よし坊のあっちこっち

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澤穂稀の拓いた道 (森哲志著)について

2012年07月29日 | サッカー
オリンピックが始まった。その一週間前の7月20日、「澤穂稀の拓いた道・なでしこ躍進の秘密」(平凡社)と題するノンフィクション物が出た。ジャーナリスト森哲志氏の手になる著作である。

この本は、ボール蹴りに興味を持った少女が、”男の世界”という逆境にもめげず、その逸材を見逃さなかった指導者達に育まれ、逞しく成長していく様が余すところ無く描き出されている。この本は我々に様々な事を投げかけてくれる。

まず、小学生にして、オリンピック出場という夢の実現に邁進し、それが実現させ、そして今、ロンドンで王手を賭けようとしているのだから、これを凄いと言わずして何と言う。改めて、夢とか目標を持つ大切さを考えさせられる。

それにしても、いまさらながら思うのだが、スポーツの中で最もグローバルなサッカーでさえ、女子サッカーというのはかくも冷遇されてきたかと思わざるを得ない。システムの問題もある。小学生で逸材の片鱗を見せても中学生になると、女子サッカーを設けている学校が殆ど無いから、それを生かそうとすると、転校を余儀なくされる現実。これに比べるとアメリカは遥かに恵まれた環境だ。小学校から大学まで、それぞれにサッカーのクラブがあり、思う存分プレーが出来る。アメリカ女子サッカーの強さの秘密だ。

この本は、澤のサッカー人生を語り、それを通してのナデシコを語っているが、もうひとつ、重要なメッセージを発していると思う。

本にもあるように、澤の大きな転機になったのは、「外」と接した事だ。異郷に身を置き、異文化に触れ、違いを認識し、それを理解し、その中で更に自分を高めていく。若者よ、チャンスが有れば外に出よ、チャンスが無ければ作って出よ、そう言うメッセージとして受け取っても良いのではないか。

チャンスが有っても日本を出たがらない今の日本の若者の現実に警鐘を鳴らしている気がしてならない。

久しぶりにサッカー

2012年07月27日 | サッカー
今オリンピック男子サッカーが終わった。今までの日本代表も含めての試合運びの中では非常にオーガナイズされた日本チームだったように思う。今日のようにオーガナイズされた試合は記憶に無い。日本のプレシャーが効いていた為、スペインがなかなか前線突破が出来ずに終わってしまった。この勢いで決勝ラウンドで突き進んで欲しいものだ。

昨日のナデシコ勝利、澤が起点となった先制点が効いている。問題は宮間の配給にキレが無いのと、やたらとパスミスが多かった。ナデシコの身上が”女バルサ”であるなら、これはいただけないし、フィジカルの劣るチームが勝てる要因はパスワークにあるとしたら、今後に不安を残す。それにしても、2-0と先制されたアメリカが終わってみれば4-2の勝利。アレックス・モーガンが二発で、これでワンバックの次の顔に決まったのではないか。均衡を破るアメリカの3点目をカーリ・ロイドが決めたのも良かった。ネット左隅に鮮やかなシュートだった。

ついこの間、コロラト・ラピッツの木村光佑がポートランド・ティンバースに移籍した。移籍後の試合を見たが、一段と精悍な顔付きで走っていた。日本のサッカー界はアメリカなど見向きもしないが、木村よ、頑張ってもらいたい。客観的に見て、MLSは日本のJリーグよりはるかに面白い。


ビン・ラーデン追跡の10年 (8終)最も長い一日 (Peter Bergenの本を読んで)

