よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

三島事件のあの日

2015年11月25日 | いろいろ
45年前のあの日、アルバイトをしていた。この時のアルバイトはただ封書を指示された企業に届けるという、けったいな仕事をしていた。後から考えると、政治家が資金集めでパーティを催すために、企業にパーティ券を売りつける仕事のようであった。東京都内のみならず、横浜や川崎の企業にも出向いて配っていた。

あの25日、昼ご飯を食べにそば屋に入ったら、中のテレビが騒々しい。三島がどうとか。最初は何のことか分からなかったが、三島が市ヶ谷で事件を起こしたらしい。後の仕事があるので、全貌がわからぬまま、午後の仕事をして戻った。

三島文学との出会いは「金閣寺」だったと思う。そして「仮面の告白」は男色、今でいう同性愛をテーマにして鮮烈な印象だった。最後に読んだのは末期に出した「豊暁の海」。

映画好きのよし坊は定期的にアートシアターの映画を好んで観ていた。そして高3か浪人中に、あの「憂国」が新宿アートシアターに掛かった。三島と鶴岡淑子の二人芝居で軍人・日本男児の切腹をリアリスティックに描いた問題作でもあった。

三島事件の全貌が分かって最初に思い出したのは、正しく、あの「憂国」の映画だった。既に、三島の中では深く、静かに、そして力強く市ヶ谷事件に完結する想いが醸成されつつあったのだろうか。

安倍が何とか安保法制の改変を行った事で、三島が描いた理想のホンの扉に手を掛けた程度まで来たが、道のりは遥か遠い。それにしても、45年前の三島の、この国を憂えた洞察力には舌を巻く思いだ。

他国がどう言おうと、その国の防人は最高の栄誉で称え、敬わないといけない。靖国問題とて同じこと。アメリカとかフランスとかロシアとか、かの国では国の防人はヒーローとして大切に扱われ、他人には口を出させない。この、ごく当たり前の事が出来る時代にならないといけない。

橋下徹の次に期待したい

2015年11月22日 | いろいろ
注目の大阪府知事、市長選挙が大阪維新の圧勝で終わった。橋下はひとまず表舞台から姿を消すのだろうが、彼には次を期待したい。

橋下徹が日本の政治に投じた一石は大きい。たかだか一介の弁護士出身の政治の政治の素人に中央政治の連中がすり寄らねばならなかったことを見れば、彼の動きというか手法が侮れないことを見て取ったのだろう。

大阪のみならず、関西のみならず、はたまた日本全国のみならず、戦後の寝技と談合、影の取引に明け暮れたドロドロ政治にウンザリどころか不感症にさえなっていたところに、片手にこん棒を持ちながら、”こすっからい”連中を壊し始めたから、周りはびっくり仰天の図となったわけだ。誰もが見て見ぬふりをしていた府レベル、市レベルの”不都合な現実”を喧嘩手法であぶり出し、相手を煽る。府民や市民は”どうせ口だけだろう”と思っていたら本気で嫌な所に手を突っ込んでいく。ようやく、今までと違う首長とわかったのではないか。

彼の強みのひとつは弁護士出身にあると思う。右手に喧嘩手法でこん棒を振り回すが、左手には六法全書を持ち、どこまでやれば合法かを常に考える。自分で判断出来るから意思決定が速い。これが彼の身上だろう。弁護士出身の政治家は数あれど、その他大勢の議員のひとりでは組織に埋没し何も出来まい。首長だからこそ、こういう手法が生きてくる。

もうひとつの橋下政治の特徴は分かりやすいことだろう。大阪都構想が議会で頓挫したことで、彼は信任を問う為にダブル選挙に打って出た。今までの、既存型政治家なら、折角手にした利権とも言える議員や首長のステータスを簡単に失うかもしれないリスクは犯さない。だが、彼はそうではなかった。

維新の会からの決別でも分かる。中央政治には些末を捨てての大同団結が必要かと、組んでみたものの、手垢の付いた旧来型政治手法に辟易したパートナーをあっさり切り離した。これも選挙民には分かり易い。理念を持たない、理念が違う、そういう連中が一つになるのは不可能だということを示して見せた。その点、今の民主党をみれば、だらしなさと言うか、希望の無さがよくわかる。

