よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

昭和の足跡(28)就職

2021年08月10日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
就職活動のシーズンがやってきた。語学に進み、商業英語に深入りしたのも、将来目標が「貿易」に携わることだったから、当然商社を目指していた。事実商業英語サークルの先輩達の何人かも商社に入っていた。だが、そういう先輩達の商社話を聞いているうちに考えが変わっていった。変わるポイントは”残業”である。当時の商社マンの給与内訳は残業代と規定給与分がほぼ同じといった具合なのである。そんな世界なのである。もちろん残業は厭わないが、それにしても異常な世界に映った。

方向転換先はすぐ決まった。メーカーの選択。さてどこにするか。この頃は日経新聞を読んでいたので、当時やたらと賑わしていたのが、名物社長と名物かあちゃんで有名だったT繊維メーカーだった。兎に角、この頃のT社は相次ぐ新規事業多角化で何かとニュースになっていた。これだ、と直感した。

大学の企業応募枠を学生課で調べたらT社からの応募要請は無いことが分かった。これは直接当たるしかないと、T社の人事課に面接を受けさせてほしい旨直接電話をし、OKをいただいた。後日内定を頂戴した。

こうして、1971年、大阪本社で行われる入社式に向かうべく、東京駅から新幹線に乗り込んだ。

昭和の足跡(27)大学時代

2021年07月16日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
東京外語大を目指し受験勉強をしたのだが、残念ながら「桜散る」であった。難しいことは予想していた。問題は数学だった。高校一年の代数は成績優秀であったが、二年の幾何と記述式問題に入るや成績は下降線をたどった。入試試験でも恐らく半分くらいしか出来ていなかったと思った。当然の結果なので、そうがっかりはしなかった。

予備校は代々木ゼミ。真面目に通う一方、映画三昧も相変わらず続いていた。そしていよいよ願書を出す時期になり、本命上智の英語科、滑り止めを早稲田とした。両方受かり、当然本命に進んだ。

最初の二年は学生運動に見舞われるという事件があったが、4年間は実に楽しかった。貿易英語の勉強会である商業英語サークルという同好会が英語学科内にあり、早速入会した。ESSや英語劇が主流の中にあってマイナーな存在で、悩みは女性会員が少なかったことである。3年の時、会のリーダーを拝命し、サブリーダーの山の井君と専ら”如何に女性が入りやすい会にするか”の環境作りに奔走した。最重要の勉強会は頭のいい田岡君に任せた。

面白いことに、当時早稲田大には立派な商業英語というカリキュラムやゼミが存在していた。その方面では著名な中内教授がおり、我々は教授をお招きして上智での講演会開催を計画、教授の快諾もあって実現した。喜ばしきは、我々が卒業したあと、上智にも中内ゼミが誕生したことだ。

そして、いよいよ就活シーズンを迎えることになる。


昭和の足跡(22)転校

2021年03月17日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
小学校5年の一学期で転校した。東京の杉並から当時は北多摩郡といっていた小平町(現小平市)だ。家が建つまでの夏休みは西武線井荻近くのアパートで暮らした。その間、家の建前式があって、父が持参した一升瓶が大工さんに振舞われた。その時、お祝いだからと初めて湯吞茶碗に注いでもらったのを飲んだ。飲んだ後、後ろ向きにひっくり返っていた。それが人生で初めてアルコールに接した時、小学校5年である。

転校して何よりも嬉しかったのは、給食ではなく弁当だったこと。ただ、よし坊の中では忘れられない「日の丸弁当事件」(既述)だ。都会からの転校だったから一応注目の的になる。その注目の的の弁当がご飯の真ん中に梅干し一つだったのだから。

仲良くなったのが小林君と中里君だった。どういうわけか女生徒も直ぐ仲良くなり、鈴木章子ちゃん、河野操ちゃんは懐かしい。

小平は人口急増だったから、中学の最初の一年は新設の第三中学校が完成するまで市の公民館で授業を受けた。黒光りする床掃除とトイレ掃除が懐かしい。

中学ともなると不良が出てくる。家がヤクザの者は卒業後その道に入り、それと仲が良かった双子の鈴木君も付いて行ってしまった。今ほどではないだろうが、当時もイジメはあった。勉強が出来たり、学級委員なんかをやってると結構ターゲットになり、よし坊もその口だったが、どういうわけか喧嘩グループが二派あって、危なくなるといつも助けてくれる奴がいた。これといって親しかったわけではないが、彼は必ず助けてくれたから、他の一派からやられることはなかった。あれが侠気なんだろうと今でも思う。

