よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

ある会社の監査風景から

2009年02月27日 | ビジネス横丁こぼれ話
今、ある会社のお手伝いをしているのだが、例年の如く、会計事務所が来て監査をやっている。
横目で見ていると、2週間経っても未だ終わっていない。そこで、経理のマネジャーに聞くと、昨年迄は約一週間で終わっていたが、とのこと。特に大きな問題があるわけでもないらしい。よし坊が気になった点が一つあった。最初の週の前半は3人のチームに一人日本人が入っていた。ところが、週半ばからアメリカ人だけになって、翌週も続いた。こうして2週間が経ち、それでも終わらなかったのだ。この事をマネジャーにぶつけると、その通りだ、との即答であった。

来ているアメリカ人はいずれも大学の経理財務のDegreeを持った連中なのだが、こういうことになってしまう。兎に角仕事のペースが遅い。勤勉なアジア人、その中でも、テキパキさ、手際の良さでは群を抜く日本人から見たら、何とも遅いのだ。

この、イライラするようなペースは日常生活の至る所で見る。例えば、スーパー。世界最大のウォールマートなんてのがあるのだが、ここのレジのネエチャンを何人か日本のウォールマート(今の西友だが)に連れて行ったら、腰を抜かす位、びっくらこくに間違いない。

でも、こんなアメリカが何で世界一なのか、時々考えてしまう。勤勉だけじゃダメで、何かが足りないのだろう。天は二物を与えぬ、か。

豊原(ユジノサハリンスク)とババ・ターニャ

2009年02月18日 | いろいろ
あの、「あ、そう」さんがロシア主催の式典出席で樺太へ行っちまった。ますます、樺太はサハリンとなり、ロシアから見れば自国領土への既得権を確かなものにしているような気配だ。これで北方領土返還など出来るかいなと思う。

北方領土返還がたまにニュースの俎上にあがってくるのだが、ロシアは用意周到な長期戦略の上に一つ一つその存在感の実績を積み重ねて来た。他方、日本の政治(特に外交)やメディアは、何をどう対処してきたのか、その真剣度合いが、国民にさっぱり分からぬ。日本の外交もつまらぬが、メディアはもっとつまらない存在だろう。

だいたい、未だロシアとの間で領土決着がついていない段階で、樺太をサハリンと呼ぶ事はないだろう。決着がついていない段階で、メディアがこぞって、ユジノサハリンスクと言っている。何故、豊原と書かないのか。北方領土を取り返す覚悟なら、そのくらいのキャンペーンが張れないでどうする、と言いたい。

確かに戦争に負けサンフランシスコ条約に調印したが、旧ソ連、即ち現ロシアは入っていない。日本とロシアの二国間の問題である限り、日本はサハリンとか、ユジノサハリンスク等と呼ぶべきではないのだと思う。それが、外交のひとつだろう。日本はこのあたりがへっぴり腰というか、ずーっとだらしない。

樺太を垣間見る方法は色々あるが、私の初等教科書は、何年か前に読んだ、奈賀 悟著の「日本と日本人に深い関係があるババ・ターニャの物語」というノンフィクション本である。日本植民地時代の朝鮮半島に生まれ、父親の出稼ぎで日本の樺太に渡り、戦争に翻弄され樺太で生きてきた、ロシア名ターニャの物語だ。ババは日本の婆と似た意味らしい。樺太は特に多くの朝鮮半島出身者が残されてしまった。望郷の念はいかばかりか。

映画三昧 -初めてのキスシーン

2009年02月15日 | 映画
初めてのキスシーンは確か、「武器よさらば」だったろうか。更に言うと、これが初めての洋画かも知れぬ。

阿佐ヶ谷駅の北側に、当時洋画専門のオデオン座があった。線路と言うか駅の直ぐ脇にあったから、電車や駅からよく見えた。
昔の阿佐ヶ谷界隈は、青梅街道からすずらん通りを駅に向かっていくと、途中、左に東宝、少し行って右に松竹、その裏に大映があった。駅の踏切を越して左に歩いていくとオデオン座だ。ここで観たということは、小学5年くらいだろう。

