よし坊のあっちこっち

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コマネチを知ってますか? (5) 裏切り

2017年11月27日 | アメリカ通信
アメリカの地を踏んだコマネチは、これでやっと自由になった、と思ったに違いない。が、事実はそうではなかった。

異国の地を踏んだコマネチにとって全てが違う世界。右も左も分からないコマネチが当面頼れるのは、手引きをしてくれた同国人のパナイートだけであった。だから、パナイートの言う通りに動くしかなかった。

アメリカにも多くのルーマニア人がおり、亡命者も多い。当然、祖国から脱出してきたコマネチは彼らコミュニティでもニュースとなり、コマネチを援助しようと接触を試みた者も多いが、殆ど接触は出来なかった。パナイートが篩にかけたのである。彼はコマネチを利用して、アメリカ各地を連れまわし、訪れた先でイベントを張り、当座コマネチが生活に困らないように、との名目で金稼ぎをしたのである。約3か月間、ほぼ軟禁状態でコマネチを連れまわした。

コマネチを連れまわすパナイートの行動に疑問を抱く者も出てきた。かつて、10点満点を出したモントリオール五輪で一緒にインタビューを受けたバート・コナーもその一人であった。彼もコマネチが亡命した後、接触しようとしたが、出来ずにいた。ある日、TVショーにコマネチが出演することを聞き、偶然ショーのプロデューサーが知り合いで合ったこともあり、サプライズゲストとして出演出来ないか頼み込んだが、パナイートの同意が得られなかった。コナーは”何かがおかしい”と感じた。

パナイートに引き回され3か月が経った頃、コマネチは漸く、数少ない友人のひとりにパナイートの信頼性に疑問を持っていることを打ち明けた。亡命を手助けしてくれた、言わば恩人に対して直接疑問を呈することが出来なかったのである。友人はただ事ではない、と直感し、直ちに二人の中に割って入り、コマネチは初めてパナイートに対し、”この3か月の連れまわしはおかしい”とアピールした。翌日、パナイートは”コマネチのために”の名目で稼いだ、約1500万円相当と共にアメリカを脱出した。パナイートは初めからコマネチを食い物にしようとしていたのである。

持ち逃げと言う苦い目に遭ったコマネチだが、これで漸く本当の自由を手に入れた。そして、運命の再会へと、その一歩を踏み出した。

コマネチを知ってますか? (4)訪れたチャンス、決断、そしてアメリカへ

2017年11月23日 | アメリカ通信
国内に閉じ込められ、失意のうちに6年が過ぎようとしていたある日のパーティに、その男はいた。アメリカのフロリダに住むその男は、数年前にダニューブ川を泳いで西側に脱出亡命したコンスタンチン・パナイートであった。そのパーティで彼はコマネチに国を脱出しないか、と持ち掛けた。その意思があるなら手助けをすると言う。正体不明のパナイートではあったが、コマネチは考えた。このようなチャンスはそう訪れるものではない。後にも先にも唯一のチャンスかもしれない、と。

出国すれば二度と家族には会えないだろうと思ったが、脱出を決断し、家族に告げた。家族もコマネチの希望をかなえようと後押しした。

冬の寒い夜、ハンガリー国境を目指して歩き始めた。国境近くまでは、最も信頼していた弟が付き添った。ハンガリー側の国境管理の担当者には、徒歩で来た少女が、かつて世界中を沸かせた、あのコマネチであること、そして目的が何であるかは瞬時に分かった。これほどの有名人、追い返すことも出来ただろうが、担当者は何も聞かず、ハンガリー入国の許可を出した。こうして、コマネチは脱出の手引きを手伝うパナイートが待つオーストリア国境を目指し、彼と合流後、米国大使館へ駆け込み、ニューヨーク行きのチケットを手にしたのである。かくて、コマネチはアメリカに新しい第一歩を踏み出したのだが、更なる波乱が待ち受けていた。

コマネチを知ってますか? (3)どん底、そして恩師の亡命

2017年11月19日 | アメリカ通信
次のオリンピックは共産圏初のモスクワ。当時同じ共産圏のルーマニアにとっても特別なものであった。それはコマネチにとっても、コーチのベラ・カローリにとっても同様であった人違いない。

しかし、信頼するコーチのカローリを外され、コマネチは意欲を失っていく。そして、まだ15歳のこの少女は自殺未遂を起こす。慌てた政府は急遽カローリをコーチに戻す決定を下し、局面打開を図ったが、コマネチは本来の調子を取り戻そうともがき続け、モスクワ五輪を迎えた。

コマネチは銀メダルに終わった。この時の採点に関し、コーチのカローリは採点の不公平を感じ取り、猛烈なアピールを行った。ところが、この映像が世界に配信されてしまい、ルーマニア政府の逆鱗に触れ、以後両者の関係はギクシャクと、悪化の一途を辿っていく。それは、コマネチと国との関係にも同様の影を落とすことになった。

オリンピックの翌年、ルーマニア政府は「世界のコマネチ」を看板に掲げ、アメリカ11都市で”コマネチ競技会”を開催、ビジネスとして大収益を上げるのだが、ここでとんでもない事件が起こる。

共産国で国と事を構えたら「お終い」を意味する。モスクワ五輪以来関係の悪化していたカローリにとって、もはやルーマニアは自分が一生を終える国ではないと考えていた。そこに「コマネチ競技会」の話である。そして、カローリはこの競技会を利用してアメリカに亡命することを決意するのである。こうしてコマネチは精神的柱を失い、カローリの二の舞を恐れた政府は、以後コマネチに監視を付け、出国禁止の措置をとった。