我が街アトランタ(9)共存と繁栄の町

2018年09月17日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
南北戦争によって灰塵と化したアトランタの再建で、共存共生を目指した白系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人。白系の代表格はアレン家、アフリカ系はダブス家である。

アレン家のはテネシーをルーツとし、その後テネシーに近いジョージアのダルトンへ移住する。ここで生まれたアイバン・アレン・シニアが南北戦争後にアトランタで起業、その息子のジュニアがビジネスを発展させると共にアトランタのビジネス界で重要な役割を果たしていく。そして1962年~70年までアトランタの市長を務める。

一方のダブス家のルーツはウェスリー・ダブスにある。ウェスリーはジョージアの白人大地主ダブス家の奴隷であったが、奴隷解放後に主人名のダブスを苗字として自由人としての一家を形成する。教育熱心で初代ウェスリーから数えて3代目以降は全員大学へ行かせている。数えて4代目の娘アイリーンと結婚したメイナード・ジャクソン・シニアとの間に出来たジュニアが1973年南部大都市で初のアフリカ系市長となった。

期せずしてほぼ同時期にアトランタをリードしていく役割を担ったのである。彼らを含めた有名無名の人々が肌の色を乗り越えてアトランタを南部第一の都市に押し上げていった躍動感を感じる。

アトランタの繁栄の源は何か。第一に、地理的優位性である。かつて町の名前が起点終点を表すターミナスと称していたように、鉄道のハブであったことで多くの人、モノ、情報が流れ込んだ。これがビジネスの原動力となり、デルタ航空を筆頭にコカ・コーラ、世界最大のホームセンターであるホーム・デポなどを輩出するに至った。

第二は気候であろう。アメリカ諸州の中では極めて気候が安定している。西海岸は山火事と地震のリスク、北に行けば大寒波、東海岸沿いは時折ハリケーンのパンチを食らう。テキサスからフロリダに至るメキシコ湾沿いの州は日本で言うところの台風銀座である。内陸の中西部はトルネードがやってくる。小さな災害が無いわけではないが、アトランタを含むジョージアはこれらの災害が極めて少ない。災害がこの州を避けて通って行くような感じである。この恩恵がもたらすマネー効果は大きい。ジョージアの次に少ないのがサウス・カロライナではなかろうか。

そして第三は、今まで述べてきたように、かつて南部奴隷州のひとつに過ぎなかったジョージアが南北戦争敗退を機に、古い南部オールドサウスから新しい南部ニューサウスを目指すために人種差別よりビジネスによる経済繁栄を優先させるという知恵がアトランタの白系とアフリカ系の間に働いたことである。このことが南部においてアトランタを独特の地位に押し上げた。

アトランタに降り立ってから23年が過ぎた。食事に工夫がいるが、暮らしやすいことだけは間違いない。妻と話をしている。日本に帰る時期は寿命が尽きるちょっと前がいいな、と。さて、そう上手くいくだろうか。神のみぞ知る、である。

我が街アトランタ (8)ニューサウスの旗手、その出発点

2017年03月10日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
南部アメリカがオールドサウスと決別し、ニューサウスへと踏み出したキッカケは紛れもなくCivil War(南北戦争)である。映画「風と共に去りぬ」でも描かれたように、北軍の侵攻により灰燼に帰したのがアトランタだった。

しかし、アトランタは灰燼に帰した故に、灰の中から、過去の枠にとらわれない、新しい”国造り”に立ち上がる事が出来た。白人と黒人という、根深い差別感はあるものの、双方が理解し合い、協力することが無ければアトランタは再生出来ないことを双方の有力者達は分かっていた。そうしなければならない危機感が存在したと言えよう。この共存感こそが、他の南部州と決定的に違ったのである。

アトランタの中心街には南北に延びるPeachtree Streetがある。所謂目抜き通りだが、この通りに沿って当時の白人達の居住地や商店が発展した。ダウンタウンのPeachtree Streetに東からぶつかってくるAuburn Avenueと言う通りがある。この通り沿いには黒人達の居住地と商店が発展し、その一角はSweet Auburnと呼ばれている。この二つの通りが交差する所こそは、アトランタの再生と復興を象徴するクロスロードなのだ。

