よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

アメリカで薩摩みかん

2006年09月29日 | アメリカ通信
年に2回位通るハイウエーがある。65号線といって、シカゴからアラバマまで延びているが、よし坊が通るのはアラバマのモントゴメリーから入りモービルを抜けてニューオリーンズへの10号線に入る区間である。

その、モービルの手前に「SATSUMA」という出口があり、毎回気になりながらも、いつも通過。ある時、時間があったので、その町に入る。何の変哲も無い、どちらかと言うと寂れた町である。しかし、町の入り口の、名前をしげしげ見ると、SATSUMAはどう見ても日本語のローマ字表記で、即ち、サツマか、薩摩にゆかりが有るのだろうと思わざるを得ないのだ。しかし、こんな、アラバマのはずれで、日本と関係があろうはずが無い、とも思う。

調べてみるものだ。関係大有りである。やはり、薩摩である。正確に言うと薩摩ミカンの縁。
1878年頃、当時横浜に駐在していたアメリカの高官、Robert Van Valkenburg
が、奥方と九州を旅行した時、薩摩ミカンのあまりにも甘くて美味しい味に感激し、奥方の故郷であるフロリダへ土産として送り出したという記録が残っているらしい。それと相前後して、フロリダからテキサス一帯にこの薩摩ミカンが紹介され、一気に薩摩ミカンの栽培が広がったようだ。アラバマのイチジクを栽培していた地域が、薩摩ミカンの栽培拡大と共に、1915年に薩摩ミカンに因んで名前を変えて今日に至っている。

アメリカのオレンジ類は豊富で美味しいが、たまに出回るSatsumaオレンジは味が日本のミカンと同じで、日本人これには勝てない。

アメリカは広い。こういう話はあっちこっちであるのだろう。

イッツ JAZZ-マルと瞑想

2006年09月27日 | Jazz
レコードやCDを買っても、よく聴くのと、たまに聴くのと、殆ど聴かないのとある。たまに聴きたくなるのが、マル・ウォルドロンの瞑想(Meditation)というアルバムだ。ところが今聴けないのだ。新宿のジャズ喫茶「DUG」での単独ライブ録音盤なので、当時日本のレーベルでしかリリースされなかったはずであるからして、当然今に至るまでにCDになっているはずも無いのである。

ビリーホリディ最後のピアノ伴奏者として有名なマルだが、何故かアメリカではあまり評価されなかった。ところが、日本やヨーロッパでは人気が高く、日本では「孤高のピアニスト」として、固定ファンが結構いた。

このアルバム、有名なレフトアローンも入っているが、竜安寺の石庭、とか日本をフィーチャーしたテーマを中心に、マルが時に切なく弾くところが何とも憎いのである。特に夜更けた頃、独りタバコをやりながら(今は禁煙してから20年経ちました)安いウイスキーを片手に、これを聴くと別世界の気分なのである。

レコードは有るので、古びたステレオで何とかならぬかとトライしたが、肝心のステレオが相当モウロクしており、テープに録ろうにも録れない状況である。

もう、マルの「瞑想」にふけることは出来ないのかと思うと、非常に寂し~い。

「映画と言えばポップコーン」の謎

2006年09月24日 | アメリカ通信
アメリカで映画館に行くと彼らはやたらとポップコーンに列を作り、しかも、そのサイズは並みの日本人の感覚をはるかに超え、大きいのはバケツに近い。そんな光景を見る度に、オカンと「この連中は、これを食べた後、又食事をするのだろうか、それとも、これで食事の代わりにするのだろうか」と、しょうもない推測談議。「映画と言えばポップコーン」がいまだにピ~ンと来なかった。

今は便利だ。インターネットがあるので、誰かしらん物知り博士が記事を載せてくれている。我々夫婦の疑問を解こうと早速調べたら、アッタアッタ。

まず、そもそものコーンは、アメリカ先住民族が主食としていたことが5千年以上前の遺跡から出ており、これが受け継がれて今日があるらしい。そうか、コーンはアメリカ人の主食の一つなんだ。これで謎の半分が解けた。道理で彼らはよく食べる。

商業用のポップコーンが街中に出だしたのが1800年代らしい。当時映画館の中では売っていなかったが、観客が映画を見る前に必ず外でポップコーンを買って入ってくるのに目を付けた目ざとい奴がいて、中で販売するようになったらしい。
アメリカの食文化の一部であれば、納得の限りである。

しかし、それにしても食い過ぎだ。肥満天国アメリカの象徴でもある。

歌舞伎を救った男の話

2006年09月21日 | いろいろ
いつも、日本の文化を大切にしろと、子供に言っているくせに、伝統文化である能、文楽、歌舞伎といった類を実際見たことが無いのだから、よし坊も結構いい加減に生きている証拠だ。

その一つ、歌舞伎だが、その時にその男がその場に居なかったら、歌舞伎は無くなっていたかも知れないという話がある。しかも、歌舞伎を救った男がアメリカ人とくるから、驚きである。

