よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

日本短訪 (4)お墓を考える

2016年11月25日 | いろいろ
今回の日本行きに際し、当初の予定より数日早くなったのは、母が亡くなったからである。満95歳を二カ月後に控えてのことであった。ひょっとしたら百歳までいくかな、と思っていたが数か月前の骨折で死期を速めた感あり。それにしてもこの世代は長生きである。

ここアメリカでの知人の死でワイフと話たことだが、我々がアメリカで死んだ場合は、火葬後に骨粉にしてもらうだけで葬式の類はしないことにした。その骨壺をどちらかが日本へ持ち帰り家で供養するだけに決めた。わざわざ墓に入れないことにしたのだ。

特に我が家は女系家族だし、今ある墓も家系が途切れればケアする者もなくなり、やがては更地になる運命なら、お墓を持つ意味は殆ど無い。今回母の納骨をした際、約30年前納骨した父の骨は見事に土に帰っていた。跡形も無くなっていた。

日本人は家にこだわり、亡者の住処としての墓に強くこだわる人種だが、納骨した骨も20年過ぎると土に帰ってしまうことを考えると、カタチに拘り過ぎてもいかんのではないだろうか。

今ある墓はいずれ処分することにして、我々夫婦は死んだら骨壺を娘の側に置いてもらい、たまに思い出してもらえば、それで十分であろう。

我が家は浄土真宗だが、49日を魂が彷徨うという他の宗派と異なり、死即成仏というのがいい。戒律も自由とあるから、当時親鸞が教えを唱えたのは画期的なことだったはずだ。

こうした形式を重んずる弔いの方法も最近の簡素化には目を見張るものがある。と言うよりはブラックボックスが長年覆い隠されてきたとも言える。幸い、海外に居る我々は日本に長居も出来なかったから、お通夜を省き、形式的な葬儀、火葬、納骨を一日でやってもらった。

今、お墓を持つべきか、と問われたら 答えはノー、それに尽きる。あとは心の持ちようだろう。

日本短訪 (3)日本で暮らせるか

2016年11月11日 | いろいろ
たまに帰る日本、その短期滞在で思うのは、こんな生活費が高いところで、日本人はよく生活できてるな、と感心する。帰りの機中で、ワイフとこんな会話をした。我々日本に帰って生活出来るやろか?

兎に角日本に帰った途端、エンゲル係数は急上昇して、分かっていながら驚くのである。そしてバカにならないのが交通費。兎に角お札がどんどん飛んでいく。

昔、アメリカ人が日本に来て、物価の高さ、生活費の高さに仰天し、日本人はさぞかし金持ちだろうと錯覚した話をよく聞いていたが、たかだか20年日本を離れている我々でも、今はアメリカ人の心境に近い。そのギャップの大きさに、きっと外国人も戸惑うのだろう。

アメリカで暮らしていると、移動はすべて車だから、確かに注意していないと足腰が弱るのは理解出来る。その意味では、今回歩いたこと、歩いたこと。一日間違いなく一万歩以上は歩いている。世界標準で日本人の肥満が少ないのは、歩くせいであろう。

しかし、若いうちはそれでよいが、歳を取るとそうもいかぬ。毎日歩きながら、歩けなくなったらアメリカの車生活のほうがよさそうだな、とワイフに話を向けると、ワイフも否定はしない。我々もそんな生活にすっかり慣れてしまったわけだ。

物価の問題、移動の問題を考えると、果たして年金生活者が日本で生活出来るだろうか、とふと思ってしまう。だから、いろいろ問題はあろうが、多くの年金生活者はよくやっているな、と感心するばかりである。

アメリカからみて、日本の唯一いいところは、医療費だろう。これは絶対安い。日本人はこの点だけは絶大な恩恵を受けていると自慢してよいのではないか。だから、我々が日本へ帰るきっかけになるのは、恐らく病気だろう。そうなったら躊躇なく帰ると決めている。

良くも悪くもアメリカ暮らし。いつまでここに居るのやら。