当時は未だ、映画の原作がヘミングウエーなんて知らないわけで、ロック・ハドソンの兵隊が、ジェニファー・ジョーンズの看護婦と恋に落ち、看護婦の死とともに、ハドソンが去っていくシーンで終わるのだが、よし坊はここで、アメリカ人達のキスの不意打ちを喰らうのだ。

今時、何処かしこもキス、キス、キスで、口づけが半死語、接吻なんて言葉はもう死語だろう。しかし、あの頃は、キスなんて言葉はなじまない、どこか遠い言葉だった。新聞雑誌小説の類は、口づけか接吻だ。あの、「また逢う日まで」の岡田英次と久我美子のガラス越しのキスは、「ガラス越しの接吻」でなければいけない。大安売りの「キス」では軽すぎるのだ。

さて、不意打ちを喰らった「武器よさらば」の最後近くのシーン、息を引取りベッドに横たわる彼女に最後のキスをする、あのシーンだ。このシーンは映画の流れから行って、不意打ちではなかった。ゆっくりとスローモーションのようにハドソンの口が近づく。間違いなく場面を観ているのだが、頭の中は観るべきか目をつむるめきかで葛藤していた。そんな、ドキドキしてしまった映画なのである。

映画三昧ーキネマの全盛

2009年02月10日 | 映画
最近、つくづく思う。団塊の世代に生まれて良かったと。なにせ、あのキネマの時代で育ったからだ。娯楽はキネマしか無かったのが良かった。いつからか、軽薄な(と言いながら性懲りも無く観ているのも事実だが)テレビに取って代わられたが、あの頃のキネマ時代は濃密だった。

最初にキネマを観たのは、母親に連れられて観た「君の名は」。今でも覚えている。阿佐ヶ谷の松竹だ。後宮春樹の佐田啓二、氏家真知子の岸恵子、そして数寄屋橋。1953年封切とあるから、よし坊6歳。これが原点と言える。

当時は映画会社に其々特徴があった。松竹は現代物が多く、当時は池部良、大木実なんかが出ていた。時代劇は少なかったが、あると近衛十四郎が大体主役を張っていた。東宝も現代劇が主流で、よく観たのが、喜劇。社長シリーズと駅前旅館シリーズ。女優陣では草笛光子と河内桃子が好きだった。司葉子も良かった。一方では重厚な三船敏郎の時代劇物が気を吐いた。忘れてならないのが特写もののゴジラ、モスラ物。地球防衛軍なんてのもあった。
東映はチャンバラの代名詞だった。錦ちゃん、千代ちゃんに大川橋蔵。大御所に片岡知恵蔵、市川歌右衛門。そう、丹下左膳の大友柳太郎がいた。悪役もゴロゴロだ。月形竜之介なんて、いつも憎憎しかった。後は、山形勲とか、沢村宗之助とか。当時は第二東映なんてのが出来るくらい勢いがあって、里見浩太郎が気を吐いた。
大映も時代物が中心で、長谷川一夫を筆頭に雷チャン、勝新。この頃、よし坊は山本富士子にゾッコン、溺れていた。現代物は川崎敬三や船越英二。女優では京マチコを忘れてはいけない。
日活は、言わずと知れた無国籍アクションと青春物が面白かった。裕次郎、二谷英明、葉山良二、後に渡哲也が出てくるのだが。小林旭の渡り鳥シリーズもせっせと通った。ワルや半ワルで宍戸錠。女優陣では吉永小百合、清水まゆみとか。
キネマ衰退の遥か以前に無くなってしまった新東宝。東宝から独立し、アラカン、若山富三郎を引っ張ってきて時代劇、宇津井健で現代物。そう言えば高島忠夫もいたね。女優陣が濃厚だった。高倉みゆき、久保菜穂子で、未成年のよし坊にとっては、ドキッとする場面がシバシバ。と言っても現代のように溢れかえっている露出度とは程遠い、かわいいレベルだ。