Faubion Bowers。オクラホマで小泉八雲の本に出会い、インドネシアに行く積もりで寄った日本、偶然見た歌舞伎にぞっこん、そのまま居座り歌舞伎三昧。歌舞伎の知識に加え、日本語もぐんぐん上達。ところが日米開戦真近で出国。巡り合わせとはこんなものか、日本の敗戦で乗り込んできたGHQ(進駐軍)の一員に彼がいた。

GHQは、日本の伝統ぶっ壊し作戦を開始。そばで見ていたバワーズは、歌舞伎危うし、とばかり、その地位を利用しあの手この手の保護策に出る。かくて歌舞伎は救われ、歌舞伎界はその恩人のことは今でも忘れることは出来ないという。

のめりこんだ人間の凄さか、歌舞伎を知っている日本人以上に歌舞伎のことを知っているバワーズに脱帽である。こういう話を聞くと、なんとなく歌舞伎が身近に感じられて、死ぬまでに一度は見てみたいと思う気になるから不思議だ。

こういう話はもっと日本人に知られていい。
岡本嗣郎の「歌舞伎を救ったアメリカ人」という本(文庫本)に詳しい。英文で読みたい人は英訳本「The Man Who Saved Kabuki in Occupied Japan」もある。

大変だ!!日の丸ニッポン労働事情

2006年09月13日 | いろいろ
数日前、純ちゃんがフィリピンの大統領と覚書を交わしたフィリピン人看護士1000人の日本受け入れニュースが出ていたけど、いよいよ来たね、ニッポンも。

2007年問題っちゅうのがあって、来年から3年間で大量10万人が目出度く(?)リタイヤ。加えて10何年来の不況で若者をどんどんフリーターへ追い込んじゃったから、「そして、誰もいなくなった」。

テレビじゃ、たまに”ナースのXXX”などという看護士を扱ったハッピードラマをやっているが、現実の看護士の仕事は想像以上に相当キツく、それにオカネが全く見合っていないらしく、なり手が無い上にどんどん辞めて行くらしい。最早絶望的状況ではないか。

出生率は低いわ、フリーターは増える一方だわ、結婚しないわ、子供産まないわ、xxxxxわ、ちゅうことで、兎に角外国から来てもらわにゃ、今後は成り立たんちゅう話でんがな。

因みに、女性国民の半分以上が働いている国は、アイスランド、カナダ、アメリカ、スエーデン、イギリスにドイツ。 外国人労働者の高い国はアメリカ(15%)、ドイツ(9%)、フランス(5%)、イタリア(3.5%)。世界第二の経済力を誇る我ニッポンはたったの1%。

女性をもっと活用しろ、と言ってもニッポンは所詮男尊女卑の国。多くは期待出来んね。それと、日本人の外国人に対する差別も相当キツイ(但し白人は例外。何せ白人崇拝主義だから)から、そう簡単にはいかんじゃろう。

かつて、ボートピープルとしてベトナムを脱出して日本に来た人達も、キツイ、キケン、キタナイ、の3K仕事に組み込まれ、差別の中でガマンしていると聞く。日本でそこそこの技術を身に付けてから、より自由な国、アメリカを目指す人達もかなり多いらしい。

兎に角、どう計算しても外国人依存は避けられないのだから、何とかせにゃ。別の意味での「日本沈没」は御免だぜ、各々方。

旅行記ーポルトガル、鯵の開きとモラエスと

2006年09月11日 | 旅行
ポルトガルが近い国に感じるのは、鉄砲の種子島やその他南蛮文化の伝来の為だろうか。ポルトガルにいつか行ってみたいと思ったキッカケは新田次郎が新聞で連載を始めた「弧愁、サウダーデ」。かの有名な小泉八雲と同時期に日本を訪れ、最後は徳島に骨を埋めた、ヴィンゼスラウ・デ・モラエスの物語。残念なことに、作者の急逝で連載が打ち切られてしまい、これがかえって私の想いを強くした。新田次郎は1980年に亡くなっている。

91年、ヨーロッパ出張で、一泊二日のポルトガル日程が入り、もしや、モラエスの生家を訪れるチャンスかと小躍りしたが、さすがにタイトな日程にて叶わず。しかし、初めてのポルトガルは期待を裏切らずであった。

到着当夜、同行者と晩飯を食べに外へぶらり。暫く歩くと、何の変哲も無い食堂が出てきたので、その匂いに誘われ飛び込んだ。中は、ありきたりの安っぽいテーブルに丸イス。注文取りが来たが、言葉分からずで、周りを見渡し、人の食べているものを指差した。スープらしきものと焼き魚。

食事が来た。スープはブイヤベース。焼き魚は鯵の開き。正確には日本の鯵とはちょっと違うようだが、私の中では鯵。こんなところで鯵の開きが食えるとは、と同行の同士と乾杯 乾杯 又乾杯。

人間、食べ物がいいと、その土地が好きになる。鯵の開きの発見で、ますますこの国が気に入り、いつか、母ちゃん(ワイフのこと)にも食べさせたいと思ったが、実現したのは、大分後のことだ。

映画三昧ーコミックと映画

2006年09月08日 | 映画
最近の邦画はやけにコミック原作が多いので、「どうなっているんだ」と文句を言おうと思ったが、よく考えると、昔もコミックから映画(テレビも含む)になったのがたくさんあるので、こりゃ、文句は言えまい。

