よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

二流の国、日本

2007年12月31日 | いろいろ
日本では、55年体制崩壊後の政党混乱期に一度だけ細川政権への交代があったものの、それも短命に終わり、依然として自民党マンネリ政権が続き、本来あるべき大きな流れとしての政権交代土壌がなかなか出来上がらない。

お隣韓国では、大方の予想通り、野党ハンナラ党の候補者が大統領となり、政権交代となった。独裁的軍事政権の朴大統領の衝撃的な暗殺や、金大中事件と言う、荒っぽい、一見レベルの低い政治土壌と見下しがちな韓国では、まがりなりにも、政権交代のシステムが働いているのだ。今回も、ノムヒョン政権の失政に国民がノーを突きつけたに等しい。だから政権が代わるという、国民にとって望ましいことが韓国では起こるのである。その意味では、韓国は、一流ではないが、一流半と言ってよい。一流でないのは、たまに乱闘があるからだ。政治家としての品位に欠けてはいけない。

翻って日本はどうか。アジアに君臨している一等国と錯覚しているように見える日本、最近は乱闘こそ無いが、その実は、せいぜい二流のレッテルがいいとこではないか。韓国より見劣りする。二流なら、紳士面して大人しいより、いっそのこと乱闘騒ぎをドンドンやった方がマシなくらいだ、かつてのハマコーのように。

国の采配を揮うには、一定の任期を保障しないと無理は明らか。腰を据えなければ何も出来まい。小泉政権の功罪は別として、ぶっちぎりの人気で、早々と比較的長期=5年の政権見通しが出来たから、郵貯に手をつけられたと言って良い。一年そこそこでコロコロ首相が変わりゃ、政権維持に力を割くしかあるまい。その結果は全て役人任せとなる。そして役人世界が伏魔殿化する。国民が直接選ぶ大統領型首相の仕組みが望まれる所以である。

こんな、二流半の政治土壌が続く中、巷の人間にとって何が出来るかと言えば、やはり選挙で駄目議員を落とすことだろう。それしかあるまい。その手始めに、話題になった絆創膏議員とアベのシンちゃん。こんないい加減な議員は次の選挙で落とさなきゃ。一流半への道のりは相当長いのだが、これが出来りゃ、まだ望みが持てる。




もう直ぐ おせち

2007年12月26日 | いろいろ
今年も終わりに近づき、正月がやってくる。と言っても、昔のような正月とは無縁の今日この頃だから、ただ新しい年になるだけの話だ。

昔は家でせっせとおせちを作り、しかも三が日は店屋が休みだったから、同じものを三日も食い続け、何とかならんものかと思いながらの年中行事。しかし、いつの頃か、食材提供者であるスーパーや百貨店が元旦以外をオープンした為、三が日分作る必要が無くなり、近頃では元旦も開いているとかで、元旦一日をおせちで過ごせば良い時代の流れ。それと共に、有名料理店やお惣菜店の、しかも下は何万円から上は十何万円、いや何十万もするおせちが売れる時代になりゃ、どう考えても家で作ろうなんて考えまい。そのうち おせちって何?という時が来そうだ。それにしても、世の中すっかり変わってしまった。

ところで、我がよし坊家のおせちはどうだったのか、あまり覚えていなかったので、先日嫁に聞いてみた。嫁の実家が車で2時間コースだったから、毎年30日か晦日にお重持参でおせち一式を貰いに行っていた。思い出した。これ、よし坊の仕事だった。毎年、嫁の実家のおせちを食べていたのだ。
ところが、よし坊の母親と同居する羽目になり、嫁の仕事が一変する。「この家の味が無きゃ駄目だ」と義母の一言。かくて、毎年実家から貰って重宝していたおせちは自家製となった。余談ではあるが、我が母親の発言から、母親は相当料理が上手そうだと思う向きもあろうが、これが正直言って美味しくない。嫁ははっきり、不味い、と言うが、よし坊は直系の息子だから、不味い、とは言いにくい。だから、美味しくない、と言う。

結果的に良かったのは、嫁の腕が上がったことで、アメリカに来ても限られた食材でおせちが出来上がる。アメリカでのおせちは既に12回を数えるのだが、はてさて、今度のおせちはどうするのか。娘達も家を離れたので、二人だけだから、そろそろ止めようか、とも考えているが、どうなることやら。


映画三昧 - 行き行きて進軍

2007年12月19日 | 映画
強烈な印象を残したドキュメンタリーがある。独立系の映画なので、限定公開ではなかったと思う。当時、恐らくアートシアターに掛かったのではないだろうか。もう20年位前のことだ。