2012年07月26日 | アメリカ通信
実行部隊を乗せた二機のブラック・ホークとバックアップ部隊を乗せた三機のチヌーク・ヘリがパキスタン西部国境に近いアフガニスタンのジゃララバード基地を飛び立った。いずれも、レーダーに感知されないよう、超低空飛行が出来、ステルス対策が施されている優れ物である。作戦には予期せぬ事故がつきものである。最初のヘリが着地に失敗し損壊するも隊員は無事で、そのまま降機、2機目は予定を変え建物の外に着地、隊員は建物の中に消えていった。建物上空の無人偵察機Droneから送られてくる識別可能映像はここまでで、隊員達が再び出てくるまでは詳細は分からない。ホワイトハウスやCIAなど関係者にとって長い40分が始まった。
部隊はまず”クウェート人“を射殺後、その兄夫婦を射殺、二階でビン・ラーデンの息子のカリードに遭遇して射殺、最後のビン・ラーデンの部屋に突入し射殺(胸と左目に二発)。当夜11人の大人が居たが、男4人と女1人射殺、女2名重傷の結果となった。
ジャララバードの作戦本部のマックレイブンのもとに実行部隊から“Geronimo”の連絡が入る。Gで始まる単語は目標物確保の意味である。続いて”Geronimo EKIA”が入った。Enemy Killed In Actionである。直ぐさま第一報としてホワイトハウスにリレーされた。
部隊はビン・ラーデンの写真を撮りワシントンへ転送、DNA鑑定の為に必要な組織を遺体から採取、そして損壊したヘリ(一機48億円相当)の爆破を終えて帰路につく。ジャララバードでは、ビン・ラーデンの遺体を前に、マックレイブンと専門家による遺体確認と検分が行われる。特徴データでの確認作業中に身長計測用の巻尺がない事に気づき、マックレイブンは基地の隊員で同じ背丈の者を横に寝かして、データと合致した事を確認。目視確認でもビン・ラーデンと判断し、オバマに電話を入れる。
マックレイブンは作戦でヘリ一機を失った事を冗談交じりにこう謝罪する。「閣下、私はあなたに6千万ドル(48億円相当)の借金を作ってしまいました」。すかさずオバマが切り返す。「こういう事じゃないかな。私はパキスタンに6千万ドルのヘリを置いてきてしまったし、君は巻尺を買う1ドル99セントを持っていなかったということだよ」。この話が数日後の伏線になる。作戦完了後のホワイトハウスでのオバマと側近による奇襲作戦検討会のことである。ビン・ラーデンの身長測定の巻尺が用意されていなかった点を除いてマックレイブンの準備は完璧だったと総括した後、側近のトニー・ブリンケンは、オバマに「マックレイブンに金メッキの巻尺を進呈したらどうか」と提案する。4日後、マックレイブンがオバマに面会に来たとき「ヘイ、君に贈り物がある」と言って、記念盾に載った巻尺を差し出すのである。

アナウンスメント
オバマは、二機のヘリがパキスタン領を正確に離れた事を確認してまず電話をしたのが、前任の大統領ジョージ・ブッシュであった。続いてビル・クリントンに電話を入れた。クリントンがアメリカ大統領としてビン・ラーデンの殺害を命じた最初の大統領だったからである。次に英国首相デイビッド・キャメロンに繋いだ。盟友国にして2005年のアルカイダによるロンドン地下鉄爆破テロの犠牲国である。最後の当事国となった同盟国パキスタンのアシフ・アリ・ザルダリ大統領に入れる。彼の妻はテロにより暗殺されたブット女史である。
次の問題は、いつ公に発表するか。情報漏えいを恐れて直ぐにでも発表すべきと言う意見も有ったが、オバマはDNA鑑定を待つことにした。しかし、現地パキスタンで騒ぎが広がりつつある事、特にパキスタン軍が真相把握に乗り出し、先手を打たねばならない事等から急遽、当日の5月1日夜11時30分から大統領の重大発表がある旨メディアに通告された。

11時30分、テレビの画面にオバマが登場、長い10年の追跡に終わりを告げた。

ビン・ラーデン追跡の10年 (7)決断:アボッタバードへの道 (Peter Bergenの本を読んで)

