よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

海のサムライ Nobuo Fujitaと日本刀

2020年02月27日 | アメリカ通信
オレゴンに行ったら一度訪れたい場所がある。オレゴン州ブルッキングス市立図書館の一角に旧海軍中尉のエースパイロットNobuo Fujitaが寄贈した日本刀が飾られ、そこに「アメリカ本土を爆撃した唯一の日本人」として、かつての敵同士が日米友好のシンボルとして称えられている。このことを知ったのは、一冊の本だ。

昨年日本へ行く折、持ち帰る本をネットであさっていた時「アメリカ本土を爆撃した男」(倉田耕一著)が目に留まった。帯の句に”自国を空爆した敵になぜ大統領は星条旗を贈ったのか?”とある。アメリカは嘗て一度も本土を外から爆撃されたことは無かったのではないか。9.11テロをブッシュは”戦争”と言ったが、あれはイラク突入の方便だ。それまで、遠く離れた島、ハワイを真珠湾攻撃されたことはあるが、本土と言う意味では一度もない、と言うのがアメリカ人の認識である。だが、本の主役である藤田信雄氏は当時としてはMission Impossibleとも言えるどえらい偉業を成し遂げていたことになる。

海軍屈指のパイロット藤田氏が軍命によりアメリカ本土爆撃の任務に就く。飛行機は今で言うセスナ機レベルで潜水艦搭載の折り畳み式というから驚く。当時としては世界でも日本軍独自のものらしい。この小型機は水上偵察機だが、この任務の為に重い爆弾を搭載して、いわば決死の出撃である。

爆撃目標が面白い。軍施設とかではなくオレゴンの森林地帯なのだ。このアイディアは「アメリカは山林が焼けることで甚大な被害が生じる国だ」とする海軍の考え方による。アメリカに住むとよく分かるが、今でも特に西海岸側の山火事で毎年甚大な被害が出ている。陸軍と違い、さすが海軍は外国の事情に当時から精通しているのが分かる。

昭和37年、戦争を生き延びた藤田氏に突然、池田内閣の官房長官大平正芳から面談要請が入る。藤田氏が爆弾を落としたブルッキングス市が毎年開催している祭りのゲストに彼を招請する為の身元照会が来たという。日米友好のために爆弾を落とした張本人を招待したブルッキングス市も味な事をする。藤田氏は渡米し、大歓迎を受けた。その時、万一の為(現地で敵として襲われた時の自決用)に持参した日本刀を寄贈した。

アメリカの歓迎がその後の藤田氏を変えたのだろう。歓迎への恩返しをする為に長年(23年)に渡り少ない食い扶持から100万円近くを貯め、1985年の筑波博に私費でブルッキングス市の若者を4人招待している。この時にアメリカは又してもニクい事をする。時のレーガン大統領が元海軍中尉としての偉業とその後のアメリカへの友情を称え、星条旗を贈った。

この星条旗もただの星条旗ではない。わざわざ一日ホワイトハウスに掲揚したものだという。保管所に眠っている予備をそのまま包んだのではない、ということだ。なんとも心憎い仕業ではないか。もうひとつ、星条旗寄贈に伴う大統領の言葉は藤田氏、ではなく元海軍中尉藤田信雄である。アメリカは国家に仕える者を大事にする。とりわけ、国防を担う軍人に対しては、その称号をもって最大級の敬意を表するのがしきたりである。こういうところがアメリカ(のみならず諸外国ははきちんとしている(ひるがえって日本はどうであろうか)。

1997年10月、NYタイムズが85年の人生を閉じた藤田信雄を全米に発信した。












昭和の足跡(9)塾通い

2020年02月22日 | 昭和の足跡
受験戦争と塾通い、昔からワンセットで言われてきたお題目である。

よし坊は小学校の3年生頃から塾に通っていた。と言っても有名中学を受験するなどと言うようなものではない。ちょっとした流行でもあったし、仲の良い友達が行くというので親にせがんだ。勉強の上達は二の次だった。そのころ、塾の近くにラジオの文化放送のお偉いさんが住んでいたらしい。ある日、塾の休憩時間に外で遊んでいると、黒い高級車が通って、先で止まった。出てきたのが長嶋茂雄であった。我々子供たちは一斉に走った。

子供の頃から何故かしら英語に興味があった。そこで小学校6年になるころ、親に頼み込んで英語の塾に行くことにした。新宿の方にあったプロメテ学園といいう塾だ。

中学に入るとショッキングな事があった。クラスに途轍もなく英語の出来るのが居た。今で言う帰国子女である。父親が自衛隊とのことだが、当時では自衛隊と外国が結びつかなかった。今でもそうだが、外国大使館には自衛隊や警察出身の駐在武官が派遣される。彼の父親もそうだったのだろう。それに刺激されて、高田馬場にある外語学院という塾に通った。この塾クラスで知り合った二人の九州出身の友達から教わった土地の歌、デンデレリューダーは今でも覚えている。

