布をこれ見よがしに牛を挑発し、その突進をスルリとかわして喝采を浴びるが、これと全く違うのには驚いた。

まず、牛を殺さない。最初に二人の貴族然とした衣装を纏った騎士が馬に乗って現れ、牛と戦う。クライマックスは7~8人の闘牛士が出てきて、縦一列に並び、牛に向かって一歩ずつ近づき、牛の突進を全員で受け止め、おとなしくさせれば勝利。スペインのように、赤い布などは使わない。さながら、アメフトのタックルとラグビーのスクラムをやっている様である。

どうせ大したことはないからと、ゆっくりビデオを撮る積もりが、あまりの面白さに興奮し、後でビデオをチェックしたら、画面はブレるは、移っているのは地面やらで、肝心の場面は殆ど写っていなかった。今でも家族からのブーイングが止まない。

旅行記 -灰色の東ベルリン

2006年10月17日 | 旅行
1988年 当時の西ドイツのフランクフルトから空路西ベルリンへ入った。ホテルにチェックインした後、初めての西ベルリンを歩いてみた。西側諸国のどこの大都会にも有る喧騒と雑踏の中に居ると、隣に東ベルリンが存在することなど全く感じない雰囲気である。

翌日、観光バスで、東ベルリンへ入った。東側へ入ると、空気というか、色が一変する。総天然色(カラー)から白黒の映画の世界に逆戻りである。
街には概ね、ソ連製の古い小型乗用車ラダが、くたびれながら走っており、兎に角、静かの一言である。

何と言っても見所は、ベルリンの壁、ブランデンブルグ門、そしてペルガモン博物館。特にペルガモン博物館は、分捕った遺跡を再現して、圧巻である。そして、忘れてならないのが、東西冷戦を舞台としたスパイ小説に必ず出てきた、東西ベルリンの唯一の出入り口である、チェックポイント・チャーリー。

だが、このベルリンの壁が、まさか一年半後に、崩壊しようとは当時は思いも寄らなかった。今ではベルリンは一つとなったが、確か、崩壊後の新年のブランデンブルグ門前での記念コンサートは指揮者は忘れたが、曲はスメタナの「わが祖国」ではなかったか。感慨深いものがある。それにつけても、自由の無い国は悲しい。

旅行記ーポルトガル、鯵の開きとモラエスと

2006年09月11日 | 旅行
ポルトガルが近い国に感じるのは、鉄砲の種子島やその他南蛮文化の伝来の為だろうか。ポルトガルにいつか行ってみたいと思ったキッカケは新田次郎が新聞で連載を始めた「弧愁、サウダーデ」。かの有名な小泉八雲と同時期に日本を訪れ、最後は徳島に骨を埋めた、ヴィンゼスラウ・デ・モラエスの物語。残念なことに、作者の急逝で連載が打ち切られてしまい、これがかえって私の想いを強くした。新田次郎は1980年に亡くなっている。

91年、ヨーロッパ出張で、一泊二日のポルトガル日程が入り、もしや、モラエスの生家を訪れるチャンスかと小躍りしたが、さすがにタイトな日程にて叶わず。しかし、初めてのポルトガルは期待を裏切らずであった。

到着当夜、同行者と晩飯を食べに外へぶらり。暫く歩くと、何の変哲も無い食堂が出てきたので、その匂いに誘われ飛び込んだ。中は、ありきたりの安っぽいテーブルに丸イス。注文取りが来たが、言葉分からずで、周りを見渡し、人の食べているものを指差した。スープらしきものと焼き魚。

食事が来た。スープはブイヤベース。焼き魚は鯵の開き。正確には日本の鯵とはちょっと違うようだが、私の中では鯵。こんなところで鯵の開きが食えるとは、と同行の同士と乾杯 乾杯 又乾杯。

人間、食べ物がいいと、その土地が好きになる。鯵の開きの発見で、ますますこの国が気に入り、いつか、母ちゃん(ワイフのこと)にも食べさせたいと思ったが、実現したのは、大分後のことだ。

旅行記ーイタリアン・ジョブ

2006年08月16日 | 旅行
イタリアン・ジョブという痛快な映画があったが、イタリアを旅行するととんでもないジョブに出くわす。

イタリアはジプシーが多い。そして、彼らのイタリアン・ジョブに悩まされるのだ。要するに引ったくりである。それも公衆の面前で堂々とやるから、こちらもつい油断する。その手口も様々。背中に何か付いていると注意を逸らした隙に引ったくる。赤ちゃんを連れて近づいてくればこちらも油断する。人ごみで新聞紙をターゲット(人)の胸元でおっ広げれば、胸から下の視界も遮断され「え、何?」と一瞬の隙。挙句の果てにはポケットに手をつっこんできたり。油断も隙もない。

以前、上司と仕事でイタリアに出張、休日が入ったので、一日バス観光。降りたところでひと騒動。まず、我々の前に降りたアメリカ人にジプシーが殺到、引ったくらんとしたところで、そのアメリカ人が一喝、パッと引いた。と思ったら、次なるターゲットが我々。危ういところで、「コノヤロー」。事なきを得た。

我が家族旅行では、この経験が功を奏し、ワイフも子供もジプシーと見たら、全身身構え、目をそらさず隙を作らず、近寄らず。と思ったら肝心の拙者が危うくやられそうに。

ミラノの通りを歩いていると、反対側の通りをジプシーの女性がキャスター付き旅行バッグを引っ張りながら全力疾走、その後ろをビジネススーツの男性が追いかけている。と「待て、このヤロー」の声が。そのニッポン人が追いついた途端、女はカバンから手を離し一目散。周りの人はただ見ているだけ。日常茶飯事でニュースにもならないイタリアか。

イタリア旅行はくれぐれもご用心。