2012年07月24日 | アメリカ通信
3月に入り、オバマは関係閣僚会議を招集した。作戦案は4つ。B-2による爆撃、無人機による攻撃、小規模部隊奇襲作戦、パキスタン軍との共同作戦。民間人犠牲者の増大、不確実性、秘密リークの可能性の点から、3つの案が脱落し奇襲作戦が残った。オバマはマックレイブンに具体的計画の立案とその実現性の検討を指示する。
マックレイブンはDEVGRU(旧SEAL6)による綿密なシミュレーションを行い、作戦が可能であるとの確信を得て4月25日にその旨オバマに上奏する。作戦概要はこうである。アフガニスタン東端にある米軍ジャララバード基地から奇襲部隊を乗せたブラックホーク・ヘリ2機(SEALs22名、通訳1名、軍用犬1)及びバックアップ部隊のチヌーク・ヘリ3機が出動、奇襲部隊は建物の中庭に降下、住居に侵入しビン・ラーデンを捕捉する。生きて捕捉出来ない場合は遺体を回収し基地に戻る。基地で本人確認の後、空母カールビンソンへ移し、そこで海葬とする(後々墓を作られて英雄視されては困る事と、イスラムでは海葬が許されている事から)。
4月28日、オバマは最後の関係閣僚会議の招集をかける。そこでメンバーに十分な討議をさせる。オバマを支える3人の重要閣僚の考えはこうである。副大統領のバイデンは、ビン・ラーデン存在の確証なくば作戦自体に反対、国防長官のゲーツは、確証の無い中では奇襲作戦はリスクが高すぎるとして反対、やるなら空襲を主張。特にゲーツの反対は、過去のトラウマとも言うべきイラン救出作戦失敗やソマリアにおけるブラックホークダウンを目の当たりに見てきたことが大きく影響していた。彼は、この大統領に同じ失敗を繰り返させたくなかったのである。国務長官ヒラリー・クリントンは、リスクはあるがこのチャンスを逃してはならないとして奇襲作戦に賛成を表明した。オバマは議論が出尽くしたところでこう言った。「状況証拠に立脚する限り確立は100%にはならない。単純に言えば確立は50・50である。この確立でやるかやらぬか。一晩考えて最後の決断をしたい」。

翌29日(金)8:20 オバマは前日の会議で作戦賛成を表明していた側近3人を呼び、こう言った。「君たちの考えは今日も変わらないか」。3人とも再度作戦決行を進言した。「私の答えはゴーだ」。この作戦は友好国であるパキスタンにも事前通告しない、完全な極秘作戦となった。決行日は翌5月1日の土曜日とした。実は土曜の夜は毎年恒例のホワイトハウス詰め記者のディナーパーティが予定されており、オバマとしてはパーティが始まる前に作戦を実行したかったのだが、金曜の夜になり、日曜の天候のほうが作戦に有利との現地情報が入り、その判断に従った。この時点で日曜日に通常一般公開されているホワイトハウス見学ツアーを中止する手続きがとられた。土曜日のパーティでは異変に目ざとい一部の記者が日曜日の閉館に疑問を挟んだが、“配管工事”を理由に逃げ切った。かくて「ネプチューン・スピアーズ」と命名された奇襲作戦が始動する。

ビン・ラーデン追跡の10年 (6)影の主役 (Peter Bergenの本を読んで)

2012年07月22日 | アメリカ通信
2011年、最早これ以上物証に近づける情報は取れない、と判断したCIAは1月に入ってオバマに進言する。「物証は無いが状況証拠及び心証はクロ。やるなら今しかない」。これを受けてオバマは建物攻略案の策定を指示する。大統領が軍事作戦への一歩を踏み出した瞬間である。
CIAとペンタゴンはここで密かにアフガニスタン駐在の海軍中将ウィリアム・マックレイブンを呼び作戦計画の立案を命じる。

アメリカの特殊部隊はいくつもあり、それぞれに強力である。陸軍のDelta Force、海軍のSEAL、その他グリーンベレー等。その中でも最強を誇るのがSEALであり、SEALの中のTeam6は”SEALの中のSEAL”と言われている。SEALに応募するうちの90%が途中で落伍していく。SEAL3000人のうち、SEAL6に抜擢されているのが250人。いかに厳しい関門をくぐって来ているかが分かる。
特殊部隊を組織横断的に束ねるのがJoint Special Operation Command、別名JSOCと言われる特殊作戦部隊統合司令部である。JSOCの誕生は1979年まで遡る。当時のカーター政権下でイラン革命によるアメリカ大使館での人質事件が発生、精鋭の各特殊部隊を動員しての救出作戦を敢行するが失敗してしまう。その原因のひとつが“縄張り争い”にあった。そこで翌80年に各特殊部隊を統括する本部としてJSOCを組織し、NCのFT.BRAGG基地に本部を置いた。しかし、このJSOCも最初から十分に機能したわけではない。最も機能的に動けるようになるまでには、イラク戦争と二つ星のスタンレー・マックリスタル(少将)の登場を待たねばならなかった。彼は2003年から2008年までの間にJSOCを劇的に変えていく。最新電子機器を駆使し、JSOC間だけでなく、ともすれば壁が出来てしまうCIAをも味方につけ、新しい全ての情報を世界のどこからも、24時間以内に共有できるような体制に作り上げた。