昔は漫画雑誌で冒険王とか少年画報というのがあり、川内康範の月光仮面、竹内つなよしの赤胴鈴の介、桑田次郎のまぼろし探偵等が人気で、毎月の楽しみであった。

月光仮面は、東映の大村文武主演で、何作か続いた。この大村文武、その後は警視庁物語の刑事役でシリーズ出演していたが、ブレークすることなくいつの間にか消えてしまい、ちょっと気になる役者であった。月光仮面はテレビの大瀬康一主演の方が人気があったと思うが。

赤胴鈴の介は、大映で梅若正二主演。映画より前にラジオドラマで始まったこの番組には、あの吉永小百合がデビューしており、当時、豊島園だったか、井の頭公園だったかの公開録音を見に行った記憶あり。

まぼろし探偵は確かテレビのほうが早かったと思う。これにも小百合ちゃんが出ておりまして、この頃から彼女は芸能生活まっしぐらだったわけだ。

「映画界、今も昔もコミック頼り」ということでしょう。

イッツ JAZZ-Marcus Roberts Trio

2006年09月06日 | Jazz
最近のジャズシーンにはすっかり疎くなり、それでも、ニューヨークに遊びに行けば必ずヴィレッジバンガードに顔を出す。ここは、老舗でかつそんなに混み合わないので行き易い。例えば有名なブルーノート。何と日本に5件も有ると聞いてビックリなのだが(不思議な国、ニッポン)、オープンのかなり前から長蛇の列で、並ぶ気もしない。その点、バンガードはオープンの20分くらい前からちらほら並び始める程度で誠に具合が良い。そういえば、日本人のもう一つの定番スポットのスイート・ベージルも大分前に無くなったそうで、何となく浦島太郎状態。

この前、久しぶりに行ったら、マーカス・ロバーツ・トリオというのが出ていた。ドラムスのジェイソン・マルサリスは、さすがにマルサリス一家なので知っていたが、彼に手を引かれて出てきた、この盲目のピアニストは全く知らなかった。当夜は、このトリオのアコースティックなセッションに大いに満足して引き上げた。

ところが、つい最近、テレビのスイッチを入れたら、画面にあの、小澤征爾指揮する2002年のタングルウッド・コンサートが映し出された。暫く見ていたら、どこかで見た顔、あのマーカス3人組が競演しているではないか。小澤征爾はマーカス3人組を高く評価しているらしく、そうなると、ミーハー的性格には定評のあるよし坊のこと、益々マーカス3人組にのめり込む。


アブダラ・ザ・ブッチャーは日本人?

2006年09月03日 | アメリカ通信
その男、ラリー・シュリーブの店へ急ぐ。ジョージア州はアトランタの環状285線の5番出口で降り、2~3分走らせ左折した所にその店はあった。「Abudullah the Butcher, House of Ribs & Chinese Food」と書いてある。そう、あの、悪役プロレスラー、アブダラ・ザ・ブッチャーの店なのである。
あの70年代、時はジャイアント馬場の時代、16文キックを喰らい血だらけになって戦っていたあのブッチャーだ。

入り口のテラスっぽいところに屈強の男が4人くらい居る。それを横目に店に入ると結構広く、無造作においてあるテーブルで何人かの黒人男女がリブの肉をほうばっている。そう、コノ辺りは低所得者層の地域で殆ど黒人の町だから当然で、こちトラは黄色人種で何となく場違いなのはしょうがない。

リブ中心のランチをオーダーして我テーブルに持ち帰り食べること30分くらいか。あの大男のブッチャーが店に入って来た。店に入って来た時点で東洋人が居ることが分かっていたらしく、店のマネジャーに二言三言声を掛けてからこっちに来て、「フロム ジャパン?」。我々の前にどっかりと座り、かくて、ブッチャーとの話が始まった。

顔を見ると、額の辺りは無数の傷。リングでアレだけ血を流してどれくらいで治るのか聞いたら翌日には治っているという。そんなものかと感心。
ジャイアント馬場については、レスラーとしての評価も高かったが、プロモーターとしての腕前には舌を巻いたそうで、特にギャラの交渉は抜群の上手さを発揮していたらしい。「奴はプロレスラーの前にやり手のビジネスマンだ」と言っていた。今はプロモーターとして年に何回も日本に行くらしい。「俺は日本のパスポートを持っているから入国で並ぶときは日本人のところに並ぶ」と言うので、「そりゃすごい」と持ち上げて、頭の中では「ホンマかいな、嘘こくな、お調子こくな」を叫んでいた。

話もひとしきり、腰を上げて帰る段になると、店の壁に貼ってある数々のファイト写真の一つに案内してくれた。ジャイアント馬場との熱戦であった。
ドアを開け、「サンキュー、スィーユー」と言うと呼び止められた。たまたま持っていた日本語の新聞をくれと言う。「オカアチャンに日本語の新聞を見せてやりたい」とニコっと笑った。ワイフは何と日本人だったのだ。これで先ほどのパスポートの件、腹に落ちた。