「行き行きて進軍」。戦争を生き延びた奥崎健三が、かつての上官達を訪れ、時には脅しながら、戦地で彼らが何をやったかを強引に言わせようとするのである。極限状態の戦地で一体何が起こったのか。

いかなる戦争も、それは「狂気」であるから、だからどんな事でも起こりうると言うことか。人間、「生」への渇望は想像以上のようだ。

「生」への渇望という意味では、1972年にアンデス山中に墜落した飛行機事故で、約二ヵ月後に救出された事件は、衝撃的だった。死んでいく仲間から命を貰って食いつなぐ。黙って死んでいく者もおれば、死んだら俺を使ってくれと言い残した者も居たと言う。死んだ者は、後に残された者達の命となったのだ(この事故は、後に「Alive」という題名で映画になったので、鑑賞した人も多いと思う)。

奥崎健三は、当時の上官達を訪れ、「お前達が何をしたのか言え」と迫り続ける。最初は、単に「生きんが為に人を食した」事を糾弾しているのかと思ったのだが、違うのだ。部下の銃殺とその後の人食が連動している。アンデスの場合は、死者から命を授かるという行為だが、奥崎の告発は、極限状態と言えども、飢えをしのぐ為に人を殺していいのか、という事だ。

戦争を知らない我々世代にとっては、戦争の狂気を教える貴重な、秀れたドキュメンタリーである。


我が家の貧乏度論争

2007年12月14日 | いろいろ
前の「日の丸弁当事件」の話から、どちらの家が貧乏だったか、ワイフとの一騎打ちとなった。Aはよし坊、Bがワイフ。

A 昔は米が配給制だったから、米が無くなると、すいとんが出てきたな。
B うちも食べた事アル。
<この勝負 引き分け>

A ご飯は麦が何割か入ったご飯。今じゃ、健康食ともてはやされるだろうが、当
  時は、量の水増しに麦をつかったわけよ。何せ配給で量限定だから。
B 家は畑で野菜作ってたし、お米は時期になると近所の米作りを手伝ったりした  から、そこから買ったりして不自由なしや。麦入りご飯は食べた事ない。
<この勝負 Bの勝ち>


B 昔、味噌汁をご飯にかけた。
A 味噌汁のぶっ掛け飯は上等の部類だ、オレンとこもようやったで。
<この勝負 引き分け>

A おかずが無いと、煮干に醤油と酢をかけて おかずにしたな。それと、甘味噌
  といって、味噌に醤油と砂糖を混ぜ、それをご飯に塗りたくって食ったで。
B そんなことした事ないで。
<この勝負 Bの勝ち>

A たまに醤油をかけて食ったな。
B ソースをようかけて食べた。さらさらソースや。
A 家もソースはさらさらのウースターソースや。とんかつソースなんて無かっ   た。
B うちもとんかつソースは無かった。
<この勝負 引き分け>

A ごま塩かけて食ったな。塩と胡麻を煎るやつよ。よう煎らされた。殆ど塩で飯  食っているようなもんや。
B うちもごま塩はあったな。
<この勝負 引き分け>

A おかず無いから、ジャガイモサイコロ切りで一緒にふかしたジャガイモご飯。  上から塩をパラパラして食ったな。
B 畑でグリーンピース作っていたから、うちは豆ご飯。
<この勝負 辛うじて引き分け>

A 納豆をよう食べたで。納豆をさらった後の粘った醤油ダレでもう一杯食べた   で。
B 納豆なんか 社会人になるまで見た事ない。気持ち悪くて今でも食べる気しな
  い(ま、関西人だから納得)。
<勝負にならぬが、残った醤油ダレでもう一杯は Aの負け>

かくて、この戦い、A即ちよし坊の家のほうが貧乏であったという結果である。ところで、奈良の家の前のおじいちゃんは8月15日の終戦記念日の日は、一家全員で、すいとんを食べると言っていた。よし坊には、自分の世代で何かを残そうという気概は最早無い。時代の流れと片付けてしまえばそれまでだが、説明できない寂しさが付き纏う。

情けない男(たち)

2007年12月10日 | いろいろ
インターネットのビデオニュースに、「船場XXの恥の上塗り会見」というタイトルがあったので、観て見た。例の不祥事を出した、超高級日本料理店の一件だ。確かに恥の上塗りという表現がピッタリくる内容であるが、それにしても、なんとも情けないオトコの姿である。

キャストは、荒波を潜って来たと見える母親取締役と、見るからにひ弱そうな長男取締役。母親の謝罪文朗読の後の質問のシーンだ。のっけの質問から長男早くも立ち往生で、しどろもどろ。最近のマイクロフォンは性能が良い。あの亀田のダーティな試合の時にもセコンドの声を拾っていたが、今回も、母親が小声でこう言えあぁ言えと囁いているのが見事に収録されている。