アボッタバードの不審住居攻略作戦の立案を任されたウィリアム・マックレイブンはSEALのTeam6出身にして、JSOCのリーダー経験者、かつ、イラク戦争では特殊部隊TF121を率い、サダム・フセインを探し出して捕捉したツワモノである。彼の元、SEALを中心とした作戦が立てられていくことになる。

ビン・ラーデン追跡の10年 (5)クーリエを追え (Peter Bergenの本を読んで)

2012年07月20日 | アメリカ通信
トラボラから消えたビン・ラーデンは何処にいるのか。ビン・ラーデンに辿り着く方法はいくつか検討された。ビン・ラーデンは、隠れ家から外部の同士に接触する時、連絡係(クーリエ)を使っていた。探知される電子機器は使用は避けていたのである。そこで、CIAはこのクーリエの所在・動静を掴む事で突破口を開こうと考えた。逆に言えば、他に有効な方法は無かったと言っても良い。そのひとりに、9・11以降のかなり早い段階で、アメリカがマークしていた“クウェート人”がいた。アルカイダの中でどのような地位、機能を果たしているかは不明だったが、その動静の把握は地道に続けられていた。
2010年夏、CIAのパキスタン人協力者から突破口を開く情報がもたらされた。“クウェート人”を尾行していたところ、イスラマバード北方のアボッタバードという町の外れにある巨大で異様な家に入っていったというもの。3階建てで周囲を壁で囲い、家の窓が少ない。CIAの専門家にして、‘要塞“と言わしめた住居である。周囲の調査で2005年頃に建設されたと分かった。果たして、そこにビン・ラーデンは居るのだろうか。確証は無いが、心証はクロである。だが簡単には動けない。
この頃のアメリカは、そしてCIAはひとつのトラウマを抱えていた。イラク侵攻にあたって掲げた“大量破壊兵器”の存在が見事にひっくり返されたことから来ていた。その反省から、物証が無ければ先に進むことが出来ない状況になっていた。建物の中には、”クウェート人“とその家族、”クウェート人“の兄とその家族、何人かの女性・子供の他にもうひとりの「人物」が生活していることまでは分かった。この「人物」は何者か。ビン・ラーデンか、それとも、どこか中東の王子がお忍びで秘密の生活をしているのか。無人偵察機での必死の撮影で、毎日一定時間中庭を散歩する姿までは捉えたが顔までは識別出来ない。ビン・ラーデンは決して顔を上げなかった。CIAでは繰り返し「人物」の査定を行う。ある者は確立40%でビン・ラーデンだ、ある者は80%の確立でそうだと言う。が、全ては推測の域を出なかった。こうして2011年の運命の年を迎える。

ビン・ラーデン追跡の10年(4)弔い合戦 (Peter Bergenの本を読んで)

2012年07月17日 | アメリカ通信
新大統領オバマのメッセージが注目された。タカ派的前政権とは異なる和平模索のソフト路線をアピールしていたオバマに対する世間の前評判は“弱そうなオバマ”であったが、ビン・ラーデンとアルカイダに対しては徹底的に叩くと宣言し、世間に意外な印象を与えた。ブッシュがキリスト教とイスラム教の戦いの図式をメッセージにしてしまった反省からか、明確にイスラムとテロリスト“ビン・ラーデン”を線引きを引きすることによって、敵対の図式を取り払った。その後、オバマはビン・ラーデン捕捉のための戦術レベルをドンドン上げていく。例えばDroneと呼ばれる無人偵察攻撃機を多用し、ビン・ラーデン一派の勢力を着実に殺いでいく。ブッシュはDroneの使用が40日に一回であったのに対し、オバマは4日に一回の頻度であったことから、オバマも相当な強硬派である事が分かる。

