よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

映画三昧 - かくも長き不在 (再び)

2019年08月28日 | 映画
この映画の事を書くのは3度目だ。去年、待ちに待ったDVDが発売されたので、早速アマゾンジャパンで購入、実家の娘に保管してもらっていた。運よく今年の春にニュージャージーの娘が日本出張する際、実家に寄るというので持ち帰ってもらったのである。

先日、実に50年振りで観た。アリダ・バリとジョルジュ・ウィルソン。当時印象的に脳裏に残っている二つのシーン。ダンスをしながら鏡に映った戦争の傷跡、頭の傷。そしてラストの、向かってくるトラックに立ちはだかる記憶喪失の夫と衝突音。戦争の傷跡を扱ったこの映画は、やはり、心に残る佳作である。

あの頃、日本は実にいい外国映画を選定していた。戦後のアメリカ文化全盛の時代にも、フランス、ドイツ、イタリア、スェーデンを中心に日本に持ち込んでくれていた。当時の東和などの配給会社のお陰でもある。特により質の高い映画を、と展開してくれたアート・シアター・ギルドの存在は非常に大きいだろう。

アメリカに居ると、ハリウッド映画がすべてのような空気が蔓延している。加えて金さえ入ればいい、感覚だからCGを駆使した冒険ヒーローものが何と多いことか。ハリウッド映画を益々つまらない物にしている元凶みたいなものだ。

映画の質、という点では、ヨーロッパの映画を数多く観ているわけではないが、ヨーロッパの方がハリウッドよりレベルが高いように感ずる。ベネチアやカンヌ、ベルリンの映画祭で選ばれる映画の方がどう見てもアカデミーで選ばれた映画より質が高いように思うのはよし坊だけだろうか。

「かくも長き不在」。待ち焦がれた元恋人に漸く再会したようなものだ。長年の引っ掛かりがひとつ取れた。

ハラハラ物の今年のグリーンカード更新

2019年08月19日 | アメリカ通信
今年2月に永住権が切れるので昨年9月に更新手続きを取った。前回は家族も含め、申請後の政府機関出頭による本人チェックを終えれば遅くとも一か月以内に更新カードが届いたので安心していたのだが。

一か月過ぎても来ない。その前後から登録しておいたメールアドレスに「当該案件検討中」なる文言が届き、ほぼ半月毎に同じ文言のメールが来出した。そして4か月が過ぎた。何か変だ。トランプの移民政策のあおりを食って何かが起きているのでは? 早速政府の公式サイトで調べたら、「更新カードの発行は長くても3か月、申請後3か月以上経過したらメールでの問い合わせ可」とある。

早速問い合わせしたが3週間後に来た答えは「検討中」。その後は再び「検討中」のメールが半月毎に来るようになった。そうこうしているうちに、まずNZの娘が更新時期を迎えた。申請後一か月以内にカードを入手。そして6月ワイフの更新となり手続きを済ませて二週間後にカード到着となった。 俺はどうなるんだ! この時点でワイフとも話し、今年の日本行きは見送ることにした。

7月に入り8月の初めまでに来なければ、弁護士でも立てるか、と思っていたところにメールが入った。「案件アクションが取られた」とある。数日後新しいカードが無事届いた。

早速政府公式サイトをチェックしたところ、最新の情報には「グリーンカード更新には10か月掛かる」となっていた。9月に申請したから丁度10か月である。

同じ家族でもこの差は何だろうか。ランダムに抽出する嫌がらせか、処理能力に問題が出ているのか、それとも移民政策の何らかの影響か。 今もって分からない。何はともあれ、これで今年日本へ行ける。

昭和の足跡 (3)野球

2019年08月13日 | 昭和の足跡
小学校の頃のスポーツと言えば野球だった。低学年ではゴムボールを使った三角ベースの野球で、人数も3~4人いれば成立する。ワンバウンドの手打ち野球である。ゴムボールを変に捻くって投げるとワンバウンドだから、あらぬ方向へバウンドする。これが変化球である。ボール一個で出来る、何とも他愛のない野球であった。

そのうち軟球野球にをクラスの友達とやるようになった。専ら野球の上手い吉井君というのがいて、全体をリードしていた。よし坊はどういうわけか、先発のピッチャーをやっていた。ゲームが半分過ぎた頃、決まってピッチャ‐交代で吉井君が投げ、よし坊はショートに回る、と言うのがパターンになっていた。

当時、何故か覚えているのが早慶戦である。何度か父に連れられ観に行った覚えがある。父は一時期整備の勉強で早稲田の夜学に通っていたこともあり、早稲田びいきだった。それが影響してよし坊の早稲田ファンとなった。当時の早稲田のユニフォームは白にエンジである。いつの日かあんなユニフォームを着てみたいと思ったものだ。

野球に明け暮れていたのも、小学校5年が最後だった。杉並からみれば、当時まだ田舎然としていた北多摩郡の小平へ引っ越すことになったからだ。

あの頃、日本中が”野球”だったように思う。

昭和の足跡 (2)道

2019年08月06日 | 昭和の足跡
小学校5年まで、当時東田町(今は成田東というらしい)に住んでいた。近くに大宮公園(これも今は和田堀公園というらしい)があり、相撲の花籠部屋があった。

当時の道はどこかしこも土の道である。子供は外で遊ぶものだと、土の道を駆けずり回り、メンコやチャンバラごっこに明け暮れた。

大宮公園 思い出すのは事件だ。松本清張の「黒の福音」の題材にもなった、BOAC(英国航空)の日本人スチュワーデス殺人事件である。その日、外で遊んでいた、急に周囲が騒がしくなり、遊んでいた仲間と公園に走った。既に規制されていて、何が起きているのか分からなかったが、後で殺人事件だと知った。この大宮公園は我々の探検の場所だった。川沿いにちょっとした洞穴などがあり、何が出るかわからないので、竹棒を片手によく探検そしたものだ。竹棒は家の近くに竹藪があり、チャンバラごっこの刀に使ったものだ。

花籠部屋 初代若乃花のこの部屋は、家から阿佐ヶ谷へ通じる細い道沿いにあった。通ると部屋の二階から洗濯した力士のふんどしが所狭しと垂れ下がっていたものだ。不幸なことに、まだ小学校だったはずの長男が事故か何かで亡くなり、喪服姿の人々が集まっていた所を見に行った記憶がある。

東伏見邸 家の近くを通る五日市街道から阿佐ヶ谷に抜ける小道を直ぐ入った右手一帯が旧宮家の屋敷だった。正門は五日市街道に面していた。この中に高貴な人が住んでいるのだなと、思いながら通ったものだ。

五日市街道  新宿方面へ行くのに関東バスが通っていた。道が狭いから、対向時は車掌が降りて笛を吹きながらバックの誘導をする。バスの車掌は当時の女性の憧れの仕事のひとつだったのだろう。

どの道も土だった。五日市街道沿いには田んぼがあり、灌漑用の水路にはオタマジャクシの子がわんさと生息し、道路わきの泥沼にはザリガニがいた。どこもかしこの土の匂いがしていた。

約15年前、日本へ行った折、懐かしの旧東田町を訪れたが、当然のことながら、昔の面影は微塵もない。そこは確かに別世界だった。