よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

日本でラジカセを買ってきた

2019年11月27日 | いろいろ
今から20数年前、アメリカに来る時に家にあったジャズレコードをカセットテープに録音して持って来ていた。約100枚くらいのレコードを録音してきたわけである。きた当時はまだカセットが主流の時代だった。

当初はカセットCDプレーヤーを買って聴いていたが、プレーヤーも古くなるとテープの送り部分が不具合となり聴けなくなり、カセットから遠のいて、気が付いてみれば10年以上も経っていた。折角持ってきたテープが泣いている。そう思ってカセットテープレコーダー(もちろんカセット再生専用でCD無しのもの)を買うことにしたのだが。

アメリカ国内で買おうと思ったが、もうひとつ信頼感が沸かない。昔からそうだが、アメリカで売られてる商品は、その中身が何故かちゃっちい。言うなれば、「安かろう、悪かろう」ではなくて、「安かろう、ダメかろう(コレよし坊の造語)」だ。悪い、とまでは言い過ぎだが、ダメなのである。

日本に行く予定だったので日本の電化製品やアマゾンジャパンのサイトで物色してみたところ、3~4ブランドの中にパナソニックがある。品番で二機種あるが購入者評価ではRX-FS27が高評価であった。決め手は「売り出し当時の型版からの生産」とある。これが気に入った。

幅30CMちょっとの小さなカセットレコーダーである。昔はこうだった。毎日古いテープを聴きながら悦に入っている今日この頃である。昔の物は何となくいい。

私の恩師(5)再会

2019年11月21日 | いろいろ
二年前に日本へ帰った時、アメリカへ戻る直前に恩師と電話で話をして以来、次に日本へ行く時は是非お会いしたいと考えていた。そして、10月28日、25年振りにお会い出来た。

朝早くワイフと6時台のJRに乗り、新大阪経由新幹線で三原に向かった。10時過ぎに三原に着き、階段を降りると、改札の向こうにKKさんが奥さんと出迎えてくれた。懐かしいお顔がそこにあった。昨年大きな手術で入院した関係でだいぶ足が弱っているようで杖で補助しておられたが、92歳、まだまだお元気であった。

アメリカから電話で再開の日時を決めた時、ご高齢ということもあり、一時間程度お会いすることにしようと思ったのだが、どうしても昼ご飯を食べていけ、と言うのでお受けすることにしたのだが、駅前にハイヤーを待たせ、これから”懐かしの町”を案内するから、と仰ったので、あーなるほど。早く着いても昼飯を食べていけ、と言った意味がこれだったのか、と納得した。

かつての三原は駅前にTJ通りの看板があったが、それも6年前に降ろされたとのこと。三原に工場があり、大阪からの出張は一泊、そのうち山陽新幹線が開通して日帰り出張となった。瀬戸内の海に恵まれ、直ぐ向こうには筆影山が聳える。 車で見晴らしの良い高台にある道の駅へ案内していただき、綺麗な瀬戸内が一望出来た。工場跡地を案内してくれた。当時の面影はどこにもなかった。

昼近くになり、呉線沿いを車が走り、レストラン浮城についた。食事をとりながら、約二時間積る話をさせていただいた。帰りがけにお土産ヤッサ饅頭をいただいた。昔からワイフの大好物である。

恩師KKさんからは、会社組織の中にあって、不遇の時代を戦う、その生き様を通して、多くの事を学ばせていただいた。感謝あるのみである。長生きしていただきたい。

2019 日本短訪

2019年11月12日 | いろいろ
10月中旬、約3週間の予定でワイフと日本へ二年振りに帰った。どうしてもやっておきたい事がひとつ。海外からの国民年金支払いに使用していた住銀の麹町口座をクローズすることであった。既に年金を受け取っているから現在は使用していないのだが、口座がオープンになっているのは気持ち悪い。一年前に聞いた時には、麹町支店まで行かねば解約手続きが出来ないと聞いていたので、日本行きも東京経由を考えていたのだがチケットを取る前にもう一度住銀に確認したら、今では支店のどこでも解約出来るという。世の中の変化は急だ。お陰で大阪に直行することが出来た。

今回は雨に祟られ、折角の目玉の熊野古道小辺路行きが中止となった。直前までワイフとジョージアの小山でトレールウォーキング訓練したのだが。代わりに晴れの日、今や山女になっている娘と三人で二上山に登ってきた。

日本へ行った時の定番コースは天王寺で買い物をして、ランチを新世界界隈の串揚げを食べること。今回が三回目だが、前回と同じ「だるま」で昼間から生中片手に串揚げを堪能した。相変わらず外国人が多く、結構を通り越して、いささか壁壁する風景である。それと夜の定番、炉端焼きの「吾作どん」でもしっかり飲んできた。やはり日本の魅力は食にあるといっても過言ではあるまい。アングロサクソンの連中には分かるまい、この気持ちは。