それでもCIAの地道な追跡はなかなか報われずに2009年を迎える。そして、この年に大きな転換期を迎える事件が起こるのである。
トラボラから姿を消したビン・ラーデンの消息は様としてつかめない。その時点までのCIAの手法は、電波傍受による分析と協力国の諜報機関からの情報分析に頼り、007ばりの潜入捜査をしていたわけではない。そこに、友好関係にあるヨルダンの諜報機関から耳寄りな話が飛び込んでくる。ヨルダン諜報機関が過激派としてマークしていたヨルダン人医師を逮捕、彼をヨルダン側のスパイに転向させたところ、アルカイダに対するスパイ活動をやっても良いと言っているがどうするか、との問い合わせである。今まで自前のスパイを送り込んでいなかったCIAはこれに飛びついた。といっても、直ぐに信用したわけではない。人物評価をしようという事になり、パキスタン国境に近いアフガニスタンKhostにあるCIA支部に身柄を預けることにした。ここで事件が起こる。支部到着直後、このヨルダン人は自爆し、3人の子供を持つ45歳の女性支部長他CIA要員6名を一挙に失う事になる。アルカイダからの転向は偽りであった。2009年12月30日の事である。

この不幸な事件は、しかし逆にCIAを怒らせてしまった。火をつけてしまったと言っても良い。CIAの中に“弔い合戦”魂が渦巻いていく。年が変わった翌2010年春、パキスタンのビザ申請受付局では通常では有り得ない約400人の米国人の入国滞在申請の処理に追われる事になる。CIA及びその関連のエージェント達が自らの足でパキスタンでのビン・ラーデン追跡をしようと動き始めた。

ビン・ラーデン追跡の10年(3)トラウマ (Peter Bergenの本を読んで)

2012年07月14日 | アメリカ通信
9・11以降、アメリカはアフガニスタンのどこかに潜んでいるはずの本来の敵、ビン・ラーデンを必死に追い求め、首都カブールを初めとして大掛かりな爆撃を繰り返す。これにより、アルカイダ側に大きな損害を与えた事は事実で、カブールは陥落する。居場所を失ったビン・ラーデンはかつてソ連がアフガンに侵攻した時にソ連と戦い。それを蹴散らしたゲリラ戦最適の地、トラボラへ移動しアルカイダの建て直しを図る決断をする。トラボラはパキスタンとの国境に近い山岳地帯で、ソ連も大いに梃子摺り、後に撤退を余儀なくされた程攻略が難しい地形にある。トラボラの裏手はパキスタン領に続き、逃げるのには絶好の立地にあった。しかし、実はこの時点で、ビン・ラーデンは相当追い詰められており、アメリカの果敢な攻撃があれば捕捉も可能だった状況にあった。だが、肝心なところでアメリカの逡巡が彼の逃走を可能にしてしまう。彼の捕捉まで更に6年待たねばならない幕開けでもあった。

何故、アメリカはチャンスを物に出来なかったのだろうか。
ビン・ラーデンがトラボラ山中に移動した事を掴んだアメリカ前線部隊は、確実にビン・ラーデンをたたく為に、トラボラの裏手のパキスタン側への逃走ルートを遮断した上での総攻撃を上奏するが、最終決定機関に到達する途中でボツになってしまう。
総攻撃作戦を決断出来なかった背景は二つ。ひとつは、既にイラク攻撃の準備をしつつあり、兵力を割きたくなかった事、もうひとつは、ソ連がゲリラ戦に梃子摺り、結果的に撤退せざるを得ないほど損害が大きかった事実がアメリカ軍のトラウマになって、総攻撃には消極的になっていた。

追い詰められていたビン・ラーデンは、米軍の大々的な攻撃の可能性を考え、アメリカが逡巡している間にトラボラから忽然と姿を消し、アメリカはイラク戦争へと突入していく。こうしてイラク戦争が主役に躍り出て、ビン・ラーデン追跡は脇に追いやられる。以後、ビン・ラーデンを追うCIA人員も大幅に縮小されていくことになる。

イラクでは一定の成果を見たブッシュ政権だが、彼の政権中にビン・ラーデンを捕捉するチャンスはついに巡って来なかった。

3年ぶりの釣果

2012年07月11日 | 旅行
この前のノースカロライナのアウターバンクスでの釣りが不調に終わったので、満を持してフロリダのレディントンビーチのピアに出かけた。片道、約8時間の旅、日曜日に出発した。日曜日に出発する意味がある。とにかく道が空いていて快適なのである。