この長男坊、歳は44~45と聞く。20代や30代の「ぼんち」ではない(ぼんち=ぼんぼん)。仕事や人生の経験を積んで、最も仕事の出来る脂の乗った年代だろう。しかし、自分の言葉で発言したり、表現したり出来ないこの体たらく。同じ男として情け無い限りである。

この二人の母子を見ていると、親離れ、子離れが出来ていない親子なのではないかとも思う。日本はそんな親子関係が多いと聞くから、こんなことで驚いてはいけないのかも知れない。


日の丸弁当事件

2007年12月07日 | いろいろ
小学校時代に忘れられない事件がある。

小学校5年の夏休みに都会から東京の田舎に移った。移った所が、東京都北多摩郡xx町だから、これは、東京の田舎である。何よりも嬉しかったのは給食から弁当になったことだ。あのまずい脱脂粉乳のミルクとおさらば出来るのだから言う事なしだ。あの脱脂粉乳のマズサは表現出来ない。鼻を摘んで飲んでも、表面に張った、あの何とも言えない膜が喉を中々通過しない。だからオエッとなるのだ。胃に入った物が逆流しかける瞬間だ。だから、毎日の弁当は、いささかのピクニックである。そして、事件は起こった。

ある日、弁当箱を開けると、手が止まった。そこにあったのは、白いご飯と真ん中にポツンと一つ、赤い梅干。他のオカズは何処に? 今、大変な事が起こっている。こんな事は回りに知られたらいけない。早く、しかも、何食わぬ顔をして隠さなければ。しかし、そんな怪しげな動作はバレる。皆、どうした、どうした、と覗き込む。お後は、食べる振りして唯唯時間が経つのを待つ。中身は帰りに土手に捨てて帰った。よし坊の中ではとんでもない大事件だ。妹はどうだったのだろう。夜、何気なく観察したが、妹の弁当はどうも普通だった様だ。聞いたわけではないが、そんな感じだ。この事件は心のポケットに仕舞いこんだ。
断っておくが、当時の弁当箱はブリキだかアルミだかの15センチx20センチくらいの箱型で、上4分の1くらいにおかず入れ部分があるもの。ご飯とおかずが別々の器なら、おかずの器だけ忘れもしようが、兎に角弁当箱は一つだから、断じて忘れたのではないのだ。

3年前、妹と弟の3人が会う事になった。個別には何度かあっているが、3人一堂に会するのは実に30何年ぶりだった。この時、初めて梅干事件の事を話し、妹はどうだったのか聞いてみた。妹は弁当でそんな思いをしたことはないと言う。人間とは面白い。こんな些細な事が心の隅に残っているのだ。

そもそも、我が家が裕福ではなかった事は小さい頃から分かっていたので、当時のよし坊は、この一件で、やはり家は貧乏なのだと結論したわけだが、真相は分からないままである。因みに、日の丸弁当はこの時だけであった。

こんな事が、今の学校で一度でも起こったらどうなのだろうか。間違いなく、イジメが始っていたのではないか。が、よし坊にそんな事は起こらなかった。今と比べりゃ、ガキの心も社会の心も遥かにおおらかな時代だったのだろう。

この梅干事件の話は、ワイフとの貧乏度論争に発展していく。

還暦

2007年12月03日 | いろいろ
やっと、と言うか、ついに、と言うか、そして何となく今年還暦を迎えてしまった。今や、ワイフと話す話題は圧倒的に終着駅の話だ。

ワイフの両親は94歳と90歳で長命である。体力は衰えているものの、元気と言ってよい。我が母親も85歳となった。奈良の家の向かいのおじいちゃんも83歳だと言う。足腰もしっかりしており、見るからに70歳台である。兎に角、戦争と戦後のひもじさを経験した世代が最も長寿らしい事が分かる。白いご飯とメザシに味噌汁。おかずが無いときは味噌汁のぶっ掛け飯だ。今の平均的家庭では、こんな食卓にはお目にかかれまい。

一方、新聞などで報じられる著名人を見ると、長寿もいるが、その多くは70歳台で人生を終えている。どうも、70歳台が平均的な終点らしい。

と言うわけで、よし坊も70歳台でテープを切るべく駅伝の最後の区間を走り出したようなものだ。どんな走り方をしたら良いのか。走らずに歩いて行くか。先日日本へ帰ったが、何処へ行くにも歩きが必要で、兎に角疲れた。アメリカに居ると足腰の衰えは想像以上。食べ物と運動量を考えると、日本人はアメリカ人より遥かに健康である事は間違いない。