アトランタの復興とその後の発展には多くの人々が関与していくのだが、とりわけ象徴的な二組のファミリーの存在を抜きにしては語れない。アレン・ファミリーとダブス/ジャクソン・ファミリーである。アレン一族は白人家系、ダブス/ジャクソン一族は黒人家系である。

アトランタはこの二つの一族と共に船出していく。

我が街アトランタ (7) 別の顔を持つ”RACE"の街

2016年12月23日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
アメリカを連想するのは「人種差別」。そこには主人の白人と奴隷の黒人の長い歴史と戦いがあり、それは現在でも続いている。この問題は収束することなく、未来永劫続く”アメリカの運命”であろう。

南北戦争での北軍勝利により奴隷解放となり南部は新たな一歩を踏み出したのだが、1960年代の公民権運動が高まるまでは各州で様々な惨たらしい事件が頻発していた。ミシシッピ、アラバマ、サウスカロライナでのリンチや黒人教会爆破などが起こっている。ジョージアも例外ではなかったが、その行き方は他の周辺州とやや趣を異にする。

アトランタには昔から黒人富裕層が多い。今から20年くらい前、日本から本社の”えらいさん”が初めてアトランタに来て、街中を案内した時のことを思い出す。隣のレーンに高級車ベンツが止まった。と、後ろの座席の”えらいさん”が言う。「おい、xx君(小生の名前)、黒人がベンツに乗ってるぜ。こりゃ驚いた」。アトランタでは当時から古いアメ車を運転するショボい白人を尻目に黒人のベンツがあちらこちらで走っていたのである。

アトランタは白人と黒人が昔から上手く共存している、かつての南部奴隷州の中では特異な存在なのである。周辺州の都市が第一次産業からの脱却に遅れたのに対し、アトランタはいち早く商業化への道を進んだことから、才覚があれば黒人でも金もうけが出来る土壌が出来ていた。何故共存出来る土壌が生まれたのかは、おいおい述べるが、アトランタは南部で突出した発展を遂げ、オリンピックへと繋がっていった。


我が街アトランタ (6) オリジナル13州と”アトランタ”の誕生

2016年08月26日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
アトランタを首都とするジョージアは由緒ある歴史を持つ。17世紀から18世紀初頭にかけ英国からの北米大陸開拓は活発であった。18世紀の初頭には次々と東海岸に上陸し、入植地コロニーを形成していく。1776年の独立戦争以前に13のコロニーが出来上がった。

ジョージアは、この最初の13コロニーの最後に加わった入植地で、このオリジナルのThirteen coloniesが独立戦争後の合衆国の母体となる。因みに、13コロニーのうち、南部からは、ジョージア以外に、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナが入っている。

一般に都市や街の名前には女性的なものが多い。やはり響きの良さがそうさせているのであろう。ごたぶんにもれずジョージアも女性名である。現ジョージアに入植した英国人達は、この地に本国ジョージ2世に因み、女性化してジョージアと命名したのである。

それでは、アトランタという名前。これも女性的な名前だが、そこに落ち着くまでには、若干の歴史がある。

嘗ての馬と幌馬車の大西部時代を経て、蒸気機関車の開発により、19世紀初頭一挙に東海岸に鉄道網が広がった。鉄道網の南部の終点(起点でもあるが)が現在のアトランタであり、当時は終着点を表すターミナス(Terminus)と呼称していた。これがアトランタの最初の名前(但しUnofficialである)である。

その後、独立戦争後にジョージア州の知事であったウィルソン・ランプキン(Lumpkin)の娘の名前マーサ(Martha)に因んでマーサズビル(Marthasville マーサの街の意味)と正式に命名されたが、暫くして再命名の話が持ち上がり、当時のアトランタの代名詞であるWestern & Atlantic鉄道のAtlanticの女性名詞化でAtlantaと命名され現在に至ったと言われている。

これには面白い話がある。マーサのミドルネイムがアタランタ(Atalanta)であることから、再び彼女の名前に因んで付けられたとする説を好む人たちがいるのだが、ひょっとしたら、Atlanta命名者はその様な異説が唱えられても悪くはない、と思っていたかも知れない。