橋下を独裁者だと、メディアで囃し立てるが、困ったものだ。ボトムアップと寝技とも言える”根回し”がビルトインされた日本社会では、トップダウンの欧米手法をすぐ”独裁”とみる風潮が根強い。組織のトップは孤独であると当時に、本来的に独裁者なのである。最近の安倍もそう呼ばれている。トップに立ったら良くも悪くもそう呼ばれる運命でもある。そして、サイコロの目が悪いほうに出たら、責任をとって辞める。それがトップのルールだ。

メディアの言うところの、そんな”独裁者”を選挙民は圧勝させた意味は大きい。橋下徹には次のステージに大いに期待したい。


我が街 アトランタ (1) ”風と共に去りぬ”との出会い

2015年11月09日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
アトランタに住んで20年を越した。アトランタに住みついたきっかけは会社の駐在派遣だったが、よくよく振り返ってみれば、遠い昔の本との出会いがアトランタへ辿り着く始まりだったのではないかと、何やら不思議な縁を感じるのだ。

マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」に出会ったのは中学生の時だった。本は好きだった。日本の作家も読んだが、外国文学も漁って読んだ。筑摩書房とか平凡社などから出ている分厚い本を買っては読んだ。赤と黒、戦争と平和、罪と罰、車輪の下 等々。或る時平凡社の全三巻「風と共に去りぬ」が目に入った。奴隷制度の濃い南部アメリカと南北戦争を背景にした一大叙事詩に読み耽った。アメリカのどこに位置するのかも分からないながらも、アトランタという町の名前を初めて知った。

映画少年よし坊は、中学に入るとますます磨きがかかり、邦画のみならず外国映画を観漁っていた。そして、映画「風と共に去りぬ」が封切りとなった。日本での初演上映が1952年とあるから、もちろんリバイバル上映である。1962年10月、新宿劇場で観ている。実は、手元にその時買った映画カタログがある。そこに、新宿劇場の”風と共に去りぬ”のカタログの中に映画宣伝のチラシが日付入りで入っている。昭和37年だから、まだ中学三年だったことになる。人気の高かったこの映画は、その後もリバイバル上映が何度かあり、都合5回観ることになった。面白いことに、もう一冊カタログがある。それは日比谷のスカラ座発行の”風と共に去りぬ”で昭和42年とあるから、大学入学の年である。それから又リバイバル上映があったのだろう、日付は思い出せないが、最後に観たのは、吉祥寺オデオン座だったと思う。

この映画の出会いは、また女優ビビアン・リーとの出会いでもある。5回も観たのは、映画に魅了されたためだが、それ以上にビビアン・リーに参ってしまったためではないだろうか。彼女はそれほど魅力的であった。以後、彼女の作品の追っかけが始まる。

奴隷制度に支えられ繁栄していた大地主貴族達の古い南部(オールド・サウス)が南北戦争という大きな”風”によって一掃されてしまう。それに歩調を合わせるように、スカーレットの華やかな生活の拠り所であった夫レットが去り、彼女の古き良き時代が終わったことを告げる。そして、映画の最後のシーンは、自己の再生を目指して、生まれ故郷のタラへ戻るのである。オレンジ色の空に浮かび上がるタラの家、大きな木の傍らに佇むスカーレットの姿に、作者ミッチェルはその後の、そして今日のアトランタに代表される南部の新しい息吹、ニューサウスを暗示するかのような場面を創りだした。

中学から大学まで付き合った”風と共に去りぬ”も一段落し、アトランタは記憶の底に仕舞われていく。次にアトランタに接するのは、およそ15年後のことである。

重くなる企業犯罪の量刑 -ジョージア ピーナッツ事件に判決

2015年11月09日 | アメリカ通信
企業犯罪も様々だ。意図的に人を騙す詐欺商法もあれば、製造物の欠陥で人身事故が起こり、企業及びその責任者が罰せられることもある。

これまでの企業犯罪は、殺人や強盗等のナチュラル・クライムと異なり、かなり軽い量刑が課せられてきたのだが、先日アメリカで今までの常識を覆す画期的な重い判決が下された。

2008年、ピーナッツ産地ジョージアのピーナッツバター製造会社の製品で700人余が食中毒に罹り9人が死亡するという事件が起こった。企業=社長の頬かむり体質と杜撰管理が明らかになり、社長と弟及び品質管理の女性マネジャーが起訴された。先日、社長は懲役28年、弟が20年、そして女性の品質マネジャーは5年の判決を言い渡された。