我が夫婦はニューバランスがお気に入りなので、毎回、大阪のニューバランスには顔を出す。アパレルはアメリカ物はサイズが合わず、デザインもイマイチなので何か無いかと顔をだすのだが、今回スェットシャツ(トレーナー)目当てに行ったところ、いいジョギングパンツがあったので娘が買ってくれた。アメリカにはこんなパンツは無い。

今話題のワークマンでは980円のリュックサックを二つ購入。これは行く前にオンラインで注文していたものを受け取りに行った。バッグの両サイドにボトル入れが付いているのがほしかったからで、これからジョージアでのトレイルウォーキングに使える。

いささか驚いたのはユニクロでの買い物。支払いがセルフでそれはよいのだが、なんと買い物トレイを置くと中の商品が値札も見えないのにスキャンされて精算出来るシステムだった。これはまだアメリカにはないだろう。初めて経験する客は一様に声を上げていた。どんな仕組みだ!!

もうひとつ、今回の目玉は、会社人生の恩師(と、かってによし坊が思っているのだが)を訪ねることであるが、これは別稿(私の恩師)で詳述したい。ただ、これに合わせて広島の原爆資料館を訪れた。実は今まで一度も訪れたことが無く、長年心に残っていたので、この機会を逃しては、と思ったのである。死ぬまでに一度は見ておく義務みたいなものがある。日本にいる時に作ろうと思えばいくらでもチャンスがあったはずだが、そうしなかった忸怩たる思いもあった。昔で言えば”非国民”みたいなもので、日本人として生まれたら、外してはならぬ場所だろう。これでひとつ、人生の痞えが取れたような気がした。

同じ釜の飯。昔の職場の方々8人が集まってくれて久しぶりの夜の飲み会。上は82歳を筆頭に昔話やら最近の話題に大いに盛り上がった。いいものである。女性の社会進出著しい今でも、この”同じ釜の飯”飲み会は難しいだろう。長い会社人生の男の特権みたいなものだ。

日本ではテレビは見ないし、パソコンもなし、もちろんスマホも無い、完全デジタル・フリーの3週間を過ごした。お陰で夜は9時ごろから寝てしまう。大正や昭和の初期はこんなものだったんだろう。

私の恩師(4)二人三脚 海外行脚

2019年11月07日 | いろいろ
韓国では半製品を現地加工仕上げするプロジェクトを展開した。そのきっかけとなる情報を提供したのが恩師KKさんである。よし坊は営業としてそのサポートをしたに過ぎない。そのかたわら、スポーツボール用品質評価の拠点としてのメーカー選びに恩師は動いていた。製品の売込みには技術的な説得が欠かせないものだったので、製品産みの親であるKKさんの存在には大いに助かった。

やがてボール生産拠点として中国が浮上。中国各地へのプレゼン行脚が始まった。当然KKさんが同行してくれた。北京、天津、大連、丹東、上海、広州と、商売に結び付くまで何度かご一緒した。商売が始まった後でもクレームやトラブルでお出ましいただき、大いに助けていただいた。

よし坊のビジネス経験は、韓国中国での恩師との海外行脚の中で大いに鍛えられたと実感している。様々な当時のエピソードが思い出されるが、印象に残る一番は1980年代に起こった、所謂「教科書問題」である。訪問すれば必ず教科書問題で揺さぶられる。だが、KKさんはそんな時こそ行くべし、であった。その気概に大いに共鳴したものである。

個人的なエピソードとして忘れられないのは、韓国日帰り出張である。1970年代から80年代の海外出張でどんなに近い国でも日帰りはあり得なかった。所用日数二~三日でも他にビジネス用件を作り出張内容を濃くしなければ申請が許可されない、そんな時代だった。そんな時韓国からトラブル発生が飛び込んだ。トラブル内容からみて素材供給側の目視が不可欠、更に担当者が直ぐ飛んできたという相手に対する印象がもっと重要、というもの。当時会社全グループで日帰り出張の前例はなかったようである。後年、他の関連会社に移った時、当時の人事部次長が常務で座っていた。大所帯の会社だったからよし坊は一面識もなく、その時が初めてだったが、向こうは昔そんな社員が居たことをどこかで知っていたらしく、”日帰り出張したのはお前だったのか”と大いに歓迎してくれた。

その後、縁あってアメリカに移ったが、恩師KKさんの不屈の闘志、行脚で得た無形の教えは大いに参考にさせていただいた。あの時代から20年以上が過ぎた。