我が街アトランタ (5) オリンピック開催地

2016年05月11日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
日本から見ると、アメリカとはニューヨークでありシカゴでありロスアンゼルスを指し、アメリカ南部などは顔を出さない。それほど遠い存在である。アトランタと聞いても”それ何?”と言われるのがオチで、昔オリンピックをやった所と言うと、”そういえば聞いたことがある”と漸く少し興味を持ってくれる。今から20年前にアメリカの片田舎とも言えるアトランタで華々しくオリンピックは開催された。

オリンピックを開催するということが並大抵でないことは、開催決定のプロセスを見れば分かる。国としてのパワーよりも開催候補都市の実力が試され、決定すれば世界の大都市の仲間入りをすることになる。そして1992年の国際オリンピック委員会東京大会で1996年のアトランタ開催が決定した。

アトランタ開催はジョージア州としての悲願でもあっただろうが、長らくアメリカの”南部”として見下されてきた南部の人たちにとっても悲願であったに違いない。アトランタを擁するジョージアが「南部の旗手」と目されて久しかったが、漸く世界のひのき舞台に登場したとも言える。

英国との独立戦争を勝ち抜いた新生アメリカは、西部開拓で先住民のアメリカン・インディアンを駆逐するとともに、自国テリトリーを保有していたフランスやスペインから土地を奪取又は金銭購入することによって領土拡大を図っていった。働き手はアフリカ大陸から奴隷を調達、広く奴隷制度を確立するのだが、これが南北戦争の火付け役となり、南軍は敗北、アトランタは灰燼に帰した。

復興にあたって象徴的なのが、アラバマとジョージアである。アラバマは中核都市バーミンガムに本国イギリスとの強力なパイプを駆使し、イギリスの基幹産業である鉄鋼業を導入し、華々しく再生のレールに乗っていった。出遅れたジョージアのアトランタは決め手がないまま模索を始める。何の取柄もなさそうなアトランタで唯一使えそうなのが、当時、現在のアトランタが終着駅を意味する”ターミナス”と呼ばれていたように、全米鉄道網のハブ拠点を成していた事である。ヘンリー・フォードが自動車を作るまで、西部劇に出てくるように、アメリカは幌馬車と川船と鉄道が移動の手段だった。

アトランタは、このロジスティックの優位性を利用し、旧来型の産業にこだわらず、いや、こだわる余裕もなく、様々な産業を呼び入れたり創りだしたりしていった。ロジスティックのハブ機能は物と人を呼び込み、多岐にわたる産業をもたらした。アラバマのバーミンガムの行き方が重厚長大ならば、アトランタは軽薄短小型に突き進んだ。この事がアラバマのバーミンガムを抜いて南部の旗手に躍り出る牽引力となった。常にアラバマがジョージアに対抗意識をむき出しにする理由がここにある。

アトランタは便数でシカゴに次ぐ全米第二位、乗降客では全米一のアトランタ国際空港に支えられ、名だたる世界企業が立ち並び、映画や音楽のエンターテインメント分野の一大拠点に成長した。

アトランタを支えるビジネスでは、デルタ航空、コカ・コーラ、CNNが有名だが、アメリカ人の三大必需品、いや、必需会社のひとつ、ホーム・デポもアトランタの会社である。因みに三大必需会社とは、ハンバーガーのマクドナルド、日用雑貨スーパーのウォルマート、そして日曜大工のホーム・デポ。アメリカ人にとって、この三つは生活の一部で絶対欠かせないのだ。よし坊も今、その日曜大工にハマっているから面白い。アメリカ人並になったという事か。

アトランタに来た翌年にオリンピック。沿道で有森を応援してから20年が経った。


我が街 アトランタ (4) 一路アトランタへ

2016年02月15日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
4月の新年度に合わせて3月末までにはアトランタへ赴任すべく準備が始まったのだが、すべてはビザ次第である。一か月もあれば取得出来るだろうと思われたEビザ申請、これがなかなか下りない。人事では遅くとも3月末までには下りるだろうと、早々と3月末付けで人事発令を出してしまった。人事発令を急いだもうひとつの理由は3月末で事務所を移転し、組織も新体制になる予定であった。そして、ビザが下りないまま4月に突入した。この時点で本社でのよし坊のデスクは無くなったのである。

4月からビザの下りる6月までの約2か月半、よし坊は宿無しとなった。会社に行っても席が無いから、空いている会議室を転々とする有様で、それはまるで窓際族のような味わいであった。あ~窓際族とはこういう雰囲気なのだな、と。お陰でいい体験をさせてもらったと思っている。