最初はクリアウォーターのピア60で釣る積もりだったが、折りからのバケーションシーズンでごった返していたので、急遽、3年前のJuly4に行ったお隣のレディントンビーチのピアに変更。ここは入場料が他より高いのが玉に瑕だが、その分空いていて釣るのにはいい場所である。

泊まりはラキンタ。3週間前に取ったから43ドルと安い。前回と同様の宿である。朝、朝食を急いで食べ、ピアへ。7時半からつり始めた。サビキを入れたとたん、早くもアジが掛かった。初めてワイフより先行して釣り上げた。

約4時間、太陽ギラギラの中でアジ4尾、名前の分からない魚3尾となった。有り難くも、近くで釣っていたアメリカ人が釣ったヒラメを呉れると言う。

月曜日の夜帰宅。さすがにグッタリである。

昨日は3年ぶりの釣果を祝し、これまた久しぶりの刺身三昧。アジのたたきが堪えられぬ。ヒラメの刺身も言う事無し。他の白身もよし。ビールに日本酒、仕上げは手巻き、と胃袋堪能したのだが、少々飲みすぎとなったのは、いつものことである。今回はサワラが釣れなかったので、サンクスギビング前にもう一度行くことに決定した。

ビン・ラーデン追跡の10年(2)イラク戦争の影 (Peter Bergenの本を読んで)

2012年07月07日 | アメリカ通信
2000年、ブッシュ政権の登場は果たしてアメリカにとって良かったのか。

ブッシュは、政権に就く前から「何が何でもイラクを叩く」と考えていた節がある。だから、きっかけを虎視眈々と狙っていたのかも知れない。そして、9・11が起こった。単なるテロではなく、米国本土が初めて攻撃された「戦争」と位置づけ、その矛先をアルカイダではなく、イラクに向き替えてしまった。しかもイラク討伐のアメリカ軍を「十字軍」と言い放つに及び、イスラム全体を敵に回すことになった。イラク戦争で、「強いアメリカ」を国内外に知らしめた功績は大きいが、失ったものも大きい。イラクに突っ込むかどうかで、議論があり、イラクよりアルカイダーアフガン解決を主張する声はかき消され、イラクが優先順位のトップに躍り出た。大量の軍隊がイラクに投入された為にビン・ラーデン捕捉の為のアフガンへの兵力増強が出来なくなり、トラボラの戦いでは今一息のところでビン・ラーデンを逃がしてしまう。

ここで本書から外れ、イラク戦争との関わりを見たい。9・11により、アメリカは一丸となった。一丸となったのはよいが、アルカイダに向けるべきパワーを次第にイラクに向けていくようになる。これは、ブッシュ・チェイニー・ラムズフェルドのタカ派ラインのもくろみ道理だったに違いない。しかし、2003年火ぶたを切ったイラク戦争の結末は、憎きサダム・フセインを倒したものの、御旗の印であった”大量破壊兵器の存在”は無く、再びCIAの不手際が取りざたされた。ブッシュはやりたくてやったのだから良いとして、この結果で大いに傷ついたのは、恐らく当時の国務長官コリン・パウエルだろう。パウエルは、それまでイラク侵攻には極めて慎重なスタンスであったが、政府内部の巧妙な情報操作により、次第にイラク侵攻やむなしのスタンスに移っていく。そして、大量破壊兵器隠匿の写真(実際はそうではない)を証拠として国連でイラク侵攻の正当性をEndorseせざるを得なくなって行くのである。大量破壊兵器など無く、それが身内からの巧妙な情報操作によるものと判明した時の彼の屈辱感はいかばかりであっただろうか。極めて優秀な軍人として、また黒人初の国務長官としての彼の輝かしい人生の唯一痛恨の汚点だと感じたのではないか。ブッシュが「イラクは怪しい」と見立て、それに沿って取り巻きとCIAが色を付けていった図式ではなかろうか。何やら、日本の特捜が最初に見立て、それに沿って無理やり証拠を捏造し積み上げていく手法に似ている。権力の怖い一面がここにある。