コマネチを知ってますか? (2) The Perfect Ten

2017年11月12日 | アメリカ通信
1976年モントリオール五輪が開催された。この日、7月18日、コマネチは女子体操界に大きな、大きな、歴史的な記録を刻むことになる。

それは、団体競技の段違い平行棒の種目で起きた。コマネチは見事な演技で着地を決め、観衆はスコアボードの表示を待った。そして、1.00が表示され、直ぐ表示が消えた。館内は一瞬戸惑いの空気が流れた。「え?何だこれは」。

電子表示板のシステムでは、まさかの10点満点のプログラムが組み込まれていなかったのである。急ぎプログラムが修正され、次の瞬間10.00が点灯した。歴史が刻まれた瞬間である。

この大会でコマネチは更に6回のパーフェクト・テンを出し、瞬く間に世界中を歓喜させたのである。後にも先にもコマネチを除いて10点満点を出した女子選手はいない。そして近年の体操の採点の複雑化で最早10点満点はシステム上でも有り得ないとされているから、コマネチの記録は永遠に破られることはなくなった。かくて、The Perfect Ten はコマネチを指す代名詞になった。

コマネチはテレビを含む世界中のメディアのヘッドラインを飾り、母国ルーマニアに凱旋した。共産国の常で、国家はコマネチの家族には新車と一か月の休暇が与え栄誉を祝福したが、喜びは続かなかった。

まず、両親が破綻した。更にコマネチにとってはもっと深刻な現実に突然直面する。国は、6歳から二人三脚でコーチしてきたベラ・カローリを外し、新しいコーチを付ける決定をしたのである。ここからコマネチの人生に暗雲が立ち込めていく。


コマネチを知ってますか? (1) ルーマニアの新星

2017年11月09日 | アメリカ通信
あなたはコマネチを知ってますか? 今時の人がどれだけ知っているだろうか。オリンピックの女子体操と言ったら少しは思い出すかもしれないが、時代と共に我々の記憶から消えていった、あのルーマニアの天才少女はどうなったのだろうか?

あの愛くるしい顔で世界を魅了した天才少女は、波乱の人生を歩み、終の棲家をアメリカに求め、50代の半ばの現在、相変わらずの美しさで幸せにオクラホマで暮らしている。彼女の軌跡を追ってみる。

1961年、当時の共産圏であったルーマニアに生まれたナディア・コマネチは、幼稚園の頃に体操教室に入り、小さいながらも自分の人生は体操しかない、と直感したらしい。そして6歳の時に運命的な出会いに遭遇する。当時、ルーマニアの新しい体操コーチに就任したベラ・カローリは将来の有望選手を探していた。そして、コマネチに出会った時、彼女の中に”何か特別なもの”を感じたと言う。こうして彼はコマネチの訓練を始めることになる。

一年後の7歳の時、ルーマニア体操ジュニア選手権に初出場、結果は13位に終わった。しかし、それにめげることなくハードトレーニングを続け、翌年には見事に優勝を果たし、国中にコマネチの出現を知らしめ、引き続きカローリ指導のもと、週6日、毎日8時間の国家プロジェクトの強化選手となった。

1975年、シニアレベルの競技参加資格の年齢に達すると、国内はもとより、ヨーロッパでの国際競技に出場、瞬く間に表彰台の華となっていく。こうしてヨーロッパで実力を知らしめたコマネチは1976年のモントリオール五輪に照準を合わせ、直前の3月、ウォーム・アップを兼ねてアメリカン・カップの競技会に参加、ここでも種目を独占し表彰台に立った。

この大会で、男子体操はバート・コナーが優勝した。報道陣は男女優勝者の写真撮りで、二人を並ばせ、バートに喜びのキスのジェスチャーをせがみ、彼はコマネチの頬に軽くキスをした。こうして二人は別々に間近のモントリオール五輪へ向かうのだが、これが運命の出会いだとはコマネチは気づいていない。

日本短訪2017 (5)三人会

2017年11月03日 | いろいろ
かつての職場に三人会なるものがあった。メンバーはよし坊、熊さん、谷やんである。当時三人には共通するものがあった。連れ合いを亡くし息子夫婦と同居することになった姑と嫁が繰り広げるバトルの真っただ中で采配を振るわねばならなかった。

三人の共通点から自然発生的に飲み会が始まり、それはよし坊がこの職場を離れるまで続いたから10年くらいだろうか。熊さんが年長でアドバイスを含めた聞き役、よし坊と谷やんがバトルネタの提供者といった具合だ。

飲み会は随時不定期であった。パターンは概ね決まっていた。バトルの調停が明け方まで掛かるので当然徹夜状態になり、しょぼくれた目を真っ赤にして出社することになる。朝出社してお互いの目を見れば一目瞭然。例えば谷やんが赤い目で出社すれば、目と目で会話が成立し、暫くして谷やんがよし坊の席に来て「今晩どないですか」とくる。すかさず熊さんの予定を聞いて何もなければ夕方の三人会へと繰り出すわけだ。

こうして嫁と姑のサンドイッチマン三人があーでもない、こーでもない、と情報交換し、参考になるところを利用させてもらい、バトルストレスの解消にあい努めたわけである。

最初に熊さんが姑フリーになり、続いて谷やんが姑フリーになったと言うのをアメリカに来て知ることになった。

一度嫁姑のバトルを経験したら、二度と同居は御免蒙りたいと、今もつくづく思うのが本音中の本音である。