アメリカとて、企業不祥事による犯罪立件では有罪でも軽い量刑が一般的だったから、この判決には全米の企業が仰天したに違いない。この事件はFDA(食品医薬品局)に戦後70年にして最大の改革をもたらすことになった。従来「事が起こってから動く」事後対応型に終始していたFDAがこの事件を契機に2011年に「工場操業差し止め権限」を持つことによって不祥事発生を未然に防ぐ、予防型対応政策へ転換したのである。

日本でも食品業界の不祥事は多く、中でも記憶に残るのは混ぜ物牛ミンチを販売したミートホープ事件と一万五千人弱の食中毒を起こした雪印乳業ミルク事件であろう。前者は最初から意図的に混ぜ物ミンチを製造しており悪質だが、それでも判決は懲役5年であった。

雪印事件は死者こそ出なかったが、ピーナッツバター事件に似ている。食中毒発生にも関わらず、当初は知らぬ存ぜぬを決め込んだが、被害拡大で大騒ぎとなり、調べてみれば工場の杜撰管理が明らかになった。結局当時の工場長と製造主任が起訴され、工場長は禁固3年、主任は1.5年、但しいずれも執行猶予付きで軽い量刑だ。

今、ジョージアの判決で全米の食品関係の企業が将来への対策に追われている。不適切な不祥事対応、隠蔽、死亡事故と3拍子が揃えば、20年25年の懲役が現実的になったからだ。
食品業界だけではないだろう。人命と隣り合せの自動車産業とて対岸の火と傍観しているわけにはいかぬ。死者の出たトヨタやGMの事故、ひいては最近のタカタの事故をピーナッツバター事件にだぶらせてみると背筋が寒くなるはずである。今回の判決は企業人、とりわけ企業トップや部署責任者に警鐘を鳴らした、歴史的な出来事に違いない。

Let's Go Metric 頑固なアメリカよ、早くヤードポンド法と決別を!

2015年11月02日 | アメリカ通信
アリゾナのTusconからメキシコとの国境の町Nogalesに南下する一本のハイウェイ、I-19がある。何の変哲もない道路だが、アメリカに住む間に一度は走ってみたい道である。このI-19は現在のアメリカで唯一存在するキロメーター表示のハイウェイなのである。

日本、いやアメリカ以外の国からアメリカに来て何かと煩わしいのがパウンド、オンス、フィート、インチ、そしてマイルの表示群だろう。世界でメートル法を採用していないのはミャンマー、ライベリアとアメリカの3か国。前2か国は近々メートル法への移行が決まっているから、アメリカだけが頑固にも昔ながらのヤードポンド法に固執し続ける事になる。

最近CNNが取り上げたアメリカのメートル法に関わる問題を読むと、アメリカも手を拱いていた訳ではない事が分かる。世界標準のメートル法に乗っかろうと、1866年のメートル法使用の議会承認、1975年のメートル法換算法の承認等など、圧倒的なヤードポンド世界の中で何とかメートル法を国家システムにしようとした試みてきたが、実質頓挫している。

アメリカがヤードポンド法に固執するのは何故か。もちろん、長年慣れ親しんだシステムを変えるには相当な抵抗があるが、それだけではなさそうだ。そもそも尺度の単位が無い時代、人は一歩(One foot)を単位として距離を測り、それを基準にした。事ほど左様に測定される数値は人間の身体を基に成り立っており、それを科学的な理屈で作り上げたメートル法に置き換えることなど出来ない相談だ、と科学を追及する大国アメリカがこの分野で科学を否定しているから面白い。

冒頭紹介したI-19はジミー・カーターが大統領時代、メートル法推進の為、全米でハイウェイのメートル表示をテスト的に実施した中で唯一生き残った貴重なハイウェイなのである。これを「一本しか残らなかった」と読むか、「一本残ったではないか」と肯定的に読むか。

変化しそうもないアメリカだが、ヒタヒタとGo Metricの足音が近づきつつあるらしい。
世界経済のグローバル化の中で貿易取引やビジネスの様々な局面でアメリカサイドがメートル法への換算を余儀なくされる不都合が噴出しているからである。最早世界はアメリカを中心に回ってはいない、という事に気が付き始めたのではないか。その兆候が出始めている。アジア圏との接触が多いハワイやオレゴン州は既にメートル法の暫時導入に動き始めた。メートル法の導入でビジネスや観光誘致に弾みが付くなら導入しない手はない、と言う事だろう。