思えばこの年、1995年は記憶に残る年である。年明けの1月17日は関西淡路大震災を奈良の家で体験し、3月20日には東京で地下鉄サリン事件を目の当たりにした。

出発日を6月14日に決め、引っ越しその他の段取りの為奈良へ戻った。アトランタへ送る物の準備をし、家族の段取りを確認した。長女は高校3年になっていたので来年の卒業後の来ることにした。次女はこの年高校に進学したが、進学の際、一学期で辞めてアメリカに来ることにしていた。日本の高校を一学期だけでも味わう方がよいと判断した。こうして、ワイフと次女は7月29日にアトランタに来ることになった。

6月14日水曜日、JALで成田を飛び立ち、同日午後3時過ぎ、森の中に浮き上がるようなアトランタ周辺を眼下に見ながら空港にタッチダウンした。南部ニューサウスの旗手、アトランタでの長い生活の始まりである。その第一歩、いや第一夜は、翌年のオリンピックに合わせて開業した日航ホテルアトランタを予約。この支配人が大学の後輩であることを赴任前に知ったからである。

我が街 アトランタ (3) アトランタに赴任辞令

2016年01月24日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
1993年の暮れが近づいた頃、上司に呼ばれた。「君を欲しいと言う関連会社があるが、どうだろうか」。サラリーマンである限り異動や転勤は避けて通りないこと、そして何よりも入社以来22年同じ部署で転機を逸していたのは事実で、遅ればせながらチャレンジ到来と思い、快諾した。

思えば入社以来の22年は楽しかったの一語に尽きる。最初の三年の下積みのスタッフ業務は後々大いに役立ったし、輸出営業に出てからは、上司にも恵まれ、未熟ながらも海外をあっちこっち飛び回らせてもらった。当時の海外出張は、高い飛行機代を使うということもあり、最低でも一週間位は仕事をしてこなければならなかった。従って、無理をしてでも色々と仕事を作る、そんな時代である。一番近い韓国と言えども同じで、日帰りなどはトンデモナイ事であった。しかし、品質事故やクレームとあらば、そんな悠長な事は言ってられない。そんな案件が発生し、大阪ソウル間を日帰り出張した。当時、海外日帰り出張をした社員は居らず、その第一号となった。こう言う事は人事部でも話題になったのであろう。関連会社への異動の時に、この話が出てくるから、人生は面白い。

1994年の二月、グループ会社の中でも、ユニークな存在で、当時世界三大メーカーの一角を占める原料製造メーカーへ異動した。本社が東京なので、関西からの単身赴任となった。東京には前の部署の東京総括のMさんが居たので早速会いに行った。Mさんが主導するアメリカ向けビジネスのサポートをしていた関係で間接的上司として懇意にしていた。一杯飲もうや、の一言で新橋界隈へ。異動の仕掛けはMさんだった。ある日、Mさんは中央線で帰る方向が同じAさんと一緒になった。Aさんは元人事部で、異動先のメーカーの常務に転出していた。Aさん曰く、「輸出経験者を探しているがいいのおらんかな」。Mさんすかさず「うちにおもろいのが居りまっせ」。これでどうも決まったらしい。

東京本社での挨拶で、A常務の所に行った時。「おう来たか。昔韓国に日帰り出張したのは君だったな」。

新天地での仕事はてっきり輸出関連を担当するものだと思っていた。ところが、3か月毎に色々な課に配属され、どうも仕事の焦点が定まらない。輸出を手伝ったかと思うと、技術開発へ。市場開発と思ったら受け渡しへ。その頃からアメリカに会社を設立する話が広まり、誰が行くのかが、あちらこちらで話題になるようになった。よし坊には縁の無いこと、と我関せずで師走の最終日を迎えた。本部長に呼ばれ「来年アトランタに販売会社を設立するので初代で行ってもらいたい」。他人事と思っていたが、これで今までの全てが腑に落ちた。

若い頃は海外に夢を馳せ、中年になれば最早チャンスは無いと諦め、それでも新天地で培った経験を少しでもお役に立てようかと思っていたら、えらいこっちゃ。

明けて正月元旦、爆弾発言をすることになる。家族一同を前に、「今年、準備ができ次第アメリカはアトランタと言う所に転勤する。単身赴任はしない。皆一緒に行く」。一同呆然であった。

こうしてアトランタ行きの準備が始まった。