キネマの全盛が懐かしい。

かんぽの宿はスキャンダルの匂い

2009年02月06日 | いろいろ
写真の立派な施設。いくら入札とは言え、これと同じような物件が額面一万円そこそことは常識をはるかに超えていて、異常であると同時に異様でもある。これを千円や一万円で買って5千万6千万円で売り抜ける。世の中、こんな事がまかり通るのだから、あきれて物が言えぬ。そこには、法律に違反していなければ何でもやっていいんだという論理がアグラを書き、唯唯金儲けに邁進する企業の姿しか写らない。毎度の事ではあるのだが。

かんぽの宿の一括入札による売却処分にからんで、世を騒がし始めたが、ビッグ・スキャンダルの匂いがプンプンする。何故かと言うと、役者が揃っているからだ。

大手金融会社という綺麗な看板を見せながら、プロ野球球団まで所有し、政府の委員会にも属すると言う社会的地位を得たやり手トップだが、やはり、銭、銭、銭、なのであろう。それまでに知りえた内部情報をちゃっかり利用していたとしか言い様がない。
もうひとり、主役がいる。こっちも、きな臭い。旧財閥会社のトップだからと言って、人間がいいのかどうかは別物。昔、同じS銀行のトップ、今回の主役の当時の上司にあたるが、それが絡んだ、大阪の老舗繊維商社イトxxを舞台にした詐欺乗っ取り事件があった。きな臭い会社のイメージが付き纏う。同じ財閥系でも他の二つのM銀行からは、あまりスキャンダルが聞こえてこない。S銀行の闇深い体質かも知れぬ。

恐らく、この主役二人は同じ匂いを持ち、阿吽の呼吸で濡れ手に粟を目指した気がする。そこには、銭こそ我が命、というメッセージが溢れている。
銀行、大手ファイナンス会社、という綺麗な衣の下は、そこらの金融道に携わっているやくざローン会社と本質は同じだろう。

兎に角、国会にでも呼んで、アメリカ並みに徹底的にGrillingをすればよい。ひょっとして、その影に政治家が潜んでいるかも知れぬ。

大詰めのベッカム

2009年02月04日 | サッカー
ACミランへ短期ローン移籍したベッカムの期限が迫ってきた。完全移籍で水面下でも相当動いているはずだが、彼は完全移籍したほうが良いだろう。やはり、彼のレベルのヨーロッパで最後の花を咲かすべきだろうと思う。

2007年、アメリカでのデビューを果たしたベッカムにとって、フラストレーションが相当溜まってきた事は、試合を見ていてよく分かる。やはり、レベルが違うとはこういうことなのかと思わせる場面が幾度かあるのだ。Mid Fielderだから、ゴールに直結するようなパスを中盤から出す。問題はそれにどれだけの選手、とりわけForwardが応えられるか、である。Forwardは彼がパスを蹴る前に、ボールの来るべきスペースに入り込む行動が求められる。Galaxyのキューピー・ドノバンは唯一それに応えられる選手であろうが、その他の選手が全体でフォローできないのだろう。アメリカのサッカーレベルが上がったとは言え、その辺がベッカムにとっては物足りないはずだ。だから、昨シーズンはベッカム、ドノバンを擁しながら、Galaxyは最下位に終わってしまった。

日本でも同じ事があったはずだ。あの、田中(英)が常にチームから孤立していたと、事あるごとに報じられていたが、日本チームの中では彼が突出してレベルが高く、他の選手がついていけなかったということだろう。思い出せば、彼の最後のワールドカップ、ここぞと思うパスを空きスペースに放り込むが、誰もそこに来ていないというシーンが4回くらいあった。彼の読みを察知する走り屋が居なかったのだ。これが、今でも日本チームの弱点だろう。彼が、日本に居場所を求めず、ヨーロッパを根城にした気持ちは、よく理解出来る。

ベッカムの狙いは来年のワールドカップでイングランド代表になる事。そのための布石ではあるが、大いに結構ではないか。アメリカで見ていて、彼から繰り出されるパスは、距離感や方向において、やはり、「絶妙」と言った言葉がピッタリする。