高校では英語だけは成績が良かった。2年になる直前、英語の矢吹先生から、交換留学の試験を受けないか誘われたが断ってしまった。もうひとり誘われていた別のクラスの山下嬢は試験を受けアメリカに飛び立ち、一年後、3年になった時2年に編入で帰国した。何故、あの時断ったのだろうか。後々の進路も変わっていたかもしれない出来事だった。そして希望通り大学で英語を専科とし、ビジネス英語に注力した。

何故あの頃英語に興味を覚えたのかを考えた時、思い当たることがある。当時小学生の頃、親父に海外技術援助スタッフでシンガポールへ行けるチャンスがあった。何故覚えているかと言うと両親の間で騒動があったからだ。母が親父に行ってくれるなとエライ権幕で言い立てている。結局行かないことにしたのだが、その時だろうか、外国、シンガポールなどが頭にインプットされたのは。いつか親父が行けなかった外国に行こう、と思うようになった。




アメリカのかたち

2020年02月18日 | アメリカ通信
日本の敗戦後の混乱が落ち着いた1950年代後半から60年代はアメリカ文化が溢れていた。身近になりつつあったテレビにはアメリカのドラマが幅を利かし、巷で上映されるアメリカ映画は西部劇が多かった。西部劇には二つのパターンがあり、ひとつは白人の保安官と白人の無法者の対決であり、もうひとつは白人とインディアンの戦いであった。インディアンとの戦いでは常にインディアンが悪者であり、白人は常に善人のヒーローとして描かれ、”悪いインディアン”が日本人に定着した。本当は土地を搾取略奪していったのは白人なのに。

アメリカに来ると、やたらと変わった地名や固有名詞に遭遇する。身近な所ではChattahoocheeリバー。アメリカの南部のみならず北へ旅行しても随所で変わった地名に出会う。そんな時、あ~、ここは元々アメリカ先住民達の土地だったのだな、と思い、”征服する者とされる者”を実感する。

アメリカ南部に住むと、一度は「Tears of Trail」という言葉を耳にする。かつて南部には5つのアメリカ先住民部族があった(GA/AL-Cherokee族、Creek族、MS-Chickasaw族、Choktaw族、FL-Seminole族)。攻勢に立った当時の合衆国政府は南部の攻略と安定の為に、部族と協定を結び、オクラホマに居住代替地を用意して強制移住封じ込めを計った。移住は困難を極め、多くの犠牲者が出たという。これがTears of Trailと言われ、それは今から約200年前に起こった。

アメリカの骨格は51州と5つの自治領(DC、グアム、アメリカンサモア、北マリアナ諸島、米領バージン諸島とプエルトリコ)から成り立っている、と言うのが一般的なところであるが、約200年前の協定に基づき合衆国が自治権を認めているアメリカ先住民自治区が存在することはあまり知られていない。

5自治領とアメリカ先住民自治区の違いは国政への参加の有無にある。5自治領の代表は議会での議決権こそ無いが、所属する下部の個別部会での議決権を有する。これに対し、アメリカ先住民自治区はいかなる議決権も有していない。

今年、アメリカ先住民自治区で37万人の自治区市民を擁するCherokee Nationが5自治領と同等の議決権確保に向けて動き出し、注目され始めた。新世界に足を踏み入れた白人が、戦いと征服を繰り返しながら造り上げた”アメリカのかたち”がそこにある。

昭和の足跡(8)やけど と 幼稚園

2020年02月05日 | 昭和の足跡
世の中目まぐるしい。保育園幼稚園に入れないと大騒ぎしたかと思ったら、これからは逆の潮目で大変だ。少子化の波をもろにかぶり、閉める所も出て来よう。

昭和の27年頃、子供が普通に幼稚園に行ったのかどうか、定かではないが、よし坊は幼稚園には行かなかった。正確に言えば行けなかった。

ある日、炭炬燵で寝ていて、寝入ってしまい、炭の上をカバーする金網の上に置いた足のふくらはぎを火傷したのだ。ふくらはぎ全体だから結構な面積で、歩けなくなった。この記憶は今でも頭の隅にある。

もうひとつ記憶にあるのは、歩けないから木製の乳母車に乗せられて近くの幼稚園を外から見ていた光景だ。と言うことは、幼稚園に入園する予定だったのかもしれない。

やけどの跡は72歳になった今でもうっすらと残っている。