よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

私とパソコン

2020年01月26日 | いろいろ
90年代に入っても会社の月例報告は手書きだった。新しもの好きの同僚がある日ワープロを会社に持ち込み、レポートをワープロで書き出したが、特に興味も持たなかった。

ワープロから一歩進んでパソコンへの入り口を作ってくれたのがA氏であった。88年頃だろうか、シカゴに出張の折、ヒルトンのバーカウンターで飲んでいた時、たまたま隣になったのが中堅商社N産業のA氏だった。名刺を交換後、同世代のよしみで大いに飲んで別れた。90年代に入り、仕事柄、アメリカのSスポーツへのコンタクトが必要となり、Sスポーツジャパンから現地担当者を紹介してもらおうと考え、電話を入れたところ、電話はまわりまわって社長に繋がった。「覚えてますか?以前シカゴのホテルで盛り上がったAです。今、ここの社長をやってます」。後日面談した際、社長になった経緯を話してくれた。N産業はアメリカのSスポーツの日本輸入総代理店で、A氏は毎月のようにミーティングの為渡米するようになった。アメリカでは早くからワープロ、更にはパソコンでの作成書類が普通となっており、アメリカ人に後れを取らないようパソコンの猛勉強をしたという。プレゼンでアメリカ人に引けを取らないA氏の評価が定着し、Sスポーツ日本法人設立の初代社長に任命されたとのことであった。アメリカとパソコン。この話が強烈に頭に残った。

94年暮れ、アトランタでの現地法人スタートアップの辞令を受けた時、頭に浮かんだ一つがA氏の話、パソコンだった。パソコンの何か、も分らぬまま電気街に行って購入したのが出たてほやほやのNEC98ノートB5サイズだった。ワープロソフトは当時全盛の一太郎。アトランタからの当初の月報は全て98ノートでたたき出した。因みにOPはW3.1だったと思う。値段は今となっては覚えていないが、20万以上はしたのではないか。

しかし、マイクロソフトがW95、更にW98を出すに及び、世界的にワードとエクセルが主流になったことで、日本に出張帰国した折NECのLavie A4サイズを購入した。その後、XP主流になった頃、シャープに変えた。ここまでの所、ノートパソコンの機能やスペックに拘りは一切なかった。と言うよりは無知だったに過ぎない。ただ、日本に帰った時に電気屋の勧めるまま、最新版を20万円前後で購入していただけである。製造ブランドなら日本品、だけが根底にはあった。

シャープのノートパソコンが度々不具合を生じたので買い替えることにした。ブランドはソニーと決め、アメリカ販売品を調べ、当時の手ごろ値段1300ドル台に照準を合わせた。丁度日本出張があったので電気街に見に行ったところ、同じスペックで22万円で売っていた。アメリカに舞い戻り、迷わず1300ドルのバイオを購入。それでもこの頃の容量は512MBであった。

W7になってからパソコン容量もギガ時代に入った。手持ちのバイオも古く処理能力も遅いので、今度は東芝に決めた。何と言ってもノートパソコンのアメリカ市場で断トツのシェアを持つ東芝。この頃になると値段構成は激変し、購入したのは500ドル商品。ところがである。たった一年半で見事に裏切られた。電源スイッチ部分が壊れたのである。何度初期化しても戻ることはなかった。ことパソコンに関して、根底にあった「日本品、日本ブランド」神話が崩れた瞬間である。

考えてみれば、殆どが中国生産のパソコンのような商品ではブランドでの品質差は殆ど無いのではないだろうか。そう考えると選択肢は多くなる。スペックも意識の中に入って来た。以後W8.1ではAcerを320ドルで購入。メモリー4G、HDD500G、CPUはi3である。更にW10ではHPを購入。メモリー6G、HDDは1T(1000G)CPUはi5のスペックで300ドルである。日本で言えば3万円というところか。最早、300ドルレベル以上では買う気は起らない。因みに昨年ワイフが買い替えたのは、デルのノートで300ドルを切る値段だった。

ひとつ、日本のパソコンが高い要素にワープロ表計算ソフトが内蔵されており、その値段が価格に反映されているが、これとて、フリーのソフトを使えば内蔵ソフトは不要だ。もう5年以上もフリーソフトを使っているが、マイクロソフトのオフィス仕様だから不都合は全く感じない。それでも日本のパソコンは高い。








昭和の足跡(7)履物

2020年01月16日 | 昭和の足跡
小さい頃の一時期、下駄を履いていた記憶がある。そして、木製のサンダルだ。遊びまわるのに履いていた靴は総ゴム製だった。だから蒸れる事蒸れる事この上なしだった。それがいつの間にかズック靴になった。覚えているのは月星とかアキレスとか。サンダルもやがてビニール製になっていった。そう言えば、ゴム草履というのもあった。

小学校6年の頃、もうすぐ中学入学が間近になるにつれ、一つのワクワク感があった。黒の学生服を着るのもそうだが、当時中学生が履いていた白いズックのトップシューズと言われていた運動靴だ。あれを早く履きたかった覚えがある。

大学の頃どんな靴を履いていたのか、あまり記憶がない。革製のカジュアルだったのか、それとも所謂スポーツシューズだったのか。殆ど覚えていないから不思議なものだ。

繊維会社に就職したが、人工皮革を扱う部署だったので、履物ビジネスに入っていった。とりわけスポーツシューズが主体だったが、当時の業界はダイナミズムに溢れていた。国内のオニツカ、ミズノの市場にナイキが参戦したのだ。これをきっかけにリーボック、ケイパ、サッカニー、ニューバランスなどの海外ブランドの積極展開が始まった。個人的に履いたのは、最初はナイキ、続いてリーボックを好むようになり、最後はニューバランスにたどり着き現在に至っている。よし坊の影響だろうか、ワイフもついにニューバランス派になり、近くを通ればNBショップを必ず覘き、年がら年中ホームページで新デザインを探している。

ビジネスから遠ざかったので革靴を履く機会は殆どなくなった。特にビジネスシューズは下駄箱に眠っている。それでも当時はブランドに拘ったものだ。服装がトラッドだったので、国内ブランドではリーガルシューズ。それと大塚製靴のフォーマルトラッド。アメリカンブランドのコールハーンもお気に入りだったが、ナイキが買収してからは”らしさ”がなくなり興味を失った。これらはそろそろ処分せねばなるまい。

映画三昧 -リチャード・ジュエル

2020年01月08日 | 映画
昨年末にクリント・イーストウッド監督の最新作Richard Jewellを観てきた。話題作であると同時に、アトランタに住む者にとっては忘れられない事件でもある。事件の印象が強く残っているのは、我々がアメリカに来た翌年のアトランタオリンピックの最中の事件だったからだ。

冤罪とは日常の直ぐ裏側に張り付いている。この映画を観て改めて冤罪とはいとも簡単に形作られていくのだな、と思う。多くの人達を救ったヒーローが一遍して容疑者となり拘束、結局証拠不十分で釈放されるが、後年真犯人が捕まるまでは容疑者疑惑のまま、針の筵であったろう。

そもそもの大失態は、FBIの初動捜査で浮かんだリチャード・ジュエルの名前がアトランタ最大の新聞社の女性記者にリークされ、特種として報じられたことにある。アトランタのひとりの捜査員が女性記者にリークしたのだ。映画では女性記者が”女の武器”を使って聴き出したことになっており、封切直前に新聞社が女性記者擁護の意味でイーストウッド他制作会社を告訴する旨ニュースになった。実際の女性が女の武器を使ったかどうかは分からぬが、相当やり手であったことは確かなようだから五分五分と言ったところだ。

その後、他の爆破事件を追っていたFBIはエリック・ルドルフをアトランタ爆破事件の犯人と特定し、2003年、ノースカロライナでたまたま職質を掛けた人物が本人と分かり、あっけなく逮捕された。FBIは正式にジュエルに対し名誉回復の為の且座を行った。当時新聞社からの一報で容疑者扱いをした大手ニュースメディアはジュエルの訴訟に対し示談したが、新聞社だけはニュース報道はFBIの情報に基づくもので何ら悪いことはしていないと、示談には応じなかった。

映画ではジュエルの母親役のキャシー・ベイツを久しぶりに観た。何と言っても昔観たミザリー。あの演技は凄かった。ほのぼの系のFried Green Tomatoesも良かった。今回の母親役もノミネートものの演技ではなかろうか。キャシー・